なあむ

やどかり和尚の考えたこと

迷惑でしょうね

2013年11月17日 20時19分13秒 | ふと、考えた

予告通り、私の生涯で最も忙しい一年だと思われる日々を過ごしてきました。

10月3~7日の、晋山式、授戒会を終えて、10月11~20日東京経由で北海道特派布教。

寺の用事を勤めつつ、11月1~12日三重特派から東京という日程でした。

帰って来たとたん、どこでもらってきたのか珍しく風邪をひき、熱を出してちょっと寝たり、北海道からずーっと調子の悪い歯茎の治療に行ったり、風邪引きのまま秋田に講演に行ったり、それらを過ごして、ようやく何もない時期となりました。

4月の息子の結婚式から始まって、途中アクシデントが起こるのではないかと心配しましたが、何とかここまでやってこられました。

もう何でしょう、大きな荷物を下ろして大役を果たし終えたような安堵感を感じます。

もうボケてもいいですか。みなさん、それぞれがんばってください。

ずーっとブログを書けないでいた言い訳をしています。

その代わりといっても、一日に3本もアップしたらそれはそれで迷惑だろうと思いつつ、書いてみました。

まとめないで、時々間を空かさずに書いてくれ、はい、承知しました。努力します。


大相撲日本場所

2013年11月17日 19時51分57秒 | ふと、考えた

大相撲、今場所幕の内には8名のモンゴル出身力士が占めています。

もはや、モンゴル相撲日本場所のような体。

その他にも外国人力士が6名。

モンゴル人は日本人とよく似ているので、顔だけでは判別できません。

そのために、何となく大相撲の雰囲気を維持しているような気がします。

あれで、モンゴルの人の顔がアングロサクソンの顔立ちだったらどうでしょう。

42名の幕の内力士の14名が洋風の顔つきであれば、土俵の雰囲気もずいぶん変わってくるでしょう。

もう一つ、四股名もあります。

力士は大概、本名ではなく四股名で相撲を取ります。現在「遠藤」がいますが。

四股名はもちろん日本の名前です。

大相撲を見ていない人が、「大砂嵐(おおすなあらし)金太郎」や「魁聖(かいせい)一郎」の四股名だけで、その出身がエジプトとブラジルだと分かる人はまずいないでしょう。

もっとも、「琴欧州(ことおうしゅう)勝紀」や「阿覧(あらん)欧虎」のように、なんとなく出身地が推測される四股名もあります。

愛国心とまでもいかなくとも、なかなか勝てない日本人力士に歯がゆい思いをし、贔屓目に見てしまうのは仕方のないことでしょう。

しかし、今後もモンゴルの力士の活躍は止まらないと思います。

幼児の頃から馬に跨がり、闘争心を育てられてきた身体と心の鍛え方が違うでしょうし、忍耐力も違うような気がします。

しかも、白鳳などは、もしかして日本人より日本人らしいのではないかと感じるほどです。

もう諦めて、モンゴル人は日本人みたいなものだと大きな気持ちで受けとめるか、蒙古斑あるし、どうしても日本人が上でなければ気が済まないなら、外国人の入門をお断りするしかありません。

何とも悩ましい選択ですが。


戻れない

2013年11月17日 17時10分05秒 | ふと、考えた

人間はどこまで行くのでしょうか。

自然からどんどん離れて、やがて戻れなくなってしまうのでしょう。

卑近な例ですが、

ウオッシュレットを使ってしまうと元には戻れない。使うまではそれが当たり前ですから特に不便ではなかったはずなのに、一度慣れてしまうと、それがないと具合が悪く感じてしまう。

今更、冬場に暖房便座でないところに腰掛けるのは苦痛を感じる。以前はカバーをしたりして済んでいたのに。

そもそも、洋式便座以外では厳しいと感じる。腰を割る動作は、もう既に慣れない姿勢になってしまっている。毎日四股のような鍛錬をしていたのだな。

だいたいにして、水洗でないところには恐怖を感じてしまう。モノを落としたらどうしよう、奈落の底みたいに二度と戻ってこない状況を想像してしまう。

人間は、便利や快適を手に入れてしまうと、もう元には戻れないと思ってしまいます。私自身そう思います。

便利で快適には当然経費がかかります。毎日の使用の度に電気や水を使わざるを得ません。

江戸時代、人糞は売ることさえできたのに、今や流す度にお金がかかります。

トイレ一つとっても斯くの如し。

生活全てが斯様であるために、生活にかかる経費は50年前に比べたら何倍になっていることでしょうか。

その経費を稼ぐために、余裕なく働き、疲れ、ストレスをため、家族の関係がうまくいかなくなることもあるでしょう。だとしたら、便利・快適はむしろ不幸の種ともなり得るのではないか。

それなのに、戻れない、というところが難しい問題なのです。

今後も益々便利な道具が開発されるでしょう。今当たり前と思っていることも、その道具を手にしてしまえば前には戻れなくなってしまうはずです。

道具が問題なのではなく、「戻れない」ことが問題なのです。

人間にはどこまで行けば充分ということはなさそうです。

恐ろしいですね。

それは「成長」などというきれいな上昇ではなく、底なし沼にズブズブと沈んでいくことなのではないかと、トイレに座って思ってしまったこの頃です。