なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ477 邯鄲(かんたん)の夢

2024年07月28日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第477回。令和6年7月28日、日曜日。

 

25日から26日にかけて当地に特別大雨警報が発令されました。

全国ニュースでもトップに取り上げられ、各地から安否を気遣う連絡をいただきました。

26日朝の段階で、国道47号線が町の西端で土砂崩れによる通行止め、南方の尾花沢、村山方面に抜ける山刀伐峠も土砂崩れにより通行止め、新庄ー鳴子温泉を結ぶ陸羽東線も不通になりました。

唯一東側の宮城県に抜ける国道は通じていましたが、半孤立状態となり、物流はストップしました。新聞が来ません。通勤の人が来られないので銀行が臨時休業、町立病院の数科も、スーパーも臨時休業し、開いているドラッグストアに食料品を求めて客が殺到していました。

JRの運転は平常に戻り尾花沢方面の道路も通行止めが解除されましたが、新庄方面の国道47号は未だ通行止めです。

昨日27日戸沢村古口と鮭川村を見てきました。

道路があちこちで寸断され、目的地に行くまでに何度も何度も迂回して迷路のようでした。

外からの支援のためには道路の復旧が第一なので、時間との勝負になってくるでしょう。

昨日私は行けませんでしたが青年僧侶数名が、最も被害の大きい蔵岡地区に入ったようです。

集落の戸数約100戸のほぼ100%が床上浸水。2階まで浸水した家屋も何割かあったようで、片づける気力もなく呆然としている様子だったとのこと。

それでも前に進まなければならないので、傍に寄り添うことが必要だと思います。

当地は災害がなくていいところだと年寄りはよく口にしていましたが、全国そんなところはないのでしょう。

もう異常気象などとは呼べません。これが平年通りだと受け止めなければなりません。それが温暖化です。

 

70歳になんなんとしている自分を客観的に観て、人生とはあっという間だと感じています。

その時その時はそう感じなくても、これまでを振りかえり押しなべて観察してみると、「邯鄲の夢」の如く実にあっという間のことだったと思えます。

更にこれからどれほど生きるのか分かりませんが、最期の瞬間に感じる思いもおそらく同じようであろうと、あるいはもっと短い時間に感じるのかもしれないと思われます。

その時は、現在の人のつながりリアルな人間関係ばかりでなく、ネット上のつながりや会ったこともないけれど心を通わせている人との関係も全て手放すことになります。

頭の中に残っている今は亡き人々との思い出も、映像としての記憶も、全て消え果ててしまいます。

ましてやお金や私の物と認識している私物も一切合切持ち主を失って抜け殻のように色褪せてしまうことでしょう。

しかしそれは、私がいなくなってからではなく今現在も、我が物という所有物はないのだと分からなければならないことです。

所有しているという思い込みが勘違いなのであり、その勘違いが自分自身を縛り、苦しめている原因だと知らなければなりません。

物ばかりではなく、人とのつながりも自分自身の身体、命も、自己所有物ではありません。

自分の所有物でもないこの身体を私たちは自分のもののように勝手に使っているに過ぎません。

誰も自分の思い通りにはならないように、自分自身も自分の思い通りにはなりません。

ならないものをならせようとすることが苦しみの原因なのです。

そのことに気づき、所有意識を手放すこと、解放すること、それが解脱です。真の自由というものです。

さはさでありながら、人とのつながりが消えてしまうことの寂しさは禁じ得ません。

お金や物が消えてなくなるのはさほど惜しくも感じませんが、語り合い笑い合う人との時間が失われるのはとても残念に感じます。

でもそれは、自分一人の一瞬の断ち切りであり、世界として何も変わることはありません。いわば未練でしかありません。

その時を待たなくとも、所有意識を少しづつ剝ぎ取っていくことができればと思います。

 

今週の一言

「所有から自由であれ」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ476 人間はバカなのか

2024年07月21日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第476回。令和6年7月21日、日曜日。

 

先週は予定表がブランクの日が何日かあって、晴れていれば外の作業を、雨ならば机上の作業か読まなければならない本を読めると思っていましたが、風邪をひいてしまったようです。

くしゃみ、鼻水が止まらず頭がボーっとして、ほぼ横になっていました。

風邪薬のためもあるでしょうが、朝も起きられず暁天朝課も散歩も休んで、何と12時間ほど寝ていました。

鼻づまりで困るのはCPAP(シーパップ)です。

睡眠時無呼吸症候群の治療器ですが、鼻から強制的に空気を送り鼻呼吸をさせるものです。

これがないと、口呼吸をしていびきをかき、舌が気道を塞ぎ無呼吸となります。

睡眠時に脳に酸素が十分に供給されず、様々な機能障害や死亡のリスクが高まるという症状です。

CPAPを使用して10年以上も経ちますが、車の運転中に眠くなるということはほとんどなくなりました。

ただ最近、法事のお経を読みながら眠くなることは度々あります。

鼻づまり状態でCPAPを使用すると、当然空気が入りづらく息苦しくなります。

外すと口呼吸になりますが、しばらく口呼吸の睡眠をしていないためかうまくできません。

何度も着けたり外したりを繰り返して夜を過ごしていました。

CPAPの大敵は鼻づまりだと気づきました。

昨日からほぼ平常に戻りましたので他事ながらご休心ください。

 

この世界はどこに向かおうとしているのかと時折不安に駆られます。

温暖化による気候危機。世界各地で起こる異常気象、自然災害。

その原因は人間による温室効果ガスであることは明らかなのに、その対策も焼け石に水のようなもの。

何かをやっている「ふり」が多く、温暖化を止めるには至らないだろうと絶望的になります。

そればかりか、戦争などは二酸化炭素の垂れ流し放題で、片方でチマチマ対策を実施しても、その分の効果を一瞬にして消し去ってしまう逆効果に違いありません。

今戦争状態にない国にしても、着々と戦争の準備を進めているように見え、偶発的な小競り合いから本当の戦争、更には世界大戦に至らないとも限らない危機を感じます。

全ては人間の所業ですが、その中でも国のトップの思惑で戦争は始まってしまうという状況を我々は目撃しているように思います。

 

癌は体内に発生しやがてその宿主である体全体を滅ぼしてしまいます。

この地球上の生物にとって人間はいわゆる癌細胞なのでしょうか。

そのことに危機を感じた地球が癌細胞たる人間を排除しようという、これが地球の自己防衛的な意志、免疫作用ならば、人間は甘んじて消滅するしかないのかもしれません。

しかし人間は何と愚かなものかと思わざるを得ません。ほんの一握りの人間の愚かさかもしれませんが、結局その一握りの人間に翻弄され、犠牲になり、人類全体が危機に追いやられるのですから何とも情けないことです。

結局政治家というものは、大統領から田舎の首長まで、自分の名誉と権力のために民衆を利用しているに過ぎないと思ってしまいます。

でも、そうさせているのは民衆ですから民衆に責任がないとは言えません。

想像してみてください、この空から爆弾が降ってくることを、ミサイルが飛んでくることを。

それが今現実にこの世界で起こっている事実です。

それを他人事と傍観することによって自分にもそれが近づいてくるのではないか。

抑止のための軍備などと言いますが、それは「矛盾」の語源の盾と矛のように、矛盾した考えです。

その延長線上に「核抑止」のために「核保有」するようなことになりはしないかと危惧します。唯一の被爆国であるこの国が。

何と愚かなことか。

 

今週の一言

「愚かさの連鎖を止めるのは誰か」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 


サンデーサンライズ475 身を施す

2024年07月14日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第475回。令和6年7月14日、日曜日。

 

先週の続き。

考えてみれば、老齢者というのは若者に身を奉げる献体のようなものではないかと思い至りました。

以前青森の和尚さんがこんな話をされました。

師匠、父親を自宅で看取った。

今際の際に父親は自分を枕辺に呼んで、息絶え絶えにこう言った。

「看病は、慈悲の、徳を、養う、最大の、修行なり」と。

お前はよく看病してくれた、これは慈悲の徳を養うお前の修行だった。

そのために、私はこの身を提供してきたのだ。ということだろう。

 

私もわずかばかり父親の介護のまねごとをさせていただいた。

父が、要介護状態にならず、元気なままコロリと逝ってしまっていたら今頃どんなに後悔していただろうかと思う。

「父親は敵だ」とばかり思って、体に触るどころかまともに声もかけずに過ごしてきた。

パーキンソン症候群になり、次第に体が思うように動かせず、介助が必要となった。

仕方なく、小学生の時以来に体に触れ、抱き上げたり、座らせたり、トイレでお尻を拭いたり、風呂で背中を流したりさせてもらった。

親孝行とまではいかなくとも、わずかばかり世話をさせてもらったことで自分なりにやったと、自分を許せることができている。

もしかしたら父親は、死んでから息子が後悔して自分を責めないようにと、あえて病気になってくれたのではないかとさえ思う。

 

そのように、老人が身を晒し身を委ねるのは若い者に慈悲心を養わさせるための捨身施なのだろうと受け止めます。

なので「若い者に迷惑はかけたくない」と思うのは間違いです。

多少苦労はしても、苦労から学ぶことはたくさんあるのだし、苦労しないことが幸せだとも言えません。

だいたいにして、親の介護や看病を迷惑だと思わせるような社会はおかしい。

親の世話を人任せにしてしまって後悔している人もいるのではないですか。

わざわざ望んで介護状態になる必要もありませんが、たとえなったとしても、それは若い者に我が身を提供しているんだ、この体を使ってどうか徳を養ってくれよと、思ってみたらどうでしょう。

若い者もきっと後から、よくやったと自分を褒め、許し、楽に呼吸ができ、自信を感じることにもなるでしょう。

お世話させていただいたことを感謝するに違いないと私は経験上思います。

 

さて、本日から大相撲名古屋場所です。

佐渡が嶽部屋の琴櫻は大関3場所目となります。

優勝、横綱への足掛かり、と期待が膨らみますが果たしてどうでしょうか。

ファンには申し訳ないですが、私は若干懐疑的です。

体も大きい、柔らかさもある、技もある、しかし優勝、横綱にはそれだけでは足りないと思っています。

相撲はいわば格闘技です。

その中で勝ち上がっていくには、強い気持ちが不可欠です。

琴櫻は父親似で性格が優しい。

立ち合いの最後の塩で鬼のような形相をするのも弱い心の表れで、自分を奮い立たせているのでしょうが、あんなことをしたらかえって体にいらぬ力が入って自然体でとれないでしょう。

体が自然に反応するためには意識がどこかに集中していてはダメです。

心の重心を下げて腹の座った相撲をとればいいのにと思うところです。

あの顔をやめれば自然に勝てるようになるかもしれません。

ですからむしろ、私は琴櫻には、勝っても負けても相撲ファンに愛される心の優しい人格者の大関として長く務めてもらいたいと願っています。

たとえ横綱にならなくてもです。

そうは言っても、観ている方は力が入るんですよね。

私の予想など大外れであることを心のどこかで祈りながら。

 

今週の一言。

「勝つことだけが相撲じゃない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ475 老いの自覚

2024年07月07日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第474回。令和6年7月7日、日曜日。

 

日曜日から金曜日まで東京でした。

令和6年度曹洞宗布教師養成所の第1回目。

合計50名の若き僧が布教師の勉強のために年3回集います。

今年度年間テーマに掲げたのは、「法が良薬ならば」。

「我は良医の病を知って薬を説くがごとし」と『遺教経』にあります。

仏法、仏の教えは衆生を苦悩から救う「良薬」だとしています。

であるならば、現代社会の苦悩に対して、仏教はどんな救いー薬を処方することができるのか。

苦悩には数々の種類があります。

それを以下の3つの種別に分類しました。

①根本苦ースピリチャル・ペイン 

 生老病死に代表される人間が生きている限り離れることのできない根本的な苦悩。

②社会苦ーソーシャル・ペイン

 社会的な問題に起因する苦悩。人権、差別、貧困、いじめ、戦争、災害、LGBTQ、DV、などなど。

時代によってその種類は広がりまた増え続けています。

③生きがい苦ーライフプラン・ペイン

 価値観の多様化が進む現代社会の「生きがい」の模索。

やりたいことが見つからない、生きづらさ、ひきこもり、自殺願望、存在感の喪失、仕事上の悩み、生きがいの喪失、引退後の人生。などなど。

それらの苦悩の中にいる人々に向き合い、寄り添い、語りかける言葉として、どんな教えが有効なのか。それを学ぼうとしています。

 

第1回目の今回は、生老病死の苦悩に寄り添い、その痛みに対する法の処方箋を互いに出し合って学びました。

テーマの関係で、数々の別れの例話が出てきました。多くの死の場面に立ち会ったような感じです。

悲しみに出会うほど自らの慈悲心を呼び戻すことができるでしょう。

その場合自分だったらどんな話ができるだろうかと考えながら学びます。

朝の5時30分から夜9時まで、坐禅、朝課の後はひたすら人の話に耳を傾け講評用紙を記入する時間です。

それだけでかなりの頭の重労働ですが、テーマがテーマだけに心も疲れた感じです。

 

東京からの帰り、鳴子温泉駅で、キャリーケースを持ってホームの跨線橋の階段を登ろうとしたら後ろから「荷物持ちましょうか」と声がしました。

振り向くと、高校生と思しき笑顔のさわやかな青年でした。

とっさに「大丈夫、ありがとう。」と答えました。

遠慮したのか強がりだったのか。

今までそんな経験はないので単に驚いたのかもしれません。

そんなに辛そうに見えたのか、いたわってあげなければならないと思わせる年齢に見えたのか。

確かに世間的には高齢者と呼ばれる年齢ではある。疲れているようにも見えたでしょう。実際に疲れていました。

それにしても、そうなのか、と老いを自覚せざるを得ない出来事でした。

しかし、彼の、善行を積む功徳を奪ってしまったかと後悔しました。

次からは、老いの自覚のもとに力を借りたいと思います。

ああ、あのさわやかな笑顔。いいなあ、若いって。

 

今週の一言。

「若いってすばらしい!」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。