★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

濱野智史はカイヨワも大澤真幸も宮台真司も超えた――〈信者〉としての社会学者

2013-06-04 23:15:36 | 思想


一昨年、私が大学院の授業で「マチウ書試論」を扱ったときに、念頭にあったのは、震災後の状況を宗教的なものと見立てることであったが、まさか濱野氏によってAKB48が「関係の絶対性」を参照して説明されるとはおもっておらず、びっくりというか、ある意味さもありなんという感じでもあるのだ。「マチウ書試論」に現れているセンスというのは、当時のマルクス主義者たちにとってより、現代のオタクたちにとって「腑に落ちる」はずである、とかなんとか、私も授業中にしゃべった記憶がある…。宗教が死生観の問題というより関係性の問題として感じられるという?、濱野氏の感覚も実によくわかる。わかるだけだが。

が、とりあえず、濱野氏のこの本、吉本の文章が文学的に格調高かった(それ自体を読んでいれば、そんな感じがしないのが吉本の良さなのに…)ことがあまりにわかるほどの、濱野氏の恥ずかしい名文で満ちており、ある意味、この本の題名を「濱野智史はカイヨワも大澤真幸も宮台真司も超えた――信者としての社会学者」と変更したくなる。わたくしは、どうも社会を論ずる社会学者たちの「社会の中にいるくせに社会を論じてよいものか、でも私は社会学者だからよし」という自意識が、客観性で、というより「図式」で人を驚かすような態度を醸成させるのが好きではないので、「ぱるる」(←これが人であると今回初めて知った)が好きすぎて、大澤真幸のいわゆる「アイロニカルな没入」を全力で否定してみせる濱野氏の方が、すばらしいのではないかと思う。「神が見ていらっしゃる」を「ぱるるがみていらっしゃる」に置き換えて平気な感性こそ、ある種、社会学が人間性を取り戻したといえるのではなかろうか。

わたくしは、最後にAKBが「祭政一致」のシステムだと示唆しているところは余分だったと思うが、…というか、議論はそこからはじめればよかったのではないか。…と考えてしまうと大澤真幸の本みたいになってしまうであろう。

ここ数年、わたしも宗教文学関係をつっついていたが、ファシズムやロックコンサートを宗教の問題として捉えることには反対である。そこには、本当に新興宗教にはまり込んでしまう人々の現実性に対する畏怖が欠けているような気がするから…


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