★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

今倭水人好沈没捕魚蛤

2022-09-29 23:43:08 | 文学


我くるしむも是ゆへなり。藤には春の。雨風をだにいとひしに。ましてや人の手して。折事の情なし。昼見らるゝさへ。惜きに。見ぬ人の為とて。折て帰りし人の。妻や娘のにくさに。かく取かへしにありくと。いふかとおもへば。いつともなふ。影消てなかり。

二〇世紀初頭の西洋の女優の写真など見ると、花で自身を飾っていることがある。そういえば、我々はあまりそこまで直接的には飾らなくなった気がする。お花の柄などはどちらかというと中年以降の主張みたいな見方すらあるほどである。我々は抽象性に美意識までをおかされている。

今日、はじめて『魏志倭人伝』をしっかり読んでみたが、なかなかいい紀行文だと思った。邪馬台国論争の道具にされてしまったこの書であるが、紀行文としてみれば十分だ。伝聞や事実誤認はもちろん含まれているのは当然なのであるが、感じられるのは、――海中の孤島に広がる様々な倭国の諸国を、今のような上から目線や差別心ではなく観ている感じである。差別心と観察眼は人の考えるほど前者に常に支配下に置かれる訳ではない。

夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。(夏后少康の子が、會稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ち体に入墨をして、蛟竜の害を避ける。いま倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。)諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。(その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東冶(福建閩侯)の東にあたる。) 其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。(その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿 (ゆう)の布を頭に掛けている。その衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけであり、ほとんど縫いつけていない。婦人は、髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣(一重)のように作られ、その中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている。 )

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D)


「今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾」と、自分の文明から観てちがうようでいて同じ肉体の様子をみている。入れ墨が飾りとなる歴史まで日本人の肉体から想像する。入れ墨が動物への威嚇の方法だったこと、つまりほかの動物の大げさな形状との関係において描かれるくらいなのである。同じ人間の違いなど無に等しい。そのなかで生じてくる戦争と中国との権力関係は、いまの権力関係はちがっていたに違いない。相手を野蛮に思うことは、自らの野蛮性と相通じていたに相違ない。わたくしはとりあえずそう思った。

昨日から、菅前首相の弔辞、あれは誰かゴーストライターがいたに違いない、みたいな話題が盛んである。役所的観点から言えば、スガ氏個人の完全なる原稿がああいう場でそのまま成立することはありえない。もとは自分で書いてるかもしれんが。逆に、なんのチェックも入っていなかったとすればそっちの方が問題だ。おれは子供の頃から弔辞を5、6回ぐらいやってるけれども、誰かにチェックしてもらって読んだし。。。ケースにもよるが、弔辞であまりに個人的な感情を吐露しすぎるのはよくない。一部は涙してくれるかもしれないが、「調子に乗るな」という反応も必ずあるものなのだ。故人は弔辞をする者にとってだけの故人ではないからである。菅氏の弔辞が個人的感慨を強調しているのは、安倍氏の評価を我々が決めますよ、「国葬」の意味合いも公共的には決めませんと宣言しているようなものだ。そもそも友人代表みたいなのが国葬で弔辞をやるべきとも私は思わない。総理大臣がAIみたいに喋ればそれでよいと思う。要するにAIなら、国民の総意が機械的に生成されるかもしれないからである。

むろん、冗談である。そんなことをしても意味はない。国民の総意とは合意形成プロセス全体のことであって、意見の集合のことではないからである。総理大臣とか国会議員はわれわれの抽象的存在で人間じゃないんだ。しかし現実はもうちがっている。今回のように、現象として――街の声がAIみたいになって、お偉方が「人間的」になっている。三島由紀夫のいった、毛沢東の言葉は人間的だが幇間たちの言葉は読めたもんじゃない、という現象の本格的な到来である。

で、現象ではない我々の実態は、そのいずれかでもなく、全体的に読めたもんじゃないのだ。ナルシスティックなセンチメンタリズムがぬけない場合が多いからである。自虐も保守もナルシスティックなのでお互いにキモくてやってられないのであった。個人の輪郭は結構だし、決然的自我も結構だが、その甘さとふにゃふひゃしたかんじが耐えられぬ。で、それを自意識上に投影した観念は怨恨である。本当は、我々の世界はもっと魚を捕まえて入れ墨で相手を脅す世界から離れていないにも関わらず、である。

ズッ友だったかはともかく、安倍政権は菅氏のおかげである。で、菅氏を支えていた強力なやつもいる。個人のリーダーシップなんかしれたもんだ。

わたくしは、「新しき言葉はすなわち新しき生涯なり」っていう高校の玄関の前に据えられた藤村の碑をみて高校時代を過ごした。これはなかなか言えないわ。新しき言葉は、魚との関係ではなく、権力関係としての人間関係に絡め取られ、言葉の意味は権力によって決まってしまう。だからわれわれは、つい、もう言葉を信用しないあり方、友情とか信頼とか、そういうものに惹きつけられてしまうわけである。菅氏の弔辞の内容は、嘘が支配する権力関係の言葉にもかかわらず、その生々しいあり方への意欲に於いて正しいような方向だけは向いている。それ以外は間違っていても、それで人々がそこに酔うことは至極当然の話なのである。


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