★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

六芸神を訪ねる(東京の神社1)

2018-03-21 18:07:11 | 神社仏閣


浅草です。六芸神とあります。ウィキペディアには、「ブロンズ像」とありますが、どうみてもこれは神社であります。しめ縄が鳥居の上に縛り付けられてます……



1996年にできたそうです。芸大作らしい。「「六芸神」は神様であるから、実在の人物を模してはいるものの特定の人物ではないということである。」(ウィキペディア)

よくわかりませんが、とにかく「おさいせん」をほしがっていることは確かです。よくみると、屋根の上に招き猫までおります。

横浜は雪でした……


同士よ、火箭となって飛べ

2018-03-18 23:54:46 | 文学


夢野京太郎の『世界赤軍』(昭48)は、林彪が「同士よ、火箭となって飛べ」とか何とか言うと、夢野が火箭となって京都大学の構内に落っこちて夢から覚めるところで終わる(確か、そうだった)。平岡正明がすごく解説で褒めていたのが記憶に残っている。すごくおおざっぱに言うと、当時でさえ、プロレタリアートの世界というのが何なのか分からなくなっており、――夢野(竹中労)にとっては、芸能界、というか魔圏のようなものとしてあった。それは確かに、ある種、いいところをついていたのだと思う。「寅さん」の周囲みたいなのが庶民である訳がないではないか。いわゆる「市民」だって、そんなもんひどく実際は猥雑なものであって……。

しかしまあ、夢野京太郎の小説はあまり読む気にはなれないのも事実であった。

先日、「フライト・ゲーム」という映画がテレビでやっていたが、娘に死なれ妻に去られた鬱でアル中の刑事が、航空保安官としてテロリストから乗客を救う話であった。「攻殻機動隊」とか「パトレイなんとか」とか、もっといえばウルトラマンや銭形平次とか同じく、秩序維持の話で、別になんということもないのである。しかし、小学校の先生ではないが、とりあえず「ちゃんとしましょう」と説教することの大事さというのもあるのである。このことを忘れると、またプロレタリアートが保守層と結託する野獣みたいに見えてしまうのではないかと思う。

最近の、公文書偽造だかのあれは、とにかくいろいろな意味で、「ちゃんとしてない」我々の姿がついに国家的に出てきてしまったというべきである。魔界とか伏魔殿とか、そういうもんではない。そんな大したものはない。しかし、だからこそ、我々はいい加減さを糊塗するために暴力を振るうようになるわけである。

砂の音楽

2018-03-17 23:32:32 | 映画


「砂の器」は大昔にテレビ放映で観た覚えがある。今観てみると、明らかに通俗的映画であり、後半のこれ見よがしのコンサートのシーンがちょっと不自然――というか、なぜ作曲家が殺人までやならなければならなかったのかがやや不明瞭になっているのが気になった。原作を読んだのも大昔なのでうまく思い出せないが、この殺人の動機こそが松本清張ががんばって説明しようとしたところのような気がするし、一番われわれが触れられたくない部分だろうと思う。

対して、映画は、癩病患者であった父親との作曲者の放浪生活を、彼のピアノ協奏曲にのせて描出することにエネルギーを費やしている。いまこの音楽を聴くと、ラフマニノフのピアノ協奏曲をより映画音楽風に通俗化し、ジャズの風味も入れている曲で――なんとなく、「ああこういういろいろなところに忖度している曲をつくるようだから、作曲家は最後破滅してしまったのだ」と思わないではない。彼は文部大臣の娘と懇意になる事で自作のコンサートを実現しているようなやつであって、――いろいろな意味で権威への従属が彼の破滅を招いたというわけである。原作では、ヌーボーグループというスカした前衛芸術家グループがでてきて、犯人はそのなかの一人であり、しかも殺人トリックに電子音を使う。――安部公房が非常に精神的に弱っている時に使ってしまいそうなトリックではないか。そういえば「砂の女」は、「砂の器」の2年後の作であった。あっ、安部公房の彼女も政治家の娘役で出てるよー、あらら本当は、ここら辺が小説の内容として重要なんだが、映画では、まるでロマンティックな時代錯誤な音楽をつくる人になっていた。芥川也寸志の曲と勘違いされていることもあるが、作曲者は違う人である。芥川は音楽監督にすぎなかった。まあしかし、芥川や黛、武満などの新興グループが、どの程度に前衛的であり、かつどういう「映画音楽」をつくっていたのかは、清張の関心とは別に、面白い問題だと思う。野村芳太郎は音楽をまじめにスティーブ・ライヒなどに頼めば、「砂漠の音楽」は、この映画の音楽として燦然と輝くこt

とまれ、この映画の大成功は、このロマン的ピアノ協奏曲が描き出す、癩病患者への迫害のシーンのおかげであった。当時の観客は、自らが行っていたこと、すこしは受けたことのある社会的いじめをはっきりと思い出して呆然とし、感動もしたのであろう。つまり、我々が、ホントは知っていることを音楽付きの思い出みたいな風に悔恨すると、案外、感動しもするということを証したことにあったのではなかろうか。確かに、癩病問題をまともに告発したことの社会的意義は大きかったが、問題は常にそこにとどまるものではなかった。どうも清張と野村監督のコンビの映画は、戦前のやばい記憶のある種の浄化に貢献してしまったところがあるように思われる。我々の戦前や社会問題に対する扱いはその延長線上にあり、いまだに清張のドラマが盛んに映像化されていることには理由がある気がしてくる。

原作をほとんど忘れてしまったので……、なんとも言えないんだが、最後の文で、場内アナウンスが「音楽のように美しい抑揚」だったとか書いてあって、そこが不気味であり、しかしなんだか、軽いな……と思ってしまった記憶がある。

ところで、「ちはやふる」のピンク映画バージョンを考えたんだが、あまりのくだらなさに絶望したので、フーコーの思考集成11巻なんかを読んで、思考の禁欲を試みたわたくしであった。

ちはやふる 下の句

2018-03-16 23:55:15 | 映画


「ちはやふる 下の句」がテレビでやってたので観た。ピンク映画じゃなかった。

やはり松岡茉優の方が演技は上手だったように思えたが、この人は、かなり若い頃、「愛のむきだし」に出たときにすでに決定的な場面に起用されていて上手かった。そういう雰囲気の人なのであろう。それに対して、広瀬すずは期待されているものが違っているので、かわいそうである。

似たようなことは、大学でも学会でもある。期待されているものから外れると批判されたりするものである。

ちはやふる 上の句

2018-03-15 11:27:14 | 映画


「ちはやふる」はどうみても、「スラムダンク」をカルタでやっているという感じであり、ボールが空中を飛ぶ代わりに、カルタが舞っている感じである。これはスポ根なのだ。すると、この作者は――というか、「ドカベン」や「スラムダンク」の延長として考えた場合、必然的に色恋の部分は手薄になってしまうかわりに、オトボケ(ギャグ)と試合の場面はすごくなる。注目すべきは、両者ともストップモーション的なものが重要だということだ。「スラムダンク」も、動いてんだか動いてないんだかよく分からん絵を臨場感として感じさせていたわけであるが、カルタの場合は、その静と動の関係が競技のなかで極端に現れるので、「スラムダンク」よりもその技法に向いている。対して、恋愛は、もっと連続的でぐにゃぐにゃしたものなのである。――すなわち、日本の少子化は、文化のスポ根化からも説明がつくように思うのであるが、どうであろう。

というわけで、国語領域の教員として「ちはやふる」ぐらいは既刊の全巻制覇しているわけであるが、映画化されて、それが広瀬すず主演だというので、ちょっと恥ずかしくて映画館には行けず、レンタル屋でも借りることができなかった。

AKBのコンサートのDVDなら「あー現代文化の研究です」でいいわけがたつが、「ちはやふる」だと、「あっ渡×先生、広瀬すずが好きなんだ。このエロ親父がっ」と思われてしまう。全然間違っている。わたくしは、松岡茉優の方が好きだというわけではないというわけではないt

ご存じのように、主人公のちはやさんは、姉がアイドルで本人も負けず劣らず美人という設定であるが、漫画の「ちはやぶる」では、少女漫画の常で眼がでかすぎる。広瀬すずはちょうど人間らしいサイズでいいと思う。

結論:映画は娯楽だ。美人を出しときゃいいんだよ。


結論がでてしまったのであれなのだが、先日テレビで「ちはやふる 上の句」をやっていたのでひっそりとみた。広瀬すず最高物語は、漫画にあったカルタへの愛情はどこへやら、ただの美女とイケメンの三角関係劇に堕落しており、いまどき神仏に見放されただのと土人レベルの信仰を振り回しているだけでなく、――まさに地方大会で負けるとしか思えない負け犬的絆イデオロギーを振り回した最悪なものであったが、役者の一部はがんばっていた。背の低い肉まん君の役者はよかった。広瀬すずは、和服が似合わない。ジャージも似合わないが、日本の男子の一部は、第二次性徴の大事な時に、セーラー服とジャージで興奮するように鍛えられているので、まああれがいいという人も多いのであろう。また、広瀬すずに限らないのだが、美形の芸能人には、止め絵の場合はすごく美だが、動くと「あ、おれと同じ日本人だった」と気づくという人が多すぎる。高峰秀子様も何回か駆けるシーンが映画の中であったが、わたくしと全く同じレベルのドタバタ走りで大和魂ここにありであった。高峰様も恋愛映画は苦手であった。今回の広瀬すずも同じである。広瀬すず最高。

「スラムダンク」以来の、ストップモーション的技法は、上記の事情から、何か技法の問題以上の問題をはらんでいるのである。

「ちはやふる 下の句」は、今週末の放映らしいが、松岡さんが出るし、「シモの句」らしいので、どんなピンクな場面がでてくるか楽しみである。

不動堂明王院を訪ねる(京都の寺社3)

2018-03-12 18:31:19 | 神社仏閣
 

案内板によると……。

「弘仁十四年(823)、弘法大師空海が……」


お大師さん、またあんたかよ……。

お大師さんは東寺の鬼門の位置に当たるここに不動明王を祀ったのである。ここらに転がっていた石を使って彫ったのであるが、ここからお大師さんのエリート魂が大爆発。

「霊石不動が、穢れた凡夫の目に触れるのを憚って、石棺に納め、更にこれを地中の井戸ふかくに安置したのです」


穢れた凡夫の目に触れるのを憚って

石棺にいれて井戸に沈めたんじゃ、「穢れた凡夫」以外にも見えないじゃないかっ。そもそも、あってもなくても同じじゃないかっ。


というわけで、みんなその不動何とかのことは忘れてしまった70年後、宇多法皇がここに離宮(亭子院)をつくろうとして、この井戸の不動何とかのことを聴き(誰から聞いたんだろうか、またお大師さんが夢にでも出たか)、井戸から取り出そうとしたのである。しかし、

石を見るもの悉く眼を病み恐れをなして終に果たせなかったといいます。


こわっ。この石、実は想定外の物質でも出てたんじゃないか。温泉や池をじゃんじゃんつくってしまうお大師さんのことです。そういう危険なエネルギーなど朝飯前に生成してしまうのでしょう。それにしても迂闊(馬鹿)です。つくってから処理を考えるとか、お大師さんも「科学の進歩は止められない派」だったのでしょうか。

応仁の乱で、お堂は何回か火事になったらしいのですが、危ないですね。井戸まで延焼してたら……。「高野山波切不動尊」「成田不動尊」と併せて空海作の三体不動尊というらしいですが、どうでもいい。ちなみに、ここは、新撰組が西本願寺から移ってきた屯所とも言われているのだそうです、で、「まぼろしの屯所」とかいう提灯が釣り下がってました。

不動尊は見えず、屯所は幻かも……。結局、ホントは何もないのではなかろうかっ

道祖神社を訪ねる(京都の神社1)

2018-03-12 17:41:57 | 神社仏閣


えんむすび(ひらがな)道祖神社は、下京区南不動堂町。



となりに、不動堂明王院。果たして神社と別のものであったかあやしいが……。鳥居は、明治三十六年八月。



 

狛犬さん。





拝殿。

この神社は899年創建。このあたりにあった宇多法皇の亭子院の守護社だったらしい。その後、何回か焼けた。豊臣や徳川の時もいろんな都合で移動したが、近代になって、神社の大敵・鉄道敷設によって今の位置に落ち着いたらしい。道を司る神様なのに、道路や鉄道の都合で住処を移動。

 

末社のみなさん。幸神社、稲荷神社、書聖天満宮

 

文系万歳

筆は正しく使いましょう。文書偽造に使っちゃだめだよっ