★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「不断の御読経」のあるところ

2020-03-06 20:44:24 | 文学


秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりのこずゑども、遣水のほとりのくさむら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空もえんなるに、もてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。
やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。


紫式部日記を読んでいると、この人の文章の方が清少納言のものよりも流麗な感じがする。歌のような感じである。この部分なんて内容は面白くも何ともないような気がする。が、「おほかたの空もえんなるに」の入れ方もタイミング完璧のようだし、不断の(絶えぬ)読経の声が、「水のおとなひ」の「例の絶えせぬ」と重なって、空間的にも時間的にも広がった感じのなかで、声や音が目の届くところに周密に集まっている感じが、これからの彰子の出産を準備するのであった。最初に「いはむかたなくをかし」と言ってしまってから描写が始まるところが、清少納言と逆みたいだ。清少納言は、「をかし、あはれ」を抜いて考えた方が描写そのものは浮かび上がる感じで、つねに概念と風景のギャップを意識しているようであった。対して紫式部は、「をかし」の証明をやっている気がするのである。

子どもの頃、夜の虫の声は人が喋っているように聞こえたものである。読経なんかはもっとそうであろう。そもそも読経の方が虫や風の音に似せているのではないかと疑われる。

昔のさびしい荒れた中に寂然として端坐してゐた如来仏の面影は段々見ることが出来なくなつた。大きな須弥壇、金鍍をした天蓋、賓頭盧尊者の木像、其処此処に置かれてある木魚、それを信者達は代る代るやつてきて叩いた。
本堂も隙間がない位に一杯に信者が集つて、異口同音に誦経した。その中に雑つて、慈海の誦経の声は一段高く崇厳に高い天井に響いて聞えた。


――田山花袋「ある僧の奇蹟」


田山花袋の宗教小説を時々読むが、なんとなく危険な香りがしないでもない。誦経の声は他の声を圧して響く。「蒲団」の最終場面、自然、嵐のなかにある時雄の姿は、ここにきて自然を圧する姿となっているような気がする。もっとも、土御門殿のような場所にいるわけじゃないから、近代の我々はかわいそうなのだ(笑)


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