その頃この町の端に一つの教会堂があった。堂の周囲には紅い蔦が絡み付いていた。夕日が淋しき町を照す時に、等しくこの教会堂の紅い蔦の葉に鮮かに射して匂うたのである。堂は、西洋風の尖った高い屋根であって、白壁には大分罅が入っていた。
日曜になっても余り信徒も沢山出入しなかった。
その教会に計算翁と渾名された翁が棲んでいた。
――小川未明「点」
お寺に囲まれていた町で育ったので、そもそも教会と大学が結びついているような空間に対する恐れが昔からあった。そして、わたくしにとって、大学入試なんてのも――そもそも本格的な入試というものも田舎にはない文化であっったようなきがする。わたくしはセンター試験第一期生だ。雑な言い方すると、本質的には、AかBかという風な読解はあり得ない。だから、AかBではなく、その間のように見えるところのどこかだ、ということを選択させるのがセンター試験のような形態だが、――受験生はへたするとこれをAかB式の思考の一種だと思ってしまう(たまたま選択したものが解答だったときは特にそうだ)。記述式では選択じゃなくもとから生成させなくちゃらならぬが、いざ書こうとすると、AとかBの言い方になってしまう。やっぱり弊害は大きかった。
わたくしもつい、例えば、「エヴァンゲリオンて、昔の少女漫画にいた13頭身ぐらいの色男に仮面ライダーの頭部をくっつけてナイフもたしたかんじだ」とか考えてしまう。せいぜいABCDと付け足す思考である。
わたくしも勝手に博士課程にすすんだが、迷いはなかった。こういうものは迷っている時点で負けという気がしてならない。必然性というものが存在するのである。しかし、学者の業界にはいろんなにんじんがぶら下がっている。ただの100メートル競走に勝手ににんじんが障害物としておいてあり、それをぜんぶ咥えてゴールした奴が一位みたいなやばいゲームになっている。つまり、ニンジンはABCD、、としてのものである。さすがにわたくしは、もともと生来のあれにしたがって、そういうものをいちいち咥える習慣がなく、必然性に従っている。
昨日は、強風で、庭にあった鳩の糞が彼方に飛んでいった。