なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ402 荒野にエピタフ

2023年01月29日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第402回。令和5年1月29日、日曜日。

冷えましたね。
先週は各地で今期一番の冷え込みだったことでしょう。
25日の朝は本堂内で-8度を観測、さすがに「しばれる」という表現がぴったりの寒さを感じました。
26日朝は大雪で、50㎝ほどか。強風で吹き溜まりのところは腰ぐらいまでありましたね。
「不要不急の外出を控えましょう」と呼びかけられても、宅配業者などどうしても動かなければならない人たちもいて、配達員はとても大変そうでした。
せめて邪魔をしないようにしようと外出自粛しているところです。

今年の地酒が完成し、予約をいただいたところへの発送と販売が始まっています。
酒の入荷と販売日が同日になってしまったため、町内3店の酒店ではてんてこまいという様相でした。
21日の新酒を楽しむ会の様子が2社のテレビ報道に流れ、地元の新聞に取り上げられたこともあり、売り上げは順調に伸びていくと思われます。
去年はほとんどできなかった旅館や飲食店でも扱ってもらい、新たな地産品になることを願っています。
去年は5日間で完売したので、今年は何とか秋ごろまで在庫をもたせたいと考えていますが、果たしてどうでしょうか。

自分の寿命を60歳と想定して、本当にそれを信じていた時期があります。
何の根拠もなかったのですが、20代に強がりで「そこまで生きれば」と思い込み、それに自分自身がとらわれていたという感じです。
その日、60歳の誕生日、が次第に近づくと、何の根拠もないのにだんだん焦りを感じ、そうであってもいいように今を生きようと、想定した意味を有意義に受け止めていました。
しかし、何ということもなくその日を迎え、何ということもなく過ぎていきました。
周りに言いふらしていたことがバカみたいで恥ずかしい思いをしました。
次の想定をいつにしようか、どうしようかと考えたりしましたが、バカバカしいのでやめました。
その日がいつ来てもいいように今日を生きる、それしかないのですから、想定すること自体意味のないことに気づきました。

坐禅のとき、決めた時間になったらやめようと思って坐っていると、ついつい何度も時計に目が行ったりします。
落ち着いて坐禅に身を任せきれず、時間の量り売りのような坐禅になってしまいます。
そこで、目覚まし時計にアラームをセットして坐ると、終了の時間を教えてくれるので、それまでは時間に心とらわれず坐ることができます。
それと同じことで、その日は必ずやって来るので、いつ来るかなど気にせずに、アラームが鳴ったら逝けばいいのです。それまでは、時間にとらわれず心置きなく生きればいいということです。
生きることを時間の量り売りのようにしない。時間で生きることを意味づけない。
何歳であろうが、その時まで生きるだけのことです。
時間の長短は意味をなしません。

目標の途中だった、最後までやり遂げたかった、子供の顔を見せたかった、せめて結婚させたかった。
などなど、逝く者の想いや、その無念さを慮る周囲の思いがあります。
しかし、いわば、人生はすべからく途中であり、すべからく完結です。
何歳までとか、これだけやればという、区切りはありません。
途中であることが完結の姿です。歩き続ける姿のままで逝くのです。一歩一歩がゴールなのです。
何も怖いことはありません。
もし怖いとすれば、歩き続けているという実感がないからかもしれません。
あるいは後ろを振り返っているからかもしれません。
前を向いて歩き続けていきましょう。
私たちの前にレールはないのです。
一歩一歩が荒野に印した歩みの結果、エピタフ、墓碑銘です。
私の後ろに私は居ず、私の前に私は居ません。
私は、今、ここにしかいないのです。
私が私にならず誰に私を預けるのですか、私以外私を生きる人はいません。
誰かと比べることは意味がありません。自分を認めていく以外ないのです。
誰かと比べる必要はありませんが、誰かと力を合わせることはできます。
それが喜びとなります。
誰かと共に生きることができた実感が人間の生きる喜びです。
人間にそれ以外の喜びはありません。あったとしてもそれは取るに足らない喜びというべきでしょう。
悟りの喜びがあるとすれば、宇宙いっぱいの存在と共に生きていることを実感できた喜びなのでしょう。
ジグソーパズルの完成形が見えた瞬間。自分は宇宙の一部であり宇宙の全体だと感じられた時。
それがお釈迦様のお悟りと受け止めています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンデーサンライズ401 ラジオをリニューアル

2023年01月22日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第401回。令和5年1月22日、日曜日。

先週400回目を迎えたサンデーサンサンラジオ、それを一区切りとしてタイトルを変えることにしました。
今週からは「三ちゃんのサンデーサンライズ」としてお送りいたします。
「サンサンラジオ」をスタートしたときには、なるべくラジオっぽく作っていました。
はじめにジングルがあり、それに乗せてタイトルコールがありました。
お決まりの出だしの挨拶から始まり、ニュースなどからの感想、今週の話題、そして音楽を入れました。
楽曲は全て中島みゆきから。話題に合わせて選曲をしていました。
さらには、地元の商店やら旅館などを勝手にコマーシャルとして取り上げていました。
「KYBをキーステーションに全国ネットでお送りします」などと、ラジオの態を意識していたのです。
なので、「このラジオはどこで聴けるのですか」とまじめに尋ねられました。
因みに「KYB」とは「空気読めない坊さん」の略でした。
しかし、間もなくコマーシャルを入れることが大変になり削除。
更に中島みゆきの楽曲も、ブログのサイト管理者から著作権侵害の恐れがあるとして削除を求められ、やむなくすべての記事から歌詞を削除しました。
ということで、ラジオという設えからどんどん離れていきました。
それはそれとしてタイトルはそのままで続けてきましたが、400回という節目でもあり、この際改名しようかと思い立ったところです。
日曜日の朝の夜明け、日の出の如く希望と期待が膨らむように、明るい出会いがありますようにという意味で「サンデーサンライズ」と銘打ちました。
構成はそのままで、回数も引き継ぎ401回からとします。
今後もお楽しみいただければ幸いです。

一昨日は当地の冬の風物詩になっている若いお坊さんたちの寒行托鉢でした。
大寒の日でしたが、天気は雪ではなく何と雨。
衣を着て笠をかぶり、お経を読みながら寺の地区内を歩きました。
事前に告知していたこともあり、子どもたちを含め多くの人が出て来て下さり浄財を喜捨されました。
網代笠から滴り落ちる冷たい雨に濡れながら、手渡される浄財を鉢で受け取り、一人ひとりに深々と頭を下げる。
托鉢は「下座行(げざぎょう)」と言われ、相手の足元を拝み、自らを低くする行です。
直接何か語るわけではありませんが、その姿にきっと心に伝わるものがあったと思います。
また、寒風の中で大きな声でお経を読むことによって、お経の読み声を練る、鍛錬するという意味合いがあります。
 財法二施 功徳無量 檀波羅蜜(ざいほうにせ くどくむりょう だんばらみつ)
 具足円満 乃至法界 平等利益(ぐそくえんまん ないしほっかい びょうどうりやく)
浄財を喜捨する側も、それを受ける側も、共に無量の功徳をいただくのが托鉢の行です。

さて昨日は、最上の地酒「山と水と、」の2年目の新酒が完成したことを祝い試飲する「新酒を楽しむ会」を催しました。
松林寺の茶の間に会員を中心に17名が集まり、今年の酒の出来を楽しみました。
昨年大変好評をいただいた「生酒」は今年も大変美味しくできました。
また、今年は先行予約販売限定で「生原酒」も造り、その味を確かめました。
こちらも予想通り、搾りたてのフレッシュな味わいで、みんな「旨い!」と喜んでいました。
酒を造ってもらっている和田酒造さんの話では、「ウチの蔵でこの味が出たことはない、やはり米と水が違うのだろう」とのことで、最上の地酒という自信をつけたところです。
特に水がおいしいと言われたのでみんなでその水を飲んでみることにしました。
この水は、奥羽山脈の伏流水、富沢地区三和食品さんの地下水を汲み上げているものですが、会員の誰も直接水を飲んだことはありません。
軟水で、この水で酒が造られていると思うせいか、特別に旨いような気がしました。
肴は、地元のオードブルと、気仙沼からの海鮮、タラの芽の天ぷら、そして打ち立ての蕎麦。
ということで、旨い酒と旨い肴、喜びを分かち合う仲間との酒宴ですから、楽しくないはずがありません。みんないい顔をして、必要以上に盛り上がったことは言をまちません。
会員の特権でお先に味わいましたが、一般の販売は最上町の酒販店3店で24日以降の販売となります。

未だ心地よい余韻(酔いん?)が続いています。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ400 え?400回?!

2023年01月15日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第400回。令和5年1月15日、日曜日。

何と!サンサンラジオが400回目を迎えました!
毎週日曜日の朝5時にUPして、7年8か月が経ったことになります。
我ながらよく続いていると思います。
訪問者数は毎週増減がありますが、ほぼ一定の数で推移しています。
毎回読んでくれている方もいて、「毎週楽しみにしているよ」などと言っていただくとうれしく思います。
意外な場所で、意外な方からそのように言われることもあり、どなたが読んでくれているかがこちらには分からないので、喜んだり緊張したりです。
ブログはfacebookやtwitter、instagramなどのように短文で一瞬で読める分量ではないので、読みたい人しか訪れないという特徴があります。
ながめるだけ、流し読み、が好みの人には向きません。
自然に分類され、どちらかというと固定客のような方向けになって来ています。
それでも、今週は何人が読んでくれたかと気にはなり、増えればうれしいし減ればガッカリします。
読んでみようと思うような工夫は当然必要で、その一番はタイトルだと思っています。
なので、タイトルには少し力を入れます。
名は体を表すで、本文の内容を端的に表すのがタイトルですが、内容とはピッタリではなくとも内容が気になるようなタイトルを心がけています。
たとえば先週の「死のデザイン」とか、少し前の「さめざめと泣く」や「生きながら死んでいる」などは、なんだろうとついつい読んでしまうということがあるのではないかと狙っているとことがあります。
また、理解が難しい話ばかりが続いてしまうと離れてしまうという心配もあるので、時折くすぐるようなユーモアも必要だと気にかけています。
そんな時に頼りになるのがカミさんの発言です。
彼女のど直球の発言は、胸にグサッと刺さりながらも笑えてしまいます。
前にも話しましたが、このブログで週ごとの読まれた記事の集計が見られるのですが、ほとんど毎週10番目以内にランクインするページが「バカ肉」というタイトルの記事なのです。
13年も前に書いたものですが、誰が、どうして、好んでこのページを読むのか不思議で、その理由を知りたいと思っているところです。
それは以下のようなものです。

先日足の爪が剥がれた時、中の肉がまだ完全にできあがっておらず、生のまま盛り上がっていた状態でした。
消毒しておけばそのうち乾くのだろうと思って、家にある消毒薬を塗って包帯を巻いて対処していました。
ところが1週間経っても改善せず、包帯を剥がすたびに血が吹き出るので、このままではだめかと思い、昨日ようやく医者に行ってきました。
医者は診るなり「バカ肉だね」と。
家の包帯は肉にくっついてしまうので、剥がすたびに皮が剥がれてまた肉が出てくる、それを「バカ肉」というようで、素人治療の浅はかさを知りました。
「餅は餅屋だからね」と先生。
しかし、肉にバカなものとそうでないものがあるとは知りませんでした。
その話を家内にすると、「あなたの肉でバカでない肉はあるの?」という厳しいお言葉。金太郎飴の如く、どこを切ってもバカ肉のような言われようでした。
少しぐらいはいい肉もあるんじゃないのと思いましたが、成人病のデパートのような内臓と、脂ぎった肉では、反論もできないとあきらめました。


おもしろいと言えばおもしろい記事ですが、かといって何度も繰り返し読みたいというほどでもないように思います。
なぜ読まれるのか、いつも不思議に思っています。
彼女の直球は日常茶飯事なので、これからも楽しませてくれると思います。
先日も「あなたが死んでも保険金なんかわずかしかないんだから、今のうちに働け」と尻を叩かれました。
働く気はあるのですが御用聞きに回るわけにもいかず…。
まあこれからも、彼女の言葉に刺激されながら続けていきたいと思います。
皆様の訪問が励ましになっています。
コメントや何らかの反応をいただけたらさらにうれしく思います。
めざせ500回!

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ399 死をデザイン

2023年01月08日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第399回。令和5年1月8日、日曜日。

喪中ということで静かな正月を過ごしました。
松林寺、宿用院の新年会もなく、松飾りもなく、供え餅もなく、年賀状もない正月でした。
もちろん、三が日の三朝祈祷、元日の合同祈祷は滞りなく勤めました。
年末に集まった子どもたち家族も、30日にはそれぞれの実家や家に雲散して、初めてのカミさんと二人だけの正月でした。
そのお陰で、三日間じっくり駅伝を観て過ごすことができました。
一日の実業団、二日三日の箱根。
わが母校駒大の活躍もあり、目が離せませんでした。
四日には、地元百軒のお札配り、五日には他地区役員さんへお札配布の依頼、六日は寒念仏を勤め、昨日は七草がゆを食べて一区切りというところでしょうか。

昨年は戦争が始まったり、そのために物価が高騰したり、コロナが長引いたり、各地で災害が発生したりで、なかなか厳しい年となりました。
その影響を受けて苦しい状況が続いている家庭もあるでしょう。何とか耐えて乗り越えて欲しいと願います。
エネルギー供給が制限されて寒さの中で冬を過ごしているウクライナの人々に、使い捨てカイロを送ろうと立ち上がった人がいます。
原発事故で福島から山形へ避難して11年間米沢で過ごしてきた方のようです。
「山形で多くの人に助けられた。今は困っているウクライナを助けたい。支援すべきは武器ではなくカイロだ」と支援を呼びかけています。
自分が苦しい体験をした人は、他の人の苦しみに共感する感受性が敏感になった。
人の暖かさを知った人は、その温もりを他の人にも分けたいと思う自らの慈悲心に気がついた。そういうことなのだろうと思います。

私自身のことを振り返れば、正月早々転んで頭を打ち、一時記憶が飛んだということから始まった一年でした。
4月末にも後ろ向きに倒れ、首と背中の筋肉が硬直してしばらく痛みに耐える日常を余儀なくされました。
二度あることはと三度目を心配しましたが、さすがにそれはなく無事でしたが、8月末には突然に喉が痛み出し、こちらもしばらく苦しむことになりました。
年齢による衰えがじわりじわりと忍び寄ってきていることを自覚させられました。
8月と9月、半月ほどの間に孫が二人誕生しました。
そして、10月、母親が突然他界しました。
命は足し引き出来るものではありませんが、+1の年でした。
正月前に、3組の子ども夫婦5人の孫、と家族が集合したとき、「歳徳大善神」をお迎えする年越し恒例のお参りをして、仏壇にもみんなで手を合わせました。
母の位牌と写真に対峙して、この家族の全員集合を一番喜んでくれているのは母親だなと肌で感じました。写真が微笑んでいるように見えました。
コロナで新しいひ孫二人と対面することは叶いませんでしたが、生まれてくれたこと自体が何よりのひいばあさん孝行であり、喜こばせてくれたことだったと思います。
そんな中、年末に私がコロナに感染しました。流行り物をもらった感じです。
その後遺症でもあるのか、単に加齢のせいか、疲れやすくなり、風邪をひきやすくなった気がします。
飲酒の量もガクンと落ちました。
だいたいにして、飲みたいという気持ちが極端に弱くなりました。
年が改まり、「新酒を楽しむ会」を企画していますが、さほど飲めないと思います。

「枯れ」の季節に入ったことを自覚しています。
これまでに充分楽しく生きてきたので、いつ散っても悔いはありません。
もしもの時のことは既に書き遺しています。
葬儀のやり様や予算案、香典の配分方法、本人の言葉で会葬の謝礼文も書いています。
それが今年中かどうかは分かりません。
ただ、準備を整えておけば、思いを遺す事はありません。
なるべく痛くなく、苦しまないで逝きたいだけです。
それが明日であってもいいように今日を生きるだけです。
死因はおそらく脳内出血か心筋梗塞かでしょう。痛いのでしょうね。
ガンならば準備ができて伝えたい思いを言い遺す事もできるのでありがたいと思います。
禅僧の慣わしとして、書初めに「遺偈」を書くとされていますが、遺偈は遺さないことにしました。
元々漢詩が得意ではないし、ありのままに格好をつけずに逝けばいいと思ってのことです。
代わりに「勧酒」の詩を掲げるように書き遺してあります。
自分の死に様を考えデザインするのは楽しいことでもあります。
何せ、最期のイベントですから。自らプロデュースしたいと思っています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ398 カオスへ向かう世界 

2023年01月01日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第398回。令和5年1月1日、日曜日。

新年を迎えました。
皆様によき出会いがありますことをお祈りいたします。
当家は喪中のため、年賀の挨拶をご遠慮させていただいています。
(この記事は毎週日曜日の朝5時に予約投稿の設定をしています。元旦のこの時間は4時から元朝祈祷を行っている最中で、今本堂にいます。)

先々週は動物と植物の話をしましたが、人間には動物的人間と植物的人間がいるのではないかと考えるところです。
概して言えば、遊牧民族は動物的、農耕民族は植物的と言えるように思います。
移動を基盤とする生き方は動物的、定住を基盤とする生き方は植物的と言えるのではないかと思いますがどうでしょうか。
はるか長い年月に及ぶ生活習性が根っこのような基盤となり、習慣や文化、宗教に至るまでその彼我の違いとして現れていると思われます。
遊牧民族、狩猟民族というのは、獲物や土地を求めて移動しあるいは縄張りを築き、他の群れとの競争や奪い合いの中で生き抜いてきた歴史があります。
なので、他の土地に移動したとしても変わらぬ普遍的な精神的拠り所として、自分たちの創造主である「神」を求めました。
一族は「神のもとで平等」という社会意識が出来上がることとなります。
ただ、「自分たちの神」は他の群れの神とは相いれないこととなり、神の優劣が民族の優劣という意識を生み、民族の争いの定義、旗頭ともなりました。

一方農耕民族は、一つの土地にしがみつき、共同作業を余儀なくされる暮らしの中で、群れの協調を意識するようになったものと思われます。
『鎌倉殿』でもそうでしたが、鎌倉時代の武士たちが何より大事にしていたものは、自らの土地であり、そこに暮らす一族を護ることでした。
そこから、自分の土地に命を懸ける「一所懸命」という概念が生まれました。
天候に直接左右される農耕は、自然をあがめ、人智の及ばない天や山や海、岩や木や水に「神」が宿るとして畏れ、感謝する精神を醸成してきたでしょう。
現代世界では、純粋な遊牧の民もほぼいないものと思われ、また、農耕民族といっても先祖代々の土地を捨てて棄農する人々が珍しくなく、それとこれで大別されるようなこともない状況かと思われます。
血に染みついた生活環境からの文化という分類も、やがて混血していくのではないでしょうか。
それでも宗教は、根ざした生活の基盤が変化しても、その独自性を保ち、意義や解釈を変えながら宗教そのものの存続を目指していくようにも思えます。
動物的宗教も植物的宗教も、性の多様性の如く存在を認め合う寛容の姿勢が求められているように思われます。

また、概して言えば、男は動物的、女は植物的な性質ではないかと感じています。
その行動的特徴として、どちらかといえば、家に居て家族を守ることを得意とする女性は植物に近いと感じ、外に出て生活の糧を得てくることが得意な男性は動物的と感じます。
もちろん、だからといって男らしさや女らしさを主張しようとしているのではありません。
先々週も話したように、動物と植物は果たして別の種類の生物かという疑問に端を発した延長線上の問題提起です。
なので、動かないように見える植物が動物を動かしているという見方をここでも当てはめようとしているのです。
これも鎌倉殿を観ていて感じたことですが、外に出て戦っている武士を戦わせようと仕向けているのはその女房ではないかという見方です。
ドラマはそれを印象的に見せている意図があると思いますが、それだけでなく、性が分化した意図は、まさに、女が自分の分身として男を生んだのであり、それは植物が動物を生んだという構図と重なるのではないかという考え方です。

こんなことを考えてしまうのは、グローバル化と自国ファーストのせめぎ合い、保守的な性の捉え方と多様性を認めようという考え方のせめぎ合いが起こっている現代は、今後、性の分化の意義や、民族・宗教が混沌としてきてカオスとなり、それらの意味の組み換えを強いられる世界の始まりかもしれないと、心のどこかで思っているからかもしれません。
まあ、どうでもいいことであり、正月元旦からそんな面倒くさいことを主張しなくてもよさそうなものです。
まずは皆様の諸縁吉祥を祈ります。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。