なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ444 死者でできている

2023年11月26日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第444回。令和5年11月26日、日曜日。

ついに初雪が来ました。
風で落ちたイチョウ葉の上にうっすらと白い毛布がかけられたようです。

家に居るとなかなか本が読めません。電車での移動時間が一番の読書タイムだと思います。
小林武彦著『生物はなぜ死ぬのか』を読んでいますがまだ途中です。
その中で、地球上の生物の誕生は奇跡の連続だったという記述があり、その確率をたとえると「25mプールにバラバラに分解した腕時計の部品を沈め、ぐるぐるかき混ぜていたら自然に腕時計が完成し、しかも動き出す確立に等しい」、それぐらい低い確率だったとあります。
それはほとんどあり得ないと思われますが、それでもゼロではない確率の中で生命は誕生したのだそうです。
その後「作っては分解し作り変える」つまり「turn over/新陳代謝」を繰り返した結果が現在の生命だということです。

私も最近「命は死者でできている」ということを考えていたので、しっくりくる話でした。
高齢者という年齢になってくると、共に生きて別れた人の数がどんどん増えていきます。
親や親戚、先生や先輩、同級生や友人、後輩、近所の人、お世話になった人、あるいは飼っていた猫や犬まで、数えればきりがないぐらいの命と出会い別れてきました。
その命との出会いがなければ今の自分は存在していません。
自分という個人の存在など、サラダを乗せる皿程度のもので、乗せるものがなければあまり意味がありません。
ということは、自分を自分たらしめているのは自分ではなく、皿の上のサラダです。
私の身体も、考え方も、人間性、人格も、これまで出会った命によって形成されたきました。
私の命は、死者でできている、と言ってもウソではないでしょう。
もちろん、今生きてつき合っている命もあります。ただ、年齢に随って死者の占める割合が断然多くなったということです。

もっと言えば、私が生まれてから今日までの出会いと別れだけではなく、それ以前の命の流れがあります。
先ほどの本の話のように、奇跡の連続によって誕生してから、生物は数限りない失敗を経て、わずかな成功体験を元に改善、作り変え、turn overを重ねてきた、それが進化というものでしょう。その結果が現在です。
だとするならば、私の命の中にはその失敗経験も成功体験もすべて刻まれている、ということができます。
100回中99回の失敗と、たった1回の成功であれば、その99回の失敗経験が1回の成功の中に含まれているわけで、無駄な経験、無駄な失敗はないことになります。
具体的に考えれば、私が教わった先生の教えの中に、その先生が教わってきたことも含まれるということです。更にその人が教わったことと考えれば、結局は40億年をさかのぼることになります。
先生だけではなく、自分の親もその通りであり、近所のおじさんおばさんも、人生の先達から教わったことを伝えてくれたわけで、そのようにこれまで出会って死んでいったすべての命の経験・体験が自分の中に入っているということでしょう。
生命誕生から40億年にわたってつないできたこの命、今の私はその最終形であり最前線であると言えます。

志賀直哉に『ナイルの水の一滴』という小文があります。

・・・人間が出来て、何万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて云えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は、後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生まれてはこないのだ。しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。

今生きている私たちは、大河の先頭を流れています。
私たちの前に道はありません。何が待っているかも分かりません。
大河の一滴に過ぎない一人ひとりの存在ですが、それはすべて過去からの流れの延長であり、これから先へとつながる流れとなります。
一滴の源流から始まった生命、生物の流れ。
一滴の中に、源流の一滴からのすべての経験の流れが詰まっています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンデーサンライズ443 四島

2023年11月19日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第443回。令和5年11月19日、日曜日。

先週7日から14日まで北海道にいました。
別海町、根室方面の布教巡回でした。
その中で、日本最東端の納沙布岬に連れて行ってもらいました。北方領土に最も近い場所です。
岬の灯台まで行くと、海の中に少し傾いた灯台が見えます。これが貝殻島で、距離は3.7㎞。この間に国境があります。
終戦まで、四島には17,000人以上の日本人が暮らしていました。
終戦と同時にソ連が侵攻し四島を占拠、2年後に全員の日本人が島から退去させられました。
多くの島民は島の見える根室周辺に仮住まいし、やがて帰れると期待して待っていたのです。
島民の一割ほどの人は富山に移住しました。
というのは、多くの富山県民が夏の間の出稼ぎとして昆布漁に来ていて、そのまま島に住んだ人も多かったからです。その人たちは第二の故郷を離れ元の故郷に帰ったことになります。
岬の突端には「望郷の家」「北方館」が建てられ、四島を望むことができます。
訪ねた10日は残念ながら荒天で島影は見えませんでしたが、それ以降の日は何度も根室市内からも別海町からも国後島が見えました。

ここに来るまでは、領土問題はやはり他人事としかとらえられておらず、深刻には感じられませんでした。
この場所に立って、自分たちの島が不法に占拠されているという元島民の切ない思いを肌で感じることができました。
故郷の島が目の前に見えているという近さだけに、歯がゆさを感じてこられたことと思います。
やはり現場に来ないと物事は見えてきませんね。
もっと古くを考えれば、千島列島にはすべてアイヌ語の島名がついていて、それはここがアイヌの人々の生活の場であったという証拠とも言え、その島、もっと言えば北海道全土や東北の各地も、アイヌあるいは蝦夷(えみし)の人々の地だったのを和人に占拠されたと言うこともできます。
ただ、北方領土の国境に関して言えば、日露の条約を旧ソ連側が一方的に破ったという事実があるので、そこははっきりしておかなければならないと思います。
ソ連が崩壊したときを契機に水面下で返還の動きがあったと聞きました。
ただ、日本側の政治問題で実現には至らなかったとのこと。
その後も何度か返還を試みましたが未だに帰っては来ません。
ロシアにとっての軍事的な意味合いが強いようです。

根付湾にきれいな朝日が昇るホテルの朝食で、隣のテーブルに座ったのは家族4人の若い親子でした。
昨日はこの宿で家族水入らずの一夜を過ごしたのでしょう。
子どもたちは、お父さんとお母さんと一緒にお出かけしてどんなに楽しかったことかと想像しました。
自宅ではないどこかに、家族でお泊りするだけで、それだけで楽しいものですよね。
部屋がどうだとか、食事がどうだとかは、子どもたちにはほとんど問題ではないでしょう。
大人はどうしても、何かと比べて批判をしたがりますが、子どもは、家族が一緒にいる、それだけで楽しいのですから、子どもに見習ってその時間を素直に楽しめばいいと思います。
考えてみれば、多くのことがその通りです。
今そこに命があるだけでありがたいことなのに、それを楽しまずに、足りないことを探し、文句を言ってその時を過ごすのは、実にもったいないことです。
子どもの時の心を思い出したいと思います。
隣のテーブルにチラチラと目をやりながら、楽しかった?よかったねえ、と、朝日に照らされた親子の笑顔をまぶしく眺めていました。

自坊に帰れば、1週間分のイチョウ葉がたまり、雪囲いも途中であったことに気づき、事務処理もたまっています。
遠い山には白いベールがまとい、冬タイヤへの交換も済ませました。
雪が来る前にやるべきことをやっておかなければなりません。
今頭を悩ませているのは、鯉の越冬をどうするかです。
これまでは鯉屋さんに避難して冬の間預かってもらっていました。
その鯉屋の旦那さんが亡くなり、預けることができなくなりました。
屋根からの雪で山のようになる裏庭の池で、鯉をどのように越冬させるか、それが問題です。
イタチが来てやられるという情報もあります。その対策もしなければなりません。
今年が初めての経験なので、今色々相談しながら、ああでもないこうでもないと思案しています。
鯉と共に無事に春を迎えられるか。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンデーサンライズ442 少水の魚

2023年11月12日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第442回。令和5年11月12日、日曜日。

令和5年、2023年のカレンダーも残り少なくなってきました。
その分残りの命も少なくなったことになります。

ひとびとの命は昼夜に過ぎ去り、ますます減って行く。水の少ない所にいる魚のように。かれらにとって何の楽しみがあろうか。(『ウダーナヴァルガ』無常)

朝起きて池を見ると水がガクッと減っていて、浅い水の中で鯉が窮屈そうに泳いでいます。
浄水ポンプの調子が悪く循環の途中で水が漏れるらしく、毎日地下水をずいぶん足さなければなりません。
鯉にとってはこの水の中が世界、この水の中でしか生きられないので、居住世界が狭くなることは生きづらいことに違いありません。
彼らに何の楽しみかある。
お釈迦様は実に譬えが上手です。

人生の残りが毎日毎日少なくなっていくのに、他人事のように漫然と過ごしている私たち。
少水の魚の如く、そこに何の楽しみかあらん。
この言葉は、曹洞宗の修行道場で、三と八のつく日修行僧が僧堂に集まって勤める「三八念誦」の八の日に読まれます。

是の日已に過ぎぬれば、命も亦随って減ず、少水の魚の如し、斯に何の楽しみか有らん。衆等当に勤めて精進して頭燃を救うが如くすべし。但だ、無常を念じて、慎んで放逸なること勿れ。


修行僧たちも、日々修行に励みながら月に3回、世の無常であることを確認するのです。
慎んで放逸なること勿れ。「でたらめするな」ということですね。
何事にも丁寧に、日々の生活を丁寧に。それが曹洞宗の教えだと言ってもいいです。
父親が、「塔婆の字を丁寧に書け」「お経は丁寧に読め」と言っていたことを思い出します。

最期に「ああ楽しかった」と言って死ねるためには、このいただいた命を精一杯使い切ったという満足感が必要でしょう。
精一杯といっても寿命が決まっているわけではありませんから、何歳とかではなく、その日がいつであってもいいように、その時その時に精一杯でなければならないということです。それが丁寧に生きるということです。
人に悪口を言わず、人の幸せを願い、自分の命に恥じない務めを果たし、しっかりと前を向いて生きる、それができていると自覚できれば、それは精一杯と言えるでしょう。
毎日毎日水は減り続けているのに、そのことに気がつかずに、刹那的な楽しみにうつつを抜かしていると、終いに「死にたくない」などと口をパクパクして苦しみを感じてしまうことになりかねません。

最近のこのブログの記事が、寂しいことばかり書いている、何かあるのではないか、と心配してくれるむきもあるようです。
ご心配いただいてありがたいことですが、特には何もありません。
病気が見つかったとか、死期の予感がしているとか、一切ありません。
歳相応に年齢を重ねた衰えが見えてきただけです。
そして、本当に少水を実感しているのです。
魚と違って、我々に水を足してくれるものはありません。
確実に一日一日残りは減っているのです。
そう考えると、今まで楽しいと感じていたこともつまらなく見えたりします。
少水に合わせて、為さざるべきこと為すべきことを選択していかなければならないと思うのです。
残りの時間でもう少し自分を磨いていきたいと思います。

無常を観ずることは、今生きていることの有難さを感じさせてくれます。
それは寂しさではなく、より良き生への転換点になります。
仏教が根本苦とする「四苦」は「生老病死」という順序で読まれますが、分かりやすくするためには「死病老生」の順序の方がいいように思います。
自分の命が消滅する恐怖、愛する人と別れなければならない悲しみ。「死」は生あるものの第一の苦です。
「病」は、痛い苦しいということもありますが、死に至る恐怖という苦でもあるでしょう。
「老」も同じように、目の前に迫ってくる死を感じる苦しさと言えます。
生まれたものは死ななければならない。死の苦しみを抱えて生まれてくるのが「生」の宿命です。
その苦しみからの解放のために説かれたのが仏教なのです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンデーサンライズ441 言葉は心から出る

2023年11月05日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第441回。令和5年11月5日、日曜日。

11月に入りました。
雪囲いも始まっています。
このところ、秋なのに三寒四温の日が続いています。
柿やらなめこやら秋の味覚も味わうことができました。
このまま秋が続けばいいなあ。

先週触れた布教師養成所の法話実演でいい言葉を聴きました。

「言葉は口から出るのではなく、心から出るのです」

なるほど、その通りですね。
口は単に音を出す器官。
「あー」とか「うー」とか、音は出ても言葉とは言えません。
言葉を作るのは心です。
「心にもないことを」口にすることはありません。
心にある思いが口をついて出てきただけです。
「口が滑った」などと、口のせいにしてはダメでしょう。
口から出た言葉は全て心から発せられたのです。
言ったのは口だと思うと軽く考えてしまうかもしれません。
言葉は心、人格から出るのだと思えば、重い意味になります。
政治家がよく「誤解をまねくような発言」と言いますが、それは「誤解をまねくような心」から発せられたものです。
ほとんどの場合それは誤解ではなく、正直な心が口から洩れたのでしょう。
心から出たものを「言い訳け」はできないのです。
ネットでの「発言」も言葉だと考えれば、それも心から出たものです。
嘘や誹謗中傷、あえて相手を傷つけるような発言をするのは、その人の心に潜んでいる暴力性です。
人の不幸を望む悪魔の心です。
そのことに自ら気づいていかなければなりません。

朝の散歩のときはらじるらじるでNHKの聞き逃しサービスを聴いています。
最近は「ラジオ深夜便」なども聴いています。
ライブで聴くのは無理ですが、こういうことができるのでありがたいです。
先日「謎解きうたことば」というコーナーでゲスト谷川俊太郎さんの話を聴きました。
これまでたくさんの詩を発表し、92歳になる現在も活動を続ける現役の詩人ですが、歌詞もたくさん書いています。
『鉄腕アトム』のテーマ曲や『死んだ男の残したものは』が谷川さんの作詞だったことを今回知りました。
以来、「死んだ男の残したものは」の曲が頭から離れません。ヘビーローテーションです。
私が好きな谷川さんの詩は、『便り』と題された一篇

  便り
おたまじゃくしに
足も生えそろい
ましたにつき
常のごぶさたお詫び
申します
 この春当地にては
 葬式ふたつ
 結婚式みっつ
 とどこおりなく
 相すませ
からたちの花ほころび
かげ口などいつに変わらず
忙しく暮らしており候
です
 先生にはかつら
 ご新調のよし
 おめもじ
 待ち遠しい
 ことなり
      頓首


そんな谷川さんが次のような話をされました。

「詩なんて気分なんです。言葉は常に動いているですよ。
文字になって印刷されちゃうと固定しちゃうけど、実際に体の中を通ってきた言葉というのは固定されたものじゃない。
その日によってその時の気分によって気づかずに揺れ動いているんです。
揺れ動いているということを承知して言葉は使った方がいいですね。」


なるほどと納得して何度も聴き直しました。
言葉も「無常」なのですね。水のように流れて行くもの。不確かなもの。つかめないもの。
一期一会、その場その時の心のやりとりが言葉というものなのでしょう。
一つの言葉にこだわってとらわれてしまうのではなく、意味を固定しないで受け止めた方がいいですね。
流れ去るもの、つかまえられないものとして。
過去の言葉にこだわって、怒ったり心を乱されたり、疑問を感じたり真実を求めたり。
しかし、言葉が揺れ動いて不確かなものであるならば、その時の心のやりとりで終わって捨ててしまえばいいことなのです。
「取り返しのつかない一言」などもないですね。心はころころと動いているのですから、次の機会には別の言葉が発せられるでしょう。取り返しのつかない心であれば仕方ないですが。
なので、本来言葉は、同じ場で、顔の表情が分かる距離で、面と向かって交わされるものなのだと思います。
遠く離れてとか、電話だとか、声だけ、文字だけでの会話は想定されていないのかもしれません。
言葉は、相手に喜んでもらうような気持ちで伝えればいいのでしょうね。心のプレゼントのように。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。