「ちはやふる」はどうみても、「スラムダンク」をカルタでやっているという感じであり、ボールが空中を飛ぶ代わりに、カルタが舞っている感じである。これはスポ根なのだ。すると、この作者は――というか、「ドカベン」や「スラムダンク」の延長として考えた場合、必然的に色恋の部分は手薄になってしまうかわりに、オトボケ(ギャグ)と試合の場面はすごくなる。注目すべきは、両者ともストップモーション的なものが重要だということだ。「スラムダンク」も、動いてんだか動いてないんだかよく分からん絵を臨場感として感じさせていたわけであるが、カルタの場合は、その静と動の関係が競技のなかで極端に現れるので、「スラムダンク」よりもその技法に向いている。対して、恋愛は、もっと連続的でぐにゃぐにゃしたものなのである。――すなわち、日本の少子化は、文化のスポ根化からも説明がつくように思うのであるが、どうであろう。
というわけで、国語領域の教員として「ちはやふる」ぐらいは既刊の全巻制覇しているわけであるが、映画化されて、それが広瀬すず主演だというので、ちょっと恥ずかしくて映画館には行けず、レンタル屋でも借りることができなかった。
AKBのコンサートのDVDなら「あー現代文化の研究です」でいいわけがたつが、「ちはやふる」だと、「あっ渡×先生、広瀬すずが好きなんだ。このエロ親父がっ」と思われてしまう。全然間違っている。わたくしは、松岡茉優の方が好きだというわけではないというわけではないt
ご存じのように、主人公のちはやさんは、姉がアイドルで本人も負けず劣らず美人という設定であるが、漫画の「ちはやぶる」では、少女漫画の常で眼がでかすぎる。広瀬すずはちょうど人間らしいサイズでいいと思う。
結論:映画は娯楽だ。美人を出しときゃいいんだよ。
結論がでてしまったのであれなのだが、先日テレビで「ちはやふる 上の句」をやっていたのでひっそりとみた。
広瀬すず最高物語は、漫画にあったカルタへの愛情はどこへやら、ただの美女とイケメンの三角関係劇に堕落しており、いまどき神仏に見放されただのと土人レベルの信仰を振り回しているだけでなく、――まさに地方大会で負けるとしか思えない負け犬的絆イデオロギーを振り回した最悪なものであったが、役者の一部はがんばっていた。背の低い肉まん君の役者はよかった。広瀬すずは、和服が似合わない。ジャージも似合わないが、日本の男子の一部は、第二次性徴の大事な時に、セーラー服とジャージで興奮するように鍛えられているので、まああれがいいという人も多いのであろう。また、広瀬すずに限らないのだが、美形の芸能人には、止め絵の場合はすごく美だが、動くと「あ、おれと同じ日本人だった」と気づくという人が多すぎる。高峰秀子様も何回か駆けるシーンが映画の中であったが、わたくしと全く同じレベルのドタバタ走りで大和魂ここにありであった。高峰様も恋愛映画は苦手であった。今回の広瀬すずも同じである。広瀬すず最高。
「スラムダンク」以来の、ストップモーション的技法は、上記の事情から、何か技法の問題以上の問題をはらんでいるのである。
「ちはやふる 下の句」は、今週末の放映らしいが、松岡さんが出るし、「シモの句」らしいので、どんなピンクな場面がでてくるか楽しみである。