なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災107 除夜の鐘

2011年12月31日 23時14分02秒 | 東日本大震災

間もなく2011年、平成23年が終わろうとしています。

いくつまで生きるかはわかりませんが、私の人生において、最も大きな一年となりました。

信じられない光景を見ました。

胸がつぶれる思いをしました。

ひとの悲しみ、苦しみを嫌というほど知りました。

この人生にこのことにめぐり逢った意味を考えなければなりません。

否、意味などどうでもいいのです。

めぐり逢って、それからどう生きるのかこそが問題です。

気持ちは、岩手、宮城から福島に移動しつつあります。

津波から原発に移りつつあります。

みなさん、ようーく見てください。FUKUSHIMAは全く全然終わっていません。

政府も、マスコミも、世論を収束に向けようとしています。

福島を見捨てようとしているかのようです。

そもそも、なぜ、東京の発電所を福島につくらなければならなかったのか。

電気を運ぶロスから考えればおかしなことです。

絶対に安全な想定ならばありえません。

「万が一」のことを想定したからに違いありません。

事故が起きたときのことを想定済みだったのです。

「白河以北、一山百文」

東北を、蝦夷地として見下げた言葉です。

そういう認識の中で東北の私たちは生きています。

悔しいですね。

美談や、節電などの良識にうったえる言葉で現実の眼をそらしてはなりません。

見たくないことも見ようとしなければなりません。

忘れてはならないことがあります。

残りの命を全部費やしても惜しくはない「現場」が今そこにあります。

それが、このときにめぐり逢わせたこの命の使命だと受け止めます。

来年はFUKUSHIMAのことを考える一年になりそうです。

震災以降、たくさんの出会いがありました。

悲しみを忘れて心から笑い楽しんだときもありました。

済んだことにすれば、「激動の一年」と言えなくもありません。

まだ終わりにできません。

過去形で語るのはやめましょう。

これから除夜の鐘を撞きます。

今日で断ち切らず、来年につなげていくための鐘にします。

残りの人生のスタートの合図です。


大震災106 まだ、まにあうなら

2011年12月30日 22時05分17秒 | 東日本大震災

 「火のついた家の中で、それと知らず、室内の装飾をあれこれ工夫し、高級な家具調度品をそろえるのにやっきとなり、健康増進のため、さまざまな器具を買って体操し、もっと豊かな生活を、もっと人間らしい生活を、もっと長生きをと願っている人間の姿を想像します。

 そうする間に火はどんどん燃えさかってゆきます。早く、急いで、今すぐまず火を消し止めなければ、家が燃えてしまえば何もかもなくなり、逃げ遅れて焼死すれば、今までのことがいったい何になるでしょう。」

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<wrap type="tight"></wrap> これは、甘蔗珠恵子さんが書いた、『まだ、まにあうのならー私の書いたいちばん長い手紙―』の一節です。

 甘蔗さんは、福岡県に住む二人の子どもの母親で、“原発”が原子力発電所の略称であることも知らないごく普通の主婦でした。

その甘蔗さんが、チェルノブイリ原発事故から1年後の1987年、ふとした機会に聴いた講演で原発の恐ろしさを知り、関係書を読みあさり、いたたまれない気持ちで知人宛に書いた手紙、それが小冊子となり、これまで50万部読まれているのがこの本です。

  今から25年前に書かれ、警鐘を鳴らし続けたにもかかわらず、残念なことに、福島第一原発の大惨事が起こってしまいました。

  「使用済み核燃料棒から出る死の灰液は、膨大な熱と放射能をたくわえたとても危険なものです。長い間冷却しつづけなければ過熱して蒸発し、放射能が漏れ出す危険があります。この冷却装置が停電で止まれば、短時間で大惨事を招きます。地震などの災害によっても大事故は起こりえます。」

  甘蔗さんの言葉は事故を予測したかのようでした。

  「原子力発電所一基が1年間動くと、死の灰が一トン、プルトニウムが250キログラムたまります。これは広島型原爆の千倍の死の灰と、長崎型原爆の50発分のプルトニウムです。」

  こんな危険な原発をなぜ作り、事故後も再稼働しようとしているのか、この本ではその仕組みも明らかにしています。

  震災による福島の惨状を知ろうとして現地に入り、情報を得るごとに「この国の原発に関わる仕組みは恐ろしい」と思うようになりました。もっと恐ろしいのは、その仕組みの中でマスコミが統制され、国民が真実を知らされないということ。

  「まず、家が燃えているという事実に気づきましょう。消し止められるうちに。」冒頭の一節に続く甘蔗さんの言葉です。


大震災105 天災と人災

2011年12月20日 14時10分13秒 | 東日本大震災

「音の風」東京公演は盛会裡に終わりました。

8月には不安げだったコーラス隊も堂々と立派に歌っていました。

最上からの出演者の一人が舞台上で倒れるなど、アクシデントもありましたが、無事でしたので安心しました。

翌日の昨日、帰りに福島に寄ってきました。

曹洞宗福島県宗務所長を訪ねて、ご挨拶と今後の相談に。

その現地に行かないと分からない生の声や情報など、たくさん伺うことができて、ますます「フクシマを何とかしなければ」という思いを強くしました。

まけない!タオルも、「まけないと言っても何にまけないのかなんだよね。今の困難な状況にまけないというのでは納得いかないんだよ。こんな状況に追い込んだ国や東電に対してまけないというのでないと」。

天災と人災の違いが大きく横たわっています。

原発問題は明らかに人災であり、しかもその問題の部分は隠蔽するという体質、それがマスコミまで及んでいるという事実が少しずつ分かってくると、本当に恐ろしくなります。

マスコミが真実を報道せず、情報が統制されているのだとすれば、将軍が死んでしまった国と何ら変わりはありません。泣き真似ではなく、本当に泣いているのは誰なのか、ちゃんと見極める眼を持たなければなりません。

とりあえず「別冊宝島 原発の深い闇 1,2」を読みましょう。


大震災104 「音の風」東京公演

2011年12月17日 22時12分54秒 | 東日本大震災

以前告知したように、明日は東京で「音の風」コンサート。まけないタオルの合唱です。

池田敏美、弦親子の演奏と、少年少女ママさんコーラスのコラボ、そして、最上町での開催と同じく、やなせなな、早坂文明両師との鼎談で、タオルトーク。もちろんななさんのライブもある、という盛りだくさんのプログラムです。

最上町からも、子供たち、昔の少年少女コーラス隊の総勢50数名が、今朝バスで出発しました。

雪も積もりましたが、まだまだ大したことはありません。

これで今月だけで3度目の上京となります。

雪国が雪だと関東はたいがい晴天なのですね。

フクシマにも雪が降っているでしょうか。雪がとけると一緒に放射能も消えればいいのに。

とにかくまずは除染ですね。雨や雪で大地を洗い流し、側溝にたまったものでもいいので早く処理して欲しいですね。

歌を歌っている場合ではないのかもしれませんが、歌を通して被災地を忘れないように伝えてきたいと思います。


SVA30周年

2011年12月13日 23時13分52秒 | シャンティ国際ボランティア会

前回からの動きを。

12月8日、お釈迦様お悟りの日、成道会。坐禅をしてあずき粥を食べてお祝いしました。

9日、SVA30周年記念式典の打ち合わせで東京。

10日、記念式典。160名ほどの出席を得て盛大に圓成。30年を振り返り、また、新たな一歩を踏み出す決意を確認。

内容は、これまでのSVA根幹事業である図書館活動の意義を検証するパネルと東日本被災地の現状を語るパネルというシンポジウムと、懇親会の2部構成。

30年前に、この団体が30年続くと思った人も、こんなに大きな活動体となることを予測できた人もいないと思われます。

「ボランティアの道はけものみちに似ている」と達観した先達、有馬実成師の言葉を胸に、これからも道なき道を、勇気と希望をもって歩み続けなければなりません。隣を見るといつも仲間が同じく歩いてくれるのであって欲しい、と思います。

11日、千葉県佐倉の歴史民俗博物館へ。久しぶりなので以前の展示が思い出せませんでした。ここの展示量もすごい。ポイントを絞らないと、一日ではとても回れない。もう2~3度は訪れないとと思いました。

その後、尊敬する千葉の和尚さんの寺へ、叱られに。何を言われるかは分かっているのですが、時々叱られないとスッキリしません。酔うほどに「バカたれが、そンなことも分からんで」と、いつもの言葉を聞くと安心します。

本当はもう一泊して、13日に山口の猿回し猿舞座の親方とお会いして、来年の被災地公演の打ち合わせをする予定でしたが、葬儀が入ったため断念。

12日に山形に戻り今日13日葬儀、という近況でした。


大震災103 原発を学ぼう

2011年12月07日 22時40分34秒 | 東日本大震災

12月4日は仙山カレッジに100名を超す皆さんが集まってくれました。

3名のパネラーもそれぞれの方面から経験を話されていいフォーラムになったと思います。

またまたいい出会いもたくさんでき、今後が楽しみな感じもします。

フォーラムの様子は11日の河北新報に詳しく掲載されるようなので、興味のある方はご覧ください。

5日、松林寺梅花講の総会にサプライズで気仙沼大漁唄い込みの方々30名が来てくださり、唄い込みを披露してくださいました。

これは、赤倉幼稚園の園児がDVDを見て唄い込みを練習してくれたのに応えて、本物とのジョイントを演じてくれた帰りに松林寺にも寄ってくれたもので、迫力ある唄に再び感動いたしました。

6~7日、特派布教師の協議会で東京でした。

この中で、被災地の布教師さんからの現地報告がなされたのですが、特に福島の報告には胸が痛み、すぐ近くで、9ヶ月にもなるのに、ほとんどこれまで実態を知らなかったと、慚愧に思いました。

「雲の上にどっかりと放射能の問題が乗っかっているようで、福島の人々はみんなウツ状態にある」との言葉通り、これまで、福島の人々は自らその状態を外に発信していくことができなかったのではないか、もしかしたら、それをするのは福島以外の人の役目なのではないか、と感じました。

何ができるか分かりませんが、少し動いてみたいと思います。

そして、原発の問題を、もっともっと真剣に勉強する必要がある、と強く感じました。

原発問題は今後ますます深刻になると思われます。

仏教界が少し動きました。

全日本仏教会の宣言文です。長くなりますが全文掲載します。

宣言文

原子力発電によらない生き方を求めて

東京電力福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避難生活を強いられています。避難されている人々はやり場のない怒りと見通しのつかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。
広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。

日本は原子爆弾による世界で唯一の被爆国であります。多くの人々の「いのち」が奪われ、また、一命をとりとめられた人々は現在もなお放射線による被曝で苦しんでいます。同じ過ちを人類が再び繰り返さないために、私たち日本人はその悲惨さ、苦しみをとおして「いのち」の尊さを世界の人々に伝え続けています。

全日本仏教会は仏教精神にもとづき、一人ひとりの「いのち」が尊重される社会を築くため、世界平和の実現に取り組んでまいりました。その一方で私たちはもっと快適に、もっと便利にと欲望を拡大してきました。その利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による「いのち」の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。だからこそ、私たちはこのような原発事故による「いのち」と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。

私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません。
そして、私たちはこの問題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし、一人ひとりの「いのち」が守られる社会を築くことを宣言いたします。

   2011(平成23)年12月1日

財団法人 全日本仏教会


大震災102 最上町で仙山カレッジ

2011年12月02日 22時11分24秒 | 東日本大震災

今日は舟形町納税組合研修会という場での講演でした。

テーマは「心の健康、ストレスをなくそう」。

もちろん私がつけた演題ではなく、先方からの依頼です。

このテーマでなぜ私なのか分かりませんが、手近に低料金でという選定だったのかもしれません。

明日は、河北新報主催の「仙山カレッジ」というフォーラムのパネリストとして登壇します。

仙台と山形の交流や連携を目的とした企画で、第25回目になる今回は、最上町を会場に、「共助は峠を越えてー『志民』が見た大震災」というテーマです。

ボランティアを『志民』と呼びたいという意図のようです。どうもそういう言い回しが流行りのようですな。

それじゃあこちらも『支縁』で対抗しようかと思っています。別に対抗する必要もないのですが。

他のパネラーは、仙台市福住町の町内会長菅原さんという方と、山形大学教授の平尾さんという方。座長が宮城大学教授の宮原さん。

基調講演を高橋最上町長が行います。

いつの間にか、最上町の震災ボランティアの代表のように扱われています。

私が話すことは、いつもの内容ですので、特に目新しいものはありませんが、他のパネラーとのやりとりで、果たしてどんなことになりますことやら。

詳しい内容は下記。

http://ipage.yamagata-npo-volunteer.net/modules/piCal1/index.php?action=View&event_id=0000000556