三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第362回。4月24日、日曜日。
昨日は、花の鶴楯を創る会の春の作業でした。
昨秋、降雪直前に伐採した樹木を道路脇まで引き下ろし、一定のサイズに切り揃え、トラックに積んで「木の駅」に引き取ってもらいます。
そして、仮植えしていた桜の苗木10本をその跡地に定植するという作業でした。
この冬は降雪がとても多く、支えをしていましたが苗木の半分が途中から折れてしまいました。
寺の植木もこれまでにないくらい枝折れしていましたから、今年の雪は本当に多かったのだと知らされました。
鶴楯の山が桜の山になることを思い描いて作業していますが、思い通りの姿になるまでにはかなりの年数がかかります。
あきらめず、たゆまず、一年一年のすべきことを続けて行こうと思っています。
これまで飼っていた猫と犬のことを思い出していました。
物心ついた時から松林寺には猫がいました。その当時はネズミ除けのためにどこでも猫を置いていたように思います。
はじめての猫がどんな名前だったのか「チャコ」だったか憶えていませんがトラ猫だったと記憶の片隅にあります。
父親がいたずらで前足に輪ゴムをはめて、それがとれなくてかわいそうだった、と祖母が思い出話をしていたのを覚えています。
小学低学年だったと思いますが、前の猫が死んだ後に姉妹の猫をもらってきて、姉がその当時の流行歌手にあやかって「ジュン」と「ネネ」と名付けました。
間もなくジュンは死んで、残ったネネは私の布団の中で寝ていました。何と布団の中で出産もしました。
その頃、少年の間で鳩を飼うのが流行っていました。
ネネが見えなくなり、あちこちみんなで探しましたが見つからず、あきらめた頃、近所の少年が、鳩小屋に近づいた猫を殺したと自慢げに言うのを聞きました。残念ながら犠牲になったことを知りました。
まだまだ野蛮な時代で、産まれた子猫を川に捨ててくるというようなことは普通に行われていました。
それでも、飼い猫の最期には胸を痛め、しばらくの間傷心の日々を送っていました。
その後松林寺には猫の不在が続いたと思います。
私も大学から松林寺を離れていましたので猫の記憶はありません。
一度戻りましたが、間もなく宿用院住職として河北町に移住しました。
宿用院では、まず黒猫がやって来て「なむ」と名付けました。バタバタして何日か家を空けたことがあり、いったん戻った時に足元に甘えるなむを置いてすぐに家を出てしまいました。
その晩家に戻った時には、なむはいなくなっていました。名前を呼びながら近所をずいぶん探しましたが帰ってきませんでした。
足元にじゃれついた時に餌の皿が空になっていたのを見ていながら補充をしなかったことをずーっと後悔していました。
順番から言えばその後は犬ですが、その話は後回しにして、猫を続けます。
父親がパーキンソン症候群と診断され、言葉も出なくなりぼんやり暮らすようになって、アニマルセラピーとして犬か猫かを飼ったらどうだということになり、松林寺でアメリカンショートヘアを求めました。名前は「風太」だったか何かですが「フー」とばかり呼んでいたので本名を忘れました。
ペットショップで「あまり外に出さない方がいい」と言われたので夜はゲージに入れて飼っていました。
それでも春になれば外に飛び出し、父親と墓のあたりでウロウロしていた時に姿が見えなくなりました。父親が何か言うのですが意味が通じず、側溝に落ちたのかどこかへ飛び出して事故にでもあったのか、結局は分からずじまいでした。
宿用院では黒っぽい猫がやって来て、毛の先が黒く中が白いので「ティラミス」と名付け「ティラ」と呼んでいました。
何年居たのか、姿が見えなくなったと思ったら床下で固くなっていました。猫は死ぬときに姿を隠すというのをその通りだと思った記憶があります。
その後は、子どもたちが拾ってきたりペットショップで処分寸前のを買ってきたりした「ミータン」「くつした」「ロビン」という猫がいましたが、それぞれ、寿命、事故、腎臓病で亡くなりました。
で、犬ですが、子犬でもらってきた時には「メグ」という名前が付いていました。「めごめご」からその名前になったとのこと。
少し下がり目の悲しげな顔がかわいい真っ白な犬でした。
初めて散歩に連れて行った時には、途中で怖くなって尻込みして歩きません。仕方ないので抱いて散歩を続け、腕の中で震えていました。
避妊手術をして入院から帰った時には包帯のまま雪の中を走り回り、おとなしくさせようと足を出したら運悪く包帯の腹に当たってしまい「キャン」と鳴いて飛びあがりました。
大丈夫かと心配していると、恐る恐る足元にやって来て上目遣いで泣きそうな顔をしていたのを忘れられません。
散歩をしてあげられませんでした。
いつの間にか私の係になっていたので、寺に居る時は朝の散歩を日課にしていましたが、外に出ている時が多くなり、忙しいとか疲れたとかを言い訳にしてズルズルと散歩の回数が減っていきました。
寺に帰ると、姿を見つけて声を上げて立ち上がり散歩を要求するのですが、見て見ぬふりをしていました。
老犬になり、たまに庭でリードを放してもヨタヨタと歩くばかりで走る筋力はなくなっていきました。
長く伸びた爪を切ろうと、鋏を入れたところ、爪の裏の肉まで切ってしまいました。
寒い夜、外からサッシ戸を何度も叩いて「クーンクーン」と鳴いて、今日はやけにアピールするなと思っていた次の朝、冷たくなっていました。
何て冷たい飼い主だったと、思い出しては胸が締め付けられています。
この犬には本当にかわいそうなことをしました。飼い主の資格は全くないと思っています。
猫と違って犬は従順なだけに不憫に思います。
そんなことを時折思い出しては自分を責めているのです。呻きの声を発しながら。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
昨日は、花の鶴楯を創る会の春の作業でした。
昨秋、降雪直前に伐採した樹木を道路脇まで引き下ろし、一定のサイズに切り揃え、トラックに積んで「木の駅」に引き取ってもらいます。
そして、仮植えしていた桜の苗木10本をその跡地に定植するという作業でした。
この冬は降雪がとても多く、支えをしていましたが苗木の半分が途中から折れてしまいました。
寺の植木もこれまでにないくらい枝折れしていましたから、今年の雪は本当に多かったのだと知らされました。
鶴楯の山が桜の山になることを思い描いて作業していますが、思い通りの姿になるまでにはかなりの年数がかかります。
あきらめず、たゆまず、一年一年のすべきことを続けて行こうと思っています。
これまで飼っていた猫と犬のことを思い出していました。
物心ついた時から松林寺には猫がいました。その当時はネズミ除けのためにどこでも猫を置いていたように思います。
はじめての猫がどんな名前だったのか「チャコ」だったか憶えていませんがトラ猫だったと記憶の片隅にあります。
父親がいたずらで前足に輪ゴムをはめて、それがとれなくてかわいそうだった、と祖母が思い出話をしていたのを覚えています。
小学低学年だったと思いますが、前の猫が死んだ後に姉妹の猫をもらってきて、姉がその当時の流行歌手にあやかって「ジュン」と「ネネ」と名付けました。
間もなくジュンは死んで、残ったネネは私の布団の中で寝ていました。何と布団の中で出産もしました。
その頃、少年の間で鳩を飼うのが流行っていました。
ネネが見えなくなり、あちこちみんなで探しましたが見つからず、あきらめた頃、近所の少年が、鳩小屋に近づいた猫を殺したと自慢げに言うのを聞きました。残念ながら犠牲になったことを知りました。
まだまだ野蛮な時代で、産まれた子猫を川に捨ててくるというようなことは普通に行われていました。
それでも、飼い猫の最期には胸を痛め、しばらくの間傷心の日々を送っていました。
その後松林寺には猫の不在が続いたと思います。
私も大学から松林寺を離れていましたので猫の記憶はありません。
一度戻りましたが、間もなく宿用院住職として河北町に移住しました。
宿用院では、まず黒猫がやって来て「なむ」と名付けました。バタバタして何日か家を空けたことがあり、いったん戻った時に足元に甘えるなむを置いてすぐに家を出てしまいました。
その晩家に戻った時には、なむはいなくなっていました。名前を呼びながら近所をずいぶん探しましたが帰ってきませんでした。
足元にじゃれついた時に餌の皿が空になっていたのを見ていながら補充をしなかったことをずーっと後悔していました。
順番から言えばその後は犬ですが、その話は後回しにして、猫を続けます。
父親がパーキンソン症候群と診断され、言葉も出なくなりぼんやり暮らすようになって、アニマルセラピーとして犬か猫かを飼ったらどうだということになり、松林寺でアメリカンショートヘアを求めました。名前は「風太」だったか何かですが「フー」とばかり呼んでいたので本名を忘れました。
ペットショップで「あまり外に出さない方がいい」と言われたので夜はゲージに入れて飼っていました。
それでも春になれば外に飛び出し、父親と墓のあたりでウロウロしていた時に姿が見えなくなりました。父親が何か言うのですが意味が通じず、側溝に落ちたのかどこかへ飛び出して事故にでもあったのか、結局は分からずじまいでした。
宿用院では黒っぽい猫がやって来て、毛の先が黒く中が白いので「ティラミス」と名付け「ティラ」と呼んでいました。
何年居たのか、姿が見えなくなったと思ったら床下で固くなっていました。猫は死ぬときに姿を隠すというのをその通りだと思った記憶があります。
その後は、子どもたちが拾ってきたりペットショップで処分寸前のを買ってきたりした「ミータン」「くつした」「ロビン」という猫がいましたが、それぞれ、寿命、事故、腎臓病で亡くなりました。
で、犬ですが、子犬でもらってきた時には「メグ」という名前が付いていました。「めごめご」からその名前になったとのこと。
少し下がり目の悲しげな顔がかわいい真っ白な犬でした。
初めて散歩に連れて行った時には、途中で怖くなって尻込みして歩きません。仕方ないので抱いて散歩を続け、腕の中で震えていました。
避妊手術をして入院から帰った時には包帯のまま雪の中を走り回り、おとなしくさせようと足を出したら運悪く包帯の腹に当たってしまい「キャン」と鳴いて飛びあがりました。
大丈夫かと心配していると、恐る恐る足元にやって来て上目遣いで泣きそうな顔をしていたのを忘れられません。
散歩をしてあげられませんでした。
いつの間にか私の係になっていたので、寺に居る時は朝の散歩を日課にしていましたが、外に出ている時が多くなり、忙しいとか疲れたとかを言い訳にしてズルズルと散歩の回数が減っていきました。
寺に帰ると、姿を見つけて声を上げて立ち上がり散歩を要求するのですが、見て見ぬふりをしていました。
老犬になり、たまに庭でリードを放してもヨタヨタと歩くばかりで走る筋力はなくなっていきました。
長く伸びた爪を切ろうと、鋏を入れたところ、爪の裏の肉まで切ってしまいました。
寒い夜、外からサッシ戸を何度も叩いて「クーンクーン」と鳴いて、今日はやけにアピールするなと思っていた次の朝、冷たくなっていました。
何て冷たい飼い主だったと、思い出しては胸が締め付けられています。
この犬には本当にかわいそうなことをしました。飼い主の資格は全くないと思っています。
猫と違って犬は従順なだけに不憫に思います。
そんなことを時折思い出しては自分を責めているのです。呻きの声を発しながら。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。