★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

パルチザン伝説――消え去る活動家

2024-01-26 23:06:16 | 文学


かやうなる媼、翁なんどの古言するは、いとうるさく、聞かまうきやうにこそおぼゆるに、これはただ昔にたち返りあひたる心地して、またまたも言へかし、さしいらへごと、問はまほしき事多く、心もとなきに、「講師おはしにたり」と、立ち騒ぎののしりしほどに、かきさましてしかば、いと口惜しく、「こと果てなむに、人つけて、家はいづこぞと見せん」と思ひしも、講のなからばかりがほどに、その事となく、とよみとてかいののしり出で来て、居こめたりつる人も、皆くづれ出づるほどに紛れて、いづれともなく見紛らはしてし口惜しさこそ。

王寺賢太氏の大著は『消え去る立法者』であったが、ここでは古言していた翁が消え去った。考えてみると、作者はもちろん語り手も記述者も消え去るもので、ちょっと彼らは焦っただけのことだ。大鏡は源顕房が作者だという説があるが、いずれにしても作者は五八歳で赤痢かなんかで死んでいるらしい。公卿補任なんかがあるから誰が生きて死んだみたいなことがあったように思えるが、これを記録した者だって死んでいる。むしろ、書かれたものだけが生きているのであり、それを生み出した者達は死につつあったに過ぎない。

有名なものだと、「百年の孤独」なんか、書物が読むはじから暴風によって掠われてしまうのであり、むしろ読者だけが生き残る感じがしないでもないが、その読者もいずれ死ぬ。

逆に?、とつぜん生き返るひとも居なくはない。大鏡の語りは、時間をいったり来たりするから、死んだやつが生き返る感じすらするのであるが、天皇をはじめとして死ぬときにはきちんと確かめられているのでそんなに混乱しない。しかし、今日にニュースに身柄を確認とでていた、東アジア反日武装戦線の桐島聡氏なんかは、毎日のように日本人がその笑顔を指名手配のポスターでみていて、しかし、まあ、死んだような扱いになっていたところ、なんと生きており、しかも末期癌であるそうだ――こういう場合は、まさに刹那の生還みたいな感じである。テレビをあまりみなかったので昭和のアイドルはろくにしらんわたくしであるが、桐島聡氏は知っておるぞ毎日写真見てたからな。

彼らの爆破作戦もそうだが、この刹那的なあれは、和歌に似ている。歌人としてなおなした、リーダーの大道寺将司にしてもそうだが、なんとか戦線の方たちは案外和歌的な感性なのがおもしろいところだ。散文的であると、革命はできないような気がするのがわれわれの文化ではなかろうか。

笑顔と言えば、――日本で画一的な優等生ではない個性的な何かを抜擢しようとすると、勉強が苦手ないらいらした人(面接では笑顔だった)を選んでしまう悲喜劇的事態を想起させる。だから、日本の憂国的インテリは、苦悩顔が好きだ。例えば、ショスタコビチの面従腹背についてはよく語られているけど、プロコフィエフだってある程度やってたわけだろうから、こっちの方も案外大事だろう。しかし、なんかモロボシダンもそうだが、ショスタコビチの顔が散文的苦悩に合っているかんじがするのだ。

プロコフィエフの「平和の守り」を聞きながら採点をしていたら、なんだプロコフェエフも十分散文的じゃないかと思ったから、かかることを口走るわけである。

学生と暮らしていると、――比喩や寓意が滅びかけている実感がある。しかしこれは、日本語の能力の問題じゃないと思う。その方向で問題化するとよけいに滅びるのではなかろうか。これは一方で起こっている和歌的なものの隆盛と関係がある。コスパとかタイパの人たちというのは、辞書に単語の意味がひとつしかない世界を生きている。文脈によって意味が変動することがない。で、結局、自分で意味を決めているだけなので世界を疎外するか自分を疎外するしかなくなる。で、和歌の場合も案外意味が変動しないきがするのだ。変動する前に言葉がつきるからである。日本語能力をきたえる方向性なんか、どうせ分かりやすい日本語みたいなコスパ路線である。和歌における比喩は、いわゆる比喩ではない。モノへの視線の彷徨いなのであろう。それは多様性へのひらかれであって、多義性へは開かれない。

たぶん、ある種の働き方改革と授業のコマ数制限とは同じような思想が流れている。労働や勉強の多義性の消失による、我々の弱体化が狙いである。

七〇年代のさまざまな運動をみていて思うのは、彼らがアナキストであろうとコミュニストであろうと、瞬間に憑かれていることだ。そういえば、むかし「怒りを込めて振り返れ」という映画があったが、日本人はたいがい歴史で一番詳しいのが縄文土器とかピラミッドなので、そこに怒りを込められても困る。これは冗談ではなく、縄文土器やピラミッドは、そこに視線を彷徨わせればよいだけなのである。かくして、怒りは現在に滞留して爆発する。

しかし、かように散文精神を称揚していても、わたしだって、桐島ときいて、――「桐島部活やめるってよ」、と聞いて、セクト抜けるときは大変だよと思った、みたいな戯れ言を想起していたのだから世話はない。われわれはこんなかんじで現在に遊ぶので、たとえば、前世の罪が地蔵によってもたらされる(漱石)ことも普通にありそうである。罪は子どもになってやってくる。もしかしたら、昨今の少子化は、そういうことを懼れてのことではあるまいか。

大鏡は、そういう意味では、きちんと過去を思い出そうとしているえらい奴が書いたに違いない。わたくしなんか、ついでに言えば、――むかし、浅田彰の「逃走論」が極左集団の逃亡を正当化するものだとかいってた自治会の変なやつがいて何かの機会に議論をふっかけて恨まれたのを思い出した程度だ。思うに思い出し方が刹那的であるだけで、果たしてこれは現在に滞留しているとさえ言えないような気もする。かくして、われわれの散文的精神は村上春樹ではないが、記憶が埋まった穴を掘る。中国人や朝鮮人の強制労働の件をえがいた岸武雄の『化石山』はそういうはなしで、洞窟のなかに記憶が滞留していた。むかし読んだことがあったから、さっき少し読んだが、洞窟にはいってゆく戦後の子どものせりふにはウルトラQのゴモラが引用されていた。昭和の特撮でもよくある洞窟は、そこに働いていたひとの内実を忘れさせる効果もたぶんあったのだ。

いまや我々が現在に滞留するというのは、爆発でも刹那の感動でもなく、つぎのような風景だ。

昨日は、駐車場を囲む網の地上二十センチぐらいに犬の糞がダリの時計よろしく引っかかっていたのであるが、ついに糞も網をのぼる時代がやってきた。


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