★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

不真面目な猿

2024-05-14 23:21:55 | 文学


如來其時大きに罵って曰く、「你野猿の徒何事をか修し得たるや。先より我掌の内にのみ往来して、敢て躍り出る事あたはず。你が五根の柱と見しは我が指なり。疑はしくば此指を見よ」とのたまへば、あやしみさしうつむきて是を見れば、如来の右の御手の中指に、「齊天大聖到此一遊す」と、我が筆跡にて書付けたり。此に至つて悟空大きにおどろき、 急ぎの掌の中を飛下らんとせし時、如來忽手を翻して手中に提げ、西天門より出給ひ、五指を化して五行山となし、悟空を山の下に押入れ、「唵嘛呢叭咪吽」の六字を金書したる札を、山の頂にはり付給ひ、土地神祇におほせて悟空を守護せしめ、飢るる時は鐵丸をあたへ、渇する時は銅汁を呑ましめ、渠が災充ちて人の救び出すを待しめ給ふ。

いまでも、壁に「**只今参上」とか書いて去って行く暴れん坊がいるのか知らないが、すこしむかしは「新宿なう」とかいちいち言ってくるバカはそれに当たっていたであろう。しかし、まあ自分が一番世界でエライと思っている時点で、大馬鹿であるとともにさすがに自分の自意識に対しては真面目であるとは言えるであろう。

わたくしは研究の都合上、戦時下の文士たちの文章をたぶたびよむが、その国策的文章のなかにその手抜き仕事ぶりがものすごく感じられるものがかなりあることが気になっていた。ここから読めることは、無論プロテストなんかではない。こんなに根本的には不真面目だから敵対したら何されるか分からんぞという不信感である。だいたい同調圧力とか言うけど、そのじつ不真面目圧力なのであって、国策にしたがう文章というのは、例外を除いてほとんどこの「真面目ではありません」というメッセージを発することで為政者を安心させているのである。現代でもまったくおなじである。

あらゆることが国策化するとなにがだめになるかというと、われわれがけっして真面目に物事にとりくめなくなるからである。で、本人はふまじめだったから、「あのときは強いられていた」とか言い訳できるし、それは嘘ではないんだ。そしてだからだめなのである。

「研究者の皆様へ~研究力復活へ、それぞれができることから取り組もう」みたいなのがメット上を騒がしていた。少し読んでみるとあいかわらず、確かに性根が悪い根性論だとはいえ、ある意味、根性論のレベルをなんとかしていただきたい。つまり、こういう国策文書は100%手を抜けと言っているのである。我々の根性を頭が悪いスローガンで汚染しているのではなくて、真面目にやるなといっているからタチが悪いのだ。

教職のブラック化が本質的には勤務時間の問題ではなく、精神の自由の問題であるのは研究も同じだし、金と時間を与えられても事態は劇的には変わらない。すでにそれで変わる可能性がある人は金を取る研究にシフト済みだ。問題はそうではない人が苛々しながら研究に集中できないことである。そのなかで集中できる人は、まわりが嵐でも興味のあることは集中できてしまう気質のひとたちで、これはこれでどこか営為に欠陥がある。「風立ちぬ」で描かれたエンジニアなんてそれで、宮崎駿は自分を裁く勇気が最後までなかったのだ。

昨日、授業で喋ったが――、為政者が腐っているときに、しもじもが腐っていないことはなく、たいがい上も下も腐っている。だからそれに堪えきれない革命精神もその腐った心根で乱暴になって暴発するのである。で、うまくその腐り具合を反省できないと、革命後はもちろん地獄である。

たとえば年代期風の書き方、私はこれは昔から嫌で、読むのも書くのも退屈だ。だから必ずひっくり返して、順序をばらばらにして書く。

――梅崎春生「私の小説作法」


梅崎春生は腐り具合につきあうのが嫌だったのであろう。しかし、われわれはその順序をばらばらにするのにもいい加減堪えられないタチであって、梅崎の場合は、ひっくりかえす(敗戦まで遡行)ことに帰着した。そういえば、わが業界でも、けっこう敗戦に遡行する研究が、反省のポーズでなされることがあって、これは、ある意味で、戦後に対する敵対であり敗戦なのである。「ゴジラ-1.0」もそうである。日本の無力化と敗戦への遡行は、立場の違いを超えて、戦後に育った自身への自己否認である。まじめではないのである。

トラウマや不安から「脱却」しようとすること自体がやばくて、いま政府が言ってる偽情報はゆるさんとかいうのはファクトの精確さへの追及とは全く関係がない。日本全体での不真面目病のあらわれだ。

わたしもまた、神道復活のためにはもういっかい仏教と習合した方がいいと思ったりもしたことがある。まったく不真面目な意見である。