少し感じは異なるが、大阪城もまた古い時代を記念する大きい遺跡である。中の嶋あたりに高層建築が殖えれば殖えるほど、大阪城の偉大さは増して来る。そうしてそれは、江戸城の場合とは異なって、まず何よりもあの石垣の巨石にかかっている。あの巨石は決して「何げのない」「当たり前」のものとは言えぬ。のしかかるように人を威圧する意志があそこには表現せられている。
――和辻哲郎「城」
和辻の文章は、いうまでもなく固有名詞に非常に頼っている。青春の趣がある。青春時代は、固有名になにか魂が宿る的な議論が好まれる。しかしこれは、ちょっと中年以降をバカにしている。アレでだいたい通じ合えるのが中年である。和辻は、「のしかかるように人をアレするアレ」とでもいえば、ナショナリズムを回避できたのに。
逆に、固有名が意味を持つときがあって、死んだときである。死ぬ一年前ぐらいに大江健三郎と行った対談のなかで、三遊亭金馬が、むかし秩父宮がなくなったときにお棺の前で一席やったと言ってたけど、いまでもこういうことあってあるんだろうか。金馬と秩父宮、この組み合わせには過剰な意味がある。秩父宮は宗教葬を拒否することもなかった気がするくらいだ。
一部で「言語の本質」みたいな本が評判になっていて、われわれはアレの存在を言語接地問題みたいに奇妙に納得しつつあるのだが、そうかんたんにはいかない。我々の言語の魔術は我々をいつも狂わせる。「言語の本質」だってその魔術の一部なのである。いまはオノマトペの重要性そのものに従って、――初代ゴジラの足音のドーンドーンもいいけど、「大魔神」のボグォボグォもいいよな、とか言っていればよいかもしれない。いつも意味の広がり危険である。ゴジラも大魔神も野球選手に冠されてから陳腐になってしまった。
「鬼太郎誕生」も意味が過剰であった。悪者が倒されるときに水木という人が「ツケは払わなきゃなぁ!」と言っていたがこれだけで良かった。