★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

日本派?のなかの、のんびり派と西洋派

2023-09-15 23:30:19 | 文学


夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。人之在世、不能無為、思慮易遷、哀楽相変。感生於志、詠形於言。是以逸者其声楽、怨者其吟悲。可以述懐、可以発憤。動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌


齋藤清衛氏なんかはわたくしが勉強しはじめた頃まで書いていた文学史家だったけれども、戦時中の『文藝文化』1号の劈頭論文なんかよむと随分素朴である。上の真名序なんかをつかまえて、漢文は「煩雑」だなあ、みたいなことを言っている。紫式部の引用なんかも間違えている。でも明らかな文人臭がのんびりと感じられる。武蔵野に住んで独歩をやり直したいような人であるから当然かも知れない。次の論文を書いている風巻景次郎氏なんかの方が西洋派インテリ然としているところがある。戦時下の抵抗者としてはこっちの方であろうが。。。


中日ドラゴンズ優勝おめでとうございます

2023-09-14 23:10:27 | ニュース


阪神タイガース18年ぶりの優勝おめでとうございます。逆に考えると、順位表をひっくりかえして中日優勝。18年というと、いまの大学一年生が生まれた時以来だからえらく昔であるが、わたしなんか最近の出来事のようにおぼえている。今回の阪神優勝で実は一番喜んでいるのは中日ファンで、最近では、阪神が優勝すると次の年は中日が優勝しているのである。

星野阪神優勝→落合中日優勝→岡田阪神優勝→落合中日優勝→落合中日日本一

この流れが来ている。そもそも今年だって、いまからでも遅くはない、今中とウッズが復帰すれば中日は優勝できるといへよう。

たぶん、阪神の選手は、もと李徴の可能性があるから、暗黒時代、劣等感を刺激してやるだけでイケる。

今頃知ったのだが、阪神の優勝は禁句で「あれ」と呼ばなければならなかったらしいのだ。いいだしっぺは監督らしいが、もともとは、「Vやねん」という優勝記念雑誌かなにかを優勝する前に発売してしまったときがあり、美事V逸したのでそれを意識したのであろう。その意味でも、阪神は優勝という言葉を吐いてしまった時点で、もう優勝はない。来年は中日優勝。

三島由紀夫「仮面の告白」には、NGワードを示す「あの事」という言い方が出てくるけれども、それを阪神優勝におきかえてみると、よりカオスな話になる。三島は、なぜこの「あれ」路線を放棄し、なんでも裸的になればよいと思ってしまったのであろうか。天皇制など、「あれ」みたいな話である。★秀実ではないが、天皇制を隠語に、である。

それにしても1950年以降、V9ごろまでの巨人の優勝確率というのはすごい。ほとんど巨人が優勝している。この調子じゃ、巨人優勝ていうのはほとんど心のインフラ整備みたいになってたのかもしれない。つまり、心の安定が巨人優勝という見える化を要求していたのである。三島が自衛隊に突撃したのも、この巨人優勝が続く時代であった。日本国民は、くたばれジャイアンツと三島の天皇陛下万歳が、単に見える形で同時に生起する世の中がやってきたことに気付くべきであった。

「天道之道」以後

2023-09-13 23:50:49 | 文学


「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「何う云ふ訳で」
 代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合の奴を胸に蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くつては起り様がない。
「御父さんは論語だの、王陽明だのといふ、金の延金を呑んで入らつしやるから、左様いふ事を仰しやるんでせう」
「金の延金とは」


――「それから」


このまえに、代助の親父の頭の上に『中庸』の「誠者天之道也」の額が掛かっている描写がある。内容もそうだが、第一に字が嫌だ、とある。親父はどこかの藩主からもらったらしい。いまでも、どこぞの藩主やら資本家の書いたへたくそな字をありがたがっている御仁はいる。字がめずらしかった時代は、その字自体が天の作用を示すようであったのかもしれないが、いまはほんとに美しくないとその機能を果たせなくなってしまった。学校の先生の権威も墜ちる訳である。

それにしても、漱石がわざわざ「中庸」を引いたのは訳があってのことであろう。わたくしは寝物語のかわりに四書をおおざっぱに読んできた訳だが、一番つまらないのが中庸である。論語にあった、悪口大会みたいな側面が脱落し、エラそうな調子が鼻につく。代助もつられて、なにか批判的精神を俗っぽくしてしまっているのではあるまいか。しかしそれでも、彼は結局天道之道から外れた?かわりに、お天道様に焼かれるように町に追い出された。近代文学の高踏遊民は、いずれほんとの遊民となる運命だ。

四書五経的な天道の支配が終わり、なにもない社会で、学生は空気を読んでるだけ――みたいな批判があるけれども、社会人もたいがい現代で管理職的な立場になりゃ空気読むようになるだろう。昔の先生や親父やリーダーにみたいにだれかが乱暴に秩序維持をやらなくなると、全員でそれを代替しはじめるのだ。

コペル君の堕落と逆襲

2023-09-12 23:57:21 | 文学


私が何とかして会いたいと留置場の中で日夜願っている同志たちとはこういう細工をしてまで会わせず、会わせる者はと云えば、帝国主義官憲とグルになって、もう「コップ」の仕事はしないと云えなどとよくも恥しらずにすすめる奴らです。私はプロレタリア婦人作家として、プロレタリア文化のために働くことこそ命だと思っている。どうして対手になれよう! それらと闘いぬいて出て来ると、敵は何とかケチをつけるため、父親が一札を入れたおかげで出されたのだとか、あやまったからだとか「今回の検挙によって思想上に一転機を来した」から釈放されたとか、ブル新聞に書き立てさせる。文化活動者として私をわれわれの同志から、大衆から切りはなそうとする悪辣きわまるデマです。敵は、私を二年も三年も監禁する理由を発見し得なかったので、今度は体は自由でも仕事のやってゆけぬようにしようとする。
 検束されていた間、それから六月二十五日に出て来て今日になるまでに私の学んだことはただ一つです。それは文化活動をふくむプロレタリア解放運動の全線で、わたしらが一歩でも正しいわたし達の主張を守ろうと思うなら、そのためにすべきことは敵の暴圧に対する精力的で科学的な逆襲があるばかりであるということです。


――宮本百合子「逆襲をもって私は戦います」


「ゴジラの逆襲」は、その前の異様な気合いが抜けたみたいな映画であるように見えて、案外人気がある。敵怪獣アンギラスがでてきて、キャアッというかアアアッというか妙な鳴き声で我々をぎょっとさせる。ゴジラは災厄である、しかしその敵はどうであるか、やはり災厄である。我々はどうするのか……。この状態になんとか耐えているのがこの映画である。次のキングコングからはつまり、彼らは見世物であるという感じになり、そのあとはモスラに説得されたとかなんとかで、敵の敵の敵ぐらいになるとその敵はみんなの敵だということになり、キングギドラをみんなでリンチする映画になっていった。

こんななかで、我々自身はもっと自意識をこじらせてゆく。宮崎アニメなんかもその一種である。戦争を体験した人のいくらかは、母や恋人や妹を振り返っちゃだめなのに、くり返し振り返るしかない。イザナギとイザナミに描かれる如く、そうなったら地上に出られない。つまり戦時のトラウマ=自意識のなかに閉じ込められる。しかし、それでは我々の心は持たないので、しまいにゃ死んだはずの女たちが空を飛んでいる。

今日は、映画「君たちはどう生きるか」を観てきた。もう宮崎氏はいいかげん老人であるから、いままで取り繕ったエロティズム――気が強い姉御みたいな女性と空飛ぶ美少女の組み合わせである――を昇華させ、ついに「瘋癲老人日記」みたいなのを作るのか、とゲスな期待をしていったのに、また第二次性徴期前期の話であった。いや、しかし、ある意味これも老人日記だよな。わたしも歳とってきてわかってきたけど、老いは思春期にとてもよく似ている。どちらも生きるか死ぬか迷うし、どちらなのかわからない、敢えて言えばぼやっとした海とか島とか鳥としか言いようがないところがあるのだ。今日の映画出てきた、ベックリンの「死の島」や鳥たちは、シンボルではないのだ。ああいうオブジェが生と死のあわいに存在する心理的な物質なのである。芥川龍之介の「河童」もそういう存在である。ほんとは、今日の映画のように、「河童」の国から帰ってくるということは生まれ直すことを意味すべきだった気もするのだが、芥川にはそういう気がなかった。そもそもそういう気がないような人のように思える。

吉野源三郎の著作にはかなりきちんと応答していたと思う。吉野は「少国民」に対してあれを書いた。コペル君は思春期の混乱の前に、世界と友に対して成熟した。吉野の言いたいのは、そういう倫理は思春期の混乱とは別のものであり、むしろ制御棒にすらなるものだ、と。しかし、現実には、コペル君だって、あのあとひどいことになっているはずである。近代文学はそのあとを追跡した。妻の妹を妻とする性の権化=軍需産業の担い手である=主人公の父=キ★タクが、将来主人公の細君を寝取ってあれになると「暗夜行路」となる。いやその前に、主人公がそのニュー母を母への思慕の余り寝取れば「源氏物語」になる。主人公が女中の婆様たちとあれになれば、「遠い空」に。義士もコペル君も堕落する。堕落するところにしか人間の母胎はあり得ない。

あるいみ、宮崎駿の作品というのは、古事記やらの世界をやり直してくれたところがあるので「君たちはこれからどうすんのだ」と言う資格があるのかも知れない。あとはやりたい放題だ。しかし、戦後とは、コペル君がそのまま聖人であり得る世界から始まった。宮崎アニメを裏から支えていたものもそれであった。コペル君は、思春期前の人間として、世界に逆襲していたのである。これに比べれば、「シン・エヴァンゲリオン」なんかは思春期の終わりを以て新しい世界を、と言っているのだが、大人としてまた戦争前の赤ん坊に戻りかねないのだ。

偉大なものだなあ。聖人の働きは。。

2023-09-11 23:43:17 | 思想


大哉聖人之道。洋洋乎發育萬物。峻極于天。優優大哉。禮儀三百。威儀三千。

礼儀と威儀の多さにびっくりするわ


バスケットボールが自力でオリンピック出場おめでとうございます。ホー金ソン様。寝不足だったので、ほんと試合見てて、人類史上最大の眠気が来た。ヒーローを翼君とか赤木とかに比しているうちはほんとには応援しているとは言えない。ドーハの悲劇はやはり倫理的に正しかったのである。

人文学とか運動族の世界でも、じぶんたちのやってることの理由付けのためにひんまがった偶像になってる過去の書き手というものがいるが気の毒だ。

そういえば、まああれだよな、甘粕事件から目をそらすための福田村事件その他への注目じゃないだろうな、――と思っていたのだが、本日、ちゃんと映画「福田村事件」見てきた。予想してたより劇映画であった。事件の事実はもっと馬鹿馬鹿しく平凡なヤバさがあるんだと思うが、社会派映画とは問題提起および、世論の修正が目的である。どぎつい因果と物事の対照性で、現実のイメージ自体を刷新する必要がある。インテリの世界でも、倫理の過剰さと権力肯定のバランスとかいうと丸山眞男みたいだが、こういう発想の人は下手しなくても権力志向になる傾向にあるきがするのだ、実際どうなってるかだけが問題なんでね。二項を並べてうんうん唸ったところで、事態の打開を図るために結局は権力だ、になるに決まっているのである。すなわち、具体的なイメージが貧しくなってくるとそういう風にならざるえないのが学問の世界である。以前、学生に、モロッコと言えば、映画「モロッコ」と「カサブランカ」だよな、と言って説明していたら、なんかサイバーパンクみたいな話ですね、と言われたことがあるが、確かにそういうところもある。――しかし、まあ、学者や学生の頭の中というのは、砂漠の中を逝く兵隊と女と戦闘機の世界なのだ。

学校の世界では、――大した意見でもないので「~と思ったりします」と(偉ぶって)言うのがむかし流行していた気がするが、最近は「~と思っていて」になっている。ちゃんと「考え中」と言って頂きたい。これをイメージにすると、砂漠の世界である。

自成

2023-09-10 23:58:23 | 思想


誠者自成也。而道自道也。誠者物之終始。不誠無物。是故君子誠之爲貴。誠者非自成己而已也。所以成物也。成己仁也。成物知也。性之德也。合外内之道也。故時措之宜也。

この「合外内之道」というぶぶんがよくわからない。誠は自己と物事を貫通して成り立たせるなにかだとしても、自分を成り立たせる仁、物事を成り立たせる知が、誠の形で統一されるには、なにかそこに媒介が必要なような気するからだ。結局、仁も知も誠も一部が間違っていれば他も間違っている関係にありり、全体としての統一が目指されていないといけないというのは形式的には分かる。誠は物事の本性なのだから、自ずから成る筈である。だから人為的な統一なのではないというわけだが、ここに欠けているのは、我々の煩悩の存在である。これを我々の本性と認めた瞬間に、仁や知の変形――無理やりの強弁が始まる。しかも、その強弁も自ずから成ったのだという礼的道徳にとってはタチの悪い理屈が用意されているのである。しかし、世の中の全体性にビビらないようになるためには、そこまで考えておく必要はいつもある。

神道で自ずから成るみたいなものも、そうなりがちである。そのためには、仁も知という分割を吹き飛ばすほどの、限りなく細かい、外界に対する応答機械である必要があると思う。

普通、「引退後食べ過ぎておなかがぷくりになったイチローが見たかった」といったら怒られてしまう。自ずから成る、論理からはずれているように思われるからだ。「実際にイチローは成っている」じゃないかというわけだ。しかし果たしてそうであろうか。すくなくともわたくしの頭の中では別の成り方があったではないか。そしてそれはイチローが清原と似ている部分もあるみたいな、現実に起きる自明のファクトに接続している。そこから枝分かれして様々なイチローや清原がいるのである。

たしかに、「自ずから成ったのか」という批判は、批判のための武器としてのみ機能さすべきかもしれない。昨今の改革なんか、それはだめだから現状そうなのにそれ選んでどうすんのという頭が悪いあれの場合が多い。もちろん、学問がそういう轍を踏んでないとはいいきれず、半端な学問的な思考を多くの人がするようになれば、みんなで先学を乗り越えてなぜか世の中が地獄的になる。この地獄が「自ずから成った」ようにみえる馬鹿がテレビをはじめとして大手を振って歩いている。もはや、その人為に対する盲信は、人間に対する支配欲としか言いようがないが、そういうものだけは「自ずから成った」とはみなさないのだから笑わせる。

亀甲+ゴジラ

2023-09-09 20:53:00 | 思想
至誠之道、可以前知。国家将興、必有禎祥。国家将亡、必有妖孼。見乎蓍亀、動乎四體。禍福将至、善必先知之、不善必先知之。故至誠如神。

蓍や亀甲をつかった占いが当たるのかどうかは知らないが、国家の興隆に兆しがあるとすると、占い師をする人が占いの結果を当てるのは容易である。なぜなら、だいたい国家が勢いが良くなるときや衰退するときには、アホウで無い限り、なんとなく分かるからである。我々は、たいがい、そんな認識を人に通用するだけのものにするために、エビデンスとやらを持ち出すに過ぎない。いまの科学者なんかも、亀の代わりに数字を使っているにすぎない部分はあるのだ。全部がそうなのではないが、すべてがそうではないと言い張る科学者はアホウである。



ゴジラが出現したときに、八幡山からでたというので、やはりこれはむかしから八幡の上に出てくるなんとか如来とかその類いかとも思った人も多かったとおもうわけだが、さすが当時は二十世紀だったので、彼は科学でやっつけられた。しかし、この科学はSFで、実現していなかった。観客は、結局嘘じゃないのはゴジラのほうだと思ったわけである。しかし、これは科学によって引き起こされた原爆のメタファーである。我々はめんどうなので、なにかによって引き起こされた現象を愛でつつ、なにかを検討することをしなくなった。なんとか如来は、予祝となる。予祝中毒となったわれわれは、予祝を司る人間がなにをやっていても観て見ぬふりをするようになったのだ。もともと予祝は性的なものが関係している。司る人間の問題も性的なものによってその司祭の地位を守っていた。

――行動様式はかわらないのに、生活様式が代わり、われわれは予祝がすきなのに田んぼや畑やんないからすっきりしなくなったんだろうな。そのうちに感度がいろいろと悪くなる。所与の感覚が鈍っているのに、やりかただけ同じようにやろうとする。もはや、なにかを目撃したり体験しなければ我々は空気をむしろ読めない無能なところがある。小さいことでもなんとなくでも察知して空気を読めるのは頭のいいやつで、偏差値エリートでもそんなのほとんどいねえよ。むしろ鈍いから脅しじゃないとわからんだろみたいなかんじで脅しがでてくるのだ。

弁証法と訂正可能性

2023-09-08 23:34:07 | 思想


風が秋らしくなってきたような気がするが、――映画「風立ちぬ」は、世の中聖子さんの歌だけでは終わらないちゃんと弁証法があると俺に思わせだけでも意味があるといへよう。むろん、そういう弁証法は、それであるにすぎず、良いこととは限らない。

最近は校正やってて、毎回ながらほんといやだけど、ひとえにいつも読んでいる本よりも文章が醜悪だからだ。西田幾多郎読んで文章下手だな俺の方が巧いとか思う人がうらやましい。わたしにかぎらず、日本人の文章はどんどん下手になっているのではなかろうか。

わたしの若い頃よく言われたのは、意見を言われたらよい発表、というやつである。ようするに、その発表は弁証法の一段階として認められたと言うことであろう。卒業論文でも修士論文でもレベル以下のものはまったく意見が出なかったりするのに対し、そこそこがんばったが重大な瑕疵があったりするのは強く文句言われたりするのはせいのせいだ。というわけだが、この現象について「まあ謂わずともみんな分かってるよね、普通は」というのは、昨今もうきつそうだ。しかし気づいたときには、そういうレベル以下をけなす以前に、逆に文句が出ないのでほんとに自分のものが優れていると思ってしまったレベル以下が勢力を拡大して、ゆだんしているうちにそういうのをほんとに褒める輩が出現してしまったりするのである。

たいがいの改革は、それだめだから現状そうなのにそれ選んでどうすんのという頭が悪いあれの場合が多いが、もちろん、学問がそういう轍を踏んでないとはいいきれず、半端な学問的な思考を多くの人がするようになれば、みんなで先学を乗り越えてなぜか地獄に――

ある意味、こういうものの弁証法である。

よのなかがこの体たらくであるのに対し、作品はかわらない。だから、例えば、「ゴッドファーザー1・2・3」のうち、3はなんだかなと思ってたけど、歳を取ってきたのか、3がいちばんよいような気がしてくる、みたいなことが起きるのである。まさに作品とは、墓標であり、モニュメントである。我々を「訂正」してくれるのは、こういうものだけだ。

東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』をソファーでだらしなく読んでたら、細が「『低姿勢可能性の哲学』には賛成」とか深いんだか中間管理職的なんだか分からないことを言って出勤していった。夢だった。

曇天的人生論

2023-09-07 23:58:52 | 文学


 毎日の曇天。十一月の半過ぎ。寂とした根岸の里。湿った道の生垣つづき。自分はひとり、時雨を恐れる蝙蝠傘を杖にして、落葉の多い車坂を上った。巴里の墓地に立つ悲しいシープレーの樹を見るような真黒な杉の立木に、木陰の空気はことさらに湿って、冷かに人の肌をさす。
 淋しくも静かに立ち連った石燈籠の列を横に見て、自分は見晴しの方へと、灰色に砂の乾いた往来の導くままに曲って行った。危い空模様の事とて人通りはほとんどない。ところどころの休茶屋の、雨ざらしにされた床几の上には、枯葉にまじって鳥の糞が落ちている。幾匹と知れぬ鴉の群ればかり、霊廟の方から山王台まで、さしもに広い上野の森中せましと騒ぎ立てている。その厭わしい鳴声は、日の暮れが俄かに近いて来たように、何という訳もなく人の心を不安ならしめる。


――永井荷風「曇天」


曇天でもまだ暑い。逆に閉塞感まで加わっていやなかんじである。会議の途中で豪雨が来ていた。朝は、晴れていて、最近朝顔が元気であった。ひまわりもそろそろ咲きそうだ。木曽的体感で言うと、初夏(3-6月)→高松ファッキン砂漠(7-10月)→晩夏(11-12月)→春(1・2月)こんな感じである。日本は四季があって~、とか今は昔である。

はっきり批判しないから、ひとつの批判のために5人ぐらいの質問者が徐々に核心に近づいてゆくという時間の浪費がときどなされているが、高松の四季ならぬ一年のようである。それが一年のようであるのは、そのゆっくり核心にいたる批判は、徐々に批判であることの意味を剥奪されてしまい、ただの意見の羅列になってゆくからである。

一方、人の人生の方は、そもそも推移を正しく認識することさえ難しい。昔はこうであったが、みたいな認識ほとんど間違っている。しかし、昔はえがったなあ、みたいな感情そのものは間違ってない。この矛盾がはなはだしくなって人は次第に死ぬであろう。

詐欺師とアクラシア

2023-09-06 23:16:09 | 文学


 幽霊のように、蒼白な牧師の顔が戸口に音なく現れた。
「お前さんはよくも私を騙してきたね。甘ったるい声で人の心へ毒を注射するのがお前さんの仕事なんだ。お前さんの連れていってくれた楽園にア、狐や狸ばかりが往来してるじゃないか。私達ア、そいつに肉を喰われるだけだ。お前さんは詐欺師だ。詐欺師だ!」
 祭壇を睨んでいたお松の眼が白く光った。彼女はその上へ駈け登った。十字架をはがした。満身の力を集中して、それを踏みつけた、蹴った、叩きつけた。ガアン。鈍い金属音を発してそれはオルガンをしたたか打った。
「ああああああ」
 戸口の蒼い顔が低く唸って倒れた。
「兼、さ、行くんだ兄さんとこへ行こうよ。おっ母アはな、これから一生懸命働いてお前を病院さ入れて真人間にしてやるよ。さ、行こうな。兼坊、……」
 返事のない娘の細い躯を抱えて、星のまばらな空の下を、お松はシャッキシャッキ歩いて行った。


――矢田津世子「反逆」


テレビを時々見ると、アナウンサーがかなりの格率で詐欺師の口調になってるんだけど、あれわざとなのかな。

わたくしはいつも人生を泥酔しているようなものだとおもっているが、いわゆるアリストテレスのアクラシア論の論点だ。我々はしばしば悪いと思っていることをやってしまっているが、そもそも本当に悪いことだと思っているのかあやしい。イエスは「みんな自分のやってることが分からないのです」と十字架上で語っていたが、これはかれの優しさであろうか。しかし、これは文字通りとるべきであって、ものごとの善悪を判断し、あるいは物事の清濁合わせ飲み、選択的に遂行していると自分では思っている秀才バカがふえてきたことがこの世の体たらくの原因である。つまりこれが詐欺師のようなやつの叢生の原因である。

文化は私を捨てて逝く

2023-09-05 23:38:50 | 思想


唯天下至誠、為能尽其性。能尽其性、則能尽人之性、則能尽物之性。能尽物之性、則可以賛天地之化育。可以賛天地之化育、則可以与天地参矣。

聖人は天から与えられた本性を発揮することが出来、ということは同じく他人にも与えられているところの本性も発揮させることができるのだ。おもしろいのは、そういうものすごい存在が、天地と並び立つ三番目の存在だということだ。これはつまり、人の科学のことなのではないだろうか。人はほっとけば能力の差みたいなものしか見えない。しかし本性をともに発揮させることができるのは科学である。それで、我々は長生きするようになったし、風邪を治すこともできるようになった。で、ついでに天地に存在していた本性をとりだして発揮させているうちに天地の環境にも影響を与えている。

こんな解釈にならないように、しばしば、人々の個性を発揮させることができるのが聖人だみたいな解釈が行われている。本性とはなにか?文化じゃないな、この場合。

われわれの科学?はしばしば間違っている。わたしが母親のおなかにいる時に、クラシックを聞かすと頭がよい子が生まれるという科学的?珍説を信じた親たちが執念のようにわしに聞かしていたのが、クリュイタンスとベルリンフィルのベートーベンの運命で、いまでも普通にこれが天下の名演だとわたくしは思いつづけている。そこはモーツアルトではなかったかと思わないではないが、モーツアルトは時々眠くなるからいいのではないだろうか。ハイドンもたぶん貴族たちに屡々寝られたのであろう。びっくり交響曲はそれで生まれた。ベートーベンなんかずっとびっくり交響曲みたいなかんじである。こんなかんじで連綿と変化してゆくのが文化であって、わたしなどがよい子に生まれたかどうかはもはやどうでもいい。

ここんとこずっと忙しかったので今日は少し休んで、「プライマル・レイジ」を見た。アメリカのビックフット伝説の映画である。なんじゃそりゃみたいな素晴らしいクソ映画で、こんなのを見ていたら悪い子になってしまうのではなかろうか。いや、そんなことはない。

蜻蛉

2023-09-03 23:34:31 | 文学


解雇されたものがその時男女合はせて六人――その中の男優等は竹山に仕打するんだといつてその後間もなく騒ぎ廻つてゐた。
 彼等はそして、細つそりした女優の下宿を、屡々訪れた。
「みんな芸術ゲの字も分つてゐない奴等なんですよ。」或物は彼女にかう云つて聞かした。社長に泣きつけば自分だけはまだ入れて呉れるかも知れないといふ位に考へてゐた彼女は、それにどう返事して好いか悪らずに、几帳面に坐つてさへゐれば好いことにしてゐた。
「竹山なんて、ねえ。――あゝまだあなたは知らないんでせう、あれやあね、僕等と田舎廻りにゐた時は僕の下役をしてた位なもんでさあ、あゝン………。」と云つて顔を上の方に向ける男もゐた。


――中原中也「蜻蛉」

流言蛮語と常識

2023-09-02 23:57:12 | 文学


大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
 こんな事を考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々の自宅の井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。[…] 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。


――寺田寅彦「流言蛮語」


寺田寅彦が言うように、流言で興奮して乱暴を働いたり、いい機会だというので、自警団の組織を命令したりする輩は別に狂っているのではなく、むしろ防御的には冷静で自分の持っている認識に対しては理性的だと言っていいかもしれない。だから、寺田のように「科学的常識」が欠けているといわなければならない。本当は「常識」といった方がいいかもしれない。しかし、常識は常に、「**的」という権威を伴っていないとあぶないのかもしれない。

 博学にして信心深い人であったが僧は狸に容易にだまされていた。しかし猟師は無学無信心ではあったが、強い常識を生れながらもっていた、この生れながらもっていた常識だけで直ちに危険な迷を看破し、かつそれを退治する事ができた。

――小泉八雲「常識」


ほんとは「生まれながら」ではなかった。「常識」を持っていたのは小泉であり、お話の仕組みである。現実の猟師がいつも狐のだましを見抜くとは限るまい。僧と猟師が逆の場合だってあるにちがいない。

ストライキと夏休み

2023-09-01 23:02:31 | 文学


 私は、だいたい、ストライキという手段は、好きではない。社会生活に於ける闘争ということを好まないのだ。闘争ほど、社会の敵なる言葉はない。
 私は、資本家(国家でもよい)と労働者の利益分配が生活の最も重大なものとなっている今日、簡単の労働法規というようなもので、この重大な生活問題を社会の片隅で処理しているのが間違いだと思う。
 私は労働問題審判所というものを設け、最高裁判所、内閣、この二つと並べて、三位同格の最高機関とすべきだろうと思う。今日、裁判所に、地方、中央、完備した組織ある如く、労働問題の審判にも、全国に完備した組織をもち、これを公正、最高、絶対の機関とし、ストライキという好戦的な手段を社会生活から抹殺すべきだと思う。
 賃金問題は今や個人の最大の生活問題となっているのに、これをストライキという如き素朴、好戦的な方法にゆだねて、合理的な機関を発明しないのは、不思議である。


――坂口安吾「戦争論」


せごうと西武が自分たちがうっぱらわれるというのでストライキをやっている。デモだけでいいんだデモができる社会になるからだ、とは柄谷行人の意見であるが、ストもストだけでいいんだストができる社会になるからだといへよう。ところで、ショルティのマーラーの六番はもうデモ行進の音楽である。ロマン派の後期には、1812年や軍隊行進曲のかわりに、デモの足音が音楽から聞こえるようになる。音楽が機械としての我々の群衆性によりそいはじめたのである。対して、安吾が群衆の「好戦性」に対して「社会」を対置しているのは、常識的な良識だ。ストはだいたい群衆の沼と化して人間に対する社会の役割を果たさなくなった組織や社会に「スト返し」を行っているに等しい。安吾は、もうそれは戦争や殴り合いとおなじだと敗戦後に言っているのであった。

地震や戦争の用意ばかりして、生きることを放棄した我々の生は、もう社会性を失って久しい。しかし、文化はいつも残り続けるのが不思議だ。

今日は、朝から多くの小学生の群れが、なんか段ボールの工作みたいなものを担いで登校していた。夏休み明けというのは、一種の文化祭的な祝祭じみている、わりと寝不足だし。夏休みは、戦争とは別の意味であるがそういうもので、それの終焉は敗戦に似ている。しかしそれは、我々の多くがあまりに日常に対してサボタージュをかけているからである。わたくしは根っからの労働的なやつであるから、大学までは夏休みの宿題なんか毎日こつこつとやってて、われながら休み末期ものんびりと完璧だったが、――かんがえてみると、小学校低学年の頃は、プール(こわいから)に全然行ってなくてそれがばれるのが怖かった気もする。かようなわたくしが夏休み全然仕事できてないのは、つまり落ちこぼれたか、というわけだ。

まあ小学校の時も一生懸命だったのは虫取りの他には日記とか自由研究?だったし、中学の時は三年生の時に音楽に加えて木彫とかにはまり込んでしまい、先生たちが「ああいうあれはあれ」と五教科もそこそこがんばっていたのに問題にしていたようで、とにかくこの世は面倒だ。

終戦前の横溝君は文章がヘタで、この雰囲気ごのみ、怪奇ごのみ、読むに堪えない作品ばかりだったが、終戦後は見ちがえる成長ぶりで、差が激しいので、いささか呆れる程である。年期をいれて、こんなに生長するということは尊いことで、後進に勇気を与えることでもある。

――坂口安吾「探偵小説論」


これは坂口安吾だけが思ったことではない。横溝正史なんかは、夏休みを終えたら、急に文章が上手くなっていた。西洋にとっての第一次大戦のように大量死を経験したからだ、みたいな意見もあるが、――やはり、休み明けですっきりする人間というのがいるのと思うのだ。