原発再稼働の議論は、結局のところ原発を0にするか少しでも動かすかの選択でしょう。何%という問題ではないですね。
福島第一の事故によって我々が知り得たのは、「安全」という謳い文句のウソでした。「絶対」などと形容詞を付けた分だけその不信感は更に高まったと言わなければなりません。
「安全」という言葉がウソである以上、今後、その言葉の上に成り立っている原子力発電の「安全性」は全く信用ならないということは明らかです。
日本の事故を受けて、ほとんど地震のないドイツが原発0を目指すことを決めたのに、多くの活断層の上に乗っかっているその当事国が、事故の原因も究明されず、被害者が全く救済されないうちに、この期に及んで再稼働させるなどという暴挙は正気の沙汰では考えられません。
再稼働の理由は電力不足ということです。しかし、火力発電を止めての再稼働ですから、理由は違うところにあるのでしょう。温暖化の問題と燃料費の問題という理由もあるのでしょうが、それでも、今この時期に原発を、また動かす、という決断を、あまりにも簡単に、一人の政治家の軽い「決断」に委ねてはいけないでしょう。
今この国は、世界に先駆けての大きな判断を迫られているのだと思います。
福島県全土、また周辺地域の人々の苦しみは、その判断を迫られるきっかけとして充分過ぎるほどの惨状です。
なぜそのことに目が行かないのが、なぜそのことに考えが及ばないのか。想像力が鈍すぎます。
さて、その決断とは何でしょうか。
本当に電気がないと生きられないでしょうか。
「今更電気のない生活など考えられない、原始時代に戻れと言うのか」。
原始時代というのは大げさで、日本の田舎の庶民の生活に電気が普及したのは昭和になってからでしょうか。たかだか100年そこそこのことでしょう。
それでも、原始時代に戻ってしまうように思ってしまうほど、我々は電気にどっぷり依存した生活をしてきました。
しかし、原発0を主張している人も、「電気0」を主張しているわけではありませんね。
お陰様で、原発を使わなくてもある程度の電気は造れるということが、色々な分野の開発で分かってきています。
そこで決断ですが、一つは、福島のような苦しみの人を二度と出さない。今の福島の人々の苦しみを決して無駄にしない。安全の確保できない原発は、もうやめよう。そのことで生活が少し不便になるとしてもそれでもいい、という選択。
そうしてもう一つは、誰かが「安全」と言うのを信じて、どれ程の割合かは別にして原発を使っていく。多少のリスクはあっても今の便利な生活は決して変えたくない、という選択。
どちらを決断するのか。これは二者択一です。中間はありません。
その時に頭に置いていなければならないのは、未来の世界です。未来の人々がどのような世界に生きることを幸せと感じるか。その想像力を働かせなければなりません。
残念ながら、振興国はこれからどんどん原発を造るようです。一つの原発の事故は世界に影響を及ぼしますから、ゆゆしき問題です。だからといって、日本まで対抗して原発の危険を抱え込む必要はないでしょう。他の国と比べて格段に地震の可能性が高いのですから。
そして、広島、長崎を経験した被爆国日本が、世界に先駆けて核廃絶を訴えたように、この度の大きな事故を経験した日本が、世界に先駆けて原発廃絶を実現する使命を負っていると言うべきでしょう。
でもですね、実はどうも、原発推進の陰には核保有という隠された理由がありそうですね。中国などの核保有国への抑止のために、原発を残し、核技術の温存が必要と考えている人がいるようなのです。
どうですか、日本が他国から核攻撃を受けないために核を保有する必要があるでしょうか。そのために原発を動かし続けることがこの国の未来のためなのでしょうか。
皆さんはどう考えますか。