なあむ

やどかり和尚の考えたこと

有馬実成師ご遷化から 20 年、シャンティ設立 40 周年への思い

2020年12月08日 12時48分48秒 | シャンティ国際ボランティア会
 2000年9月18日、有馬実成師は遷化した。享年65歳だった。
 その日私は山口赤十字病院を訪ねた。もう長くはないと分かっていた。最後にその煖皮肉に触れたいと思った。緩和ケアの病室は和風の設えで自宅の部屋にいるような雰囲気を醸し出す工夫が施されていた。ご家族が見守る中、ベッドに横たわり大きな呼吸をされていた。
ご子息が「三部さんが来てくれたよ」と耳元で呼びかけると口元をゆがめ微笑んだように見えた。「すごいよ親父!笑ったよ」と叫んでいた。
 その後まもなく主治医から「ご家族だけにしてあげてください」と告げられ、角直彦師の寺で休ませてもらっていた。2時間ぐらい経ったろうか、息を引き取られたという連絡が入り、病室に戻った。ご家族はご遺体を囲んで荷物の整理をされていた。高校野球の敗戦チームがベンチの整理をしているような敗北感を感じた。「有馬さん、負けちゃったね」。
 師は、智慧と慈悲を兼ね備えた人だった。
 師の知識は余人の及ばない膨大な量で、仏教はもちろん、歴史、文学、民俗学、音楽、美術、陶芸、どの分野においても深い造詣を有していた。
 「知識と智慧は違う」とはよく言われることだが、師の場合、知識を栄養として智慧を増長させていたのではないかと思う。
 慈悲を車のエンジンに例えるならば、ハンドルやアクセル・ブレーキを駆使して目的地に向かっていく技術が智慧と言ってもいいだろう。エンジンがなければ前には進まないが、運転技術がなければ暴走してしまう。その両方を備えていたのが有馬師だったと思う。
 師の思想の発火点となったのは、父親が出征して帰らなかったこと、そして戦後目の当たりにした朝鮮民族への差別事例の体験だったかもしれない。人の悲しみを源として、その慈悲心の発露が生涯を通じて行動の原点となったのではないかと思われる。
 師はよく「慈悲の社会化」と口にされていた。私ははじめ、それは論理的におかしいのではないかと思った。慈悲は一人一人の心の問題であって、社会に結びつけるものではないと思ったからだ。しかし、それは私の浅慮だったと気づくようになった。
 世界各地で止まない戦争や紛争、人権差別、自殺、障がい者、老人問題などなど、諸問題に向かいその解決方法を考える時、その答えは仏教の中にあるのではないか、それは、一人一人の慈悲心を開発し広げていく、あるいは結んでいくことで成し遂げられる、平和な社会の実現ではないか、それを「慈悲の社会化」と呼んだのに違いないと思えるようになった。
 こんなことも言っておられた。「国際化というのは都会のインテリが議論していただけではダメだ。地方の親父たちが野良仕事の帰りに土手に腰掛けて煙草など吹かしながら『ところで難民問題どう思う』などと言うような状況になって初めて国際化を果たしたと言える。それができるのは我々僧侶だ」と。師がシャンティボランティア会に目指した目標はそういうことだったように思う。
 「ボランティアなんて海底でうごめくヒラメみたいなものだよ」とも言っておられた。当に衆生と共に、社会の底辺からこの国を、世界を変えていく、そんなダイナミックな挑戦をしてみたかったのではないか、と思う。
 以来40年、師の遷化から20年、その遺志を継ごうとした者たちが、果たしてどれだけその理想に近づけたかと自問するに忸怩たるものがある。
しかし、遅々たる歩みではあるが、経行のごとく半歩ずつ前に進んでいることは感じている。師のように智慧と慈悲を兼備する人は稀かもしれない、であるならば、それぞれが持ち寄り足りないところを補い合いながら「慈悲の社会化」に向けてこれからも蝸牛の歩みを進めて行かなければならない。(曹洞宗報 令和2年12月号)
公益社団法人シャンティ国際ボランティア会
副会長 三部義道


自衛隊とNGO

2015年08月02日 13時39分21秒 | シャンティ国際ボランティア会
私が副会長を務めるシャンティ国際ボランティア会は、NGO(非政府国際協力団体)が発信する「非戦ネット」に賛同しています。
非戦ネットは、安全保障法案に反対する理由の一つとして「国際協力活動への悪影響」をあげています。

「自衛隊による武力行使は平和主義国家としての日本のイメージを一変させ、紛争に対する中立国としての「日本ブランド」はもはや通用しなくなります。こうしたなか、NGOの活動環境は著しく危険なものに変わることは明らかであり、NGO職員や現地協力者が紛争当事者から攻撃されたり、「テロ」の標的となる危険性は格段に高まります。日本の中立性が失われれば、紛争に苦しむ現地の人達と日本のNGOが信頼関係を構築し、支援を行っていくことも困難になります」。(安保保障法案の採決に反対する声明)

シャンティが活動しているアフガニスタンのナンガハル州でも2009年に仏のNGOが建設を支援した学校の贈呈式で自爆テロが起き、先生や児童が死亡・負傷しました。仏政府は軍隊を派遣しているため、反政府武装勢力は、仏軍と比べて狙いやすいターゲットであるNGOと彼らが支援した学校を攻撃の対象としたのです。学校は選挙の投票所として使われることも多く、農村地域では唯一の公共施設であることからターゲットになりやすいのです。アフガニスタンでは現在、469校が放火や攻撃によって閉鎖されています。

シャンティは、ナンガハル州で2003年から2011年まで30校の校舎建設を実施しましたが、一度も攻撃されませんでした。しかし1度だけ、建設の期間中、武装した反政府勢力が、夜間に対象校に偵察に来たことがありました。彼らは建設資材を警備していた村人に、「この学校はどこからの支援で建設されているのか」と聞きました。村人は「この学校は日本の支援で建てられている」と答えました。すると反政府勢力は、「わかった」と言って帰っていき、その後何もおきませんでした。彼らが日本のNGOであるシャンティが支援する学校を攻撃しなかったのは、日本が自衛隊(彼らにとっては軍隊)を派遣していなかったからです。

自衛隊がアフガニスタンに派遣されれば、シャンティの活動も反政府武装勢力の攻撃の対象となる危険が高まります。(シャンティブログ)

私が2002年にアフガニスタンに行ったときも、現地の人々から、「原爆から立ち上がった国、独立記念日が同じ国」として、この国の人々はみんな日本を尊敬し親しみを感じている、と言われました。

自衛隊はあくまでも「自衛」隊であり、軍隊とは一線を画してきた、というのが日本の態度であり、海外でもそのように受けとめられてきたでしょう。
そこを信用され、親しみを持たれてきたこの国。
今後もそれを貫き通すのは並大抵の苦労ではないと思います。
むしろ、武力を整え、大国の傘に入って「抑止力」と言っていた方が楽でしょう。
しかしそのことによって、より危険性が増すということは火を見るより明らかです。

非戦は決して弱虫の態度ではありません。
武力によってのみ平和が構築されると考える前時代的な国や国民と一線を画し、智慧をもって平和を維持していく成熟した強い意志の国民であると信じています。



(写真は2009年に当会が建設を支援したカイラアバッド小学校)

SVAの日宣言

2013年12月08日 11時18分09秒 | シャンティ国際ボランティア会
昨日はSVA理事会に引き続き、SVAの日のつどいでした。
SVAの設立総会が1981年12月10日だったのに因みに、毎年この時期に開催されます。
その時に読み上げられる「SVAの日宣言」というものがあります。
SVAにつどう熱意を高らかに謳っています。
以下全文

SVAの日宣言

NGOの道は「けものみち」を行くのに似ているー。
SVA発展の礎となり、中心となった先達、故有馬実成師はこう語った。
インドシナ難民の支援活動から始まった我々の道程は、文字通り、道なき道を行くに等しかった。
お金も知識も技術もない、ずぶの素人集団による手探りの歩みだった。
「苦しむ人を座視できない」「子どもの笑顔こそ未来の希望」ー。
そんな思いで活動を続けてきた我々は、むしろ、数多くの人々に支えられ、助けられ、学んだのは我々自身だったことに気づかされた。
〈シャンティ〉ー平和・寂静ー。
我々の願いがここに込められている。
あらゆる民族や文化や立場の違いを超え、一人ひとりの人間の尊厳が尊重され、一人ひとりが主人公となり、心の平安のうちに生きる。
それこそ世界の平和の基である。
時あたかも、テロの恐怖や民族間の対立などによって、混迷を深める現代世界。
しかし、憎しみに対し、憎しみで応ずることによって決して平和が訪れることはない。
心の平安に根差した社会の平和ーシャンティが今こそ求められている。
12月10日。この日は、1981年、SVAが設立総会を開催した日。
すなわち、我々がその志と願いを高らかに宣言し、お互いの連帯と協働を誓い合った日である。
この日を、我々SVAの原点回帰の時としよう。
そして、我々の志と願いを高め合い、お互いの絆をさらに強く結び、さらなる道程へと新たな一歩を踏み出そうではないか。
〈自らを変え、社会を変える〉〈共に生き、共に学ぶ〉ー、
一人の傑出した覚者や為政者が世界を導く時代は終わった。
一人ひとりの平凡な市民が覚醒し、立ち上がり、手をつなぎ、世界を動かす時が来た。

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何べん読んでも胸が高鳴り、熱くなります。
これからも、この心を伝え、広めていきたいと思います。


希望への扉 リロダ

2012年12月13日 21時08分22秒 | シャンティ国際ボランティア会

元SVA(シャンティ国際ボランティア会)スタッフ、渡辺有理子さんが書いた本、『希望への扉 リロダ』。

有理子さんは、2000年から3年間、SVAミャンマー(ビルマ)難民キャンプ図書館コーディネーターとして赴任していました。

「リロダ」は、カレン族の言葉で「図書館」を意味する言葉です。

ミャンマー国境の村からタイ領の難民キャンプに逃げてきて、図書館員になった少女マナポの姿を通して、難民の現実、キャンプでの様子、図書館の活動が大変よく分かります。

実話を元にした創作児童書で、絵本のように小学生でも読める内容ですが、何度も涙を浮かべながら読みました。

そして、私たちのやってきた活動がこんなに素晴らしいものだったのかと、改めて気づかされ、感動しました。

有理子さんとは、12月1日、SVAの日のつどいで久しぶりにお会いし、講演を聞きました。その時に出来立てホヤホヤのこの本の紹介があり、先日送っていただいたのでした。

多くの日本の子供たちに読んでもらいたい本です。

アリス館刊、渡辺有理子作、小渕もも絵、1300円+税。

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ラオス20周年

2012年11月24日 22時22分32秒 | シャンティ国際ボランティア会

昨日ラオスから帰ってきました。

シャンティ国際ボランティア会ラオス事務所20周年式典に出席しました。

昨年のカンボジア事務所に引き続いて、今年はラオス事務所が20周年を迎えました。

カンボジアと同じような時期にラオス・ベトナムからも本国から逃れた人々いて、インドシナ難民と呼ばれました。ラオス難民キャンプはタイ、バンビナイにあり、当会が支援活動を行っていました。

その難民の本国帰還に伴ってラオスに活動地を移したのが20年前の1992年でした。

電気のない村の学校でも使える印刷機として、日本の謄写版を持ち込み、ついには謄写版工場も作って、ラオス国内の全校に配布するという独自の活動を行ってきました。

図書館まではいかないまでも、絵本などを詰めた図書箱をこれも全校配布するなど、ラオス教育省の全面的な理解を得て活動を展開してきました。

その後、公共図書館を建設したり、学校建設を行ったり、子ども文化センターを運営したりと、子どもの教育・文化支援活動を地道に行ってきました。

ですから、式典には、ラオス教育省、国立図書館、JICA、日本大使館などから、出席をいただき、日本からの出席者、元スタッフなどが参列し、賑やかなものとなりました。

ラオスの歌姫アレキサンドラさん、伝統舞踊の子どもたちも花を添えてくれました。

懐かしいスタッフとも再会し、夜遅くまで祝杯を挙げたことは言うまでもありません。

写真1枚目は、ラオスの前に寄ったタイ・バンコクの事務所スタッフとの夕食会。3枚目はラオスでの移動図書館活動の様子です。

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カンボジアのお母さん

2012年11月15日 20時55分02秒 | シャンティ国際ボランティア会

前にもこのタイトルで記事をUPしたと思ったのですが、消えていました。思い違いだったでしょうか。FACEBOOKと混同してるかも。

32年前難民キャンプで出会ったカンボジアのお母さんニャン・サンさんが11月5日埼玉県東松山で亡くなりました。86歳でした。

1980年、ボランティアとして2ヶ月間滞在したサケオ・カンボジア難民キャンプ。

縁あって一家族と知り合いになりになりました。

トン・バンお父さん、ニャン・サンお母さん、ハッチ、ホッチ、マーチ、モッチの子どもたち、それにラ・ブンという里子が、六畳間ぐらいの仮設の建物に暮らしていました。

日本に帰る間際のある晩、夕食に誘われました。

難民の家族に食事をご馳走になる?迷いましたが、友情の証にと言われて断り切れず、4名のボランティアがご馳走になることになりました。

配給の限られた食材で、最大限のもてなしをしてくれたことがありありと分かります。

砂の入り交じったご飯、調味料の足りないスープ。お世辞にもおいしいとは思えませんでした。

でも、お父さんと私たちが食べるのをお母さんと子どもたちは固唾を呑んで見守っています。

「チュガニ(おいしい)」と言うと、子どもたちの顔がパーッと明るくなって喜んでくれます。

私たちは互いに譲り合いながら、何とか冷や汗を流しながら飲み込みました。

食事が終わって、お母さんは、「私には、この子らの他に、一人の兄と二人の姉がいましたが、ポル・ポトの戦争で殺されました、だからおまえは今日から私の息子だよ」と言いました。

それ以来、私は、ニャン・サンのことを「お母さん」と呼んでいます。

実は、このときいただいた食事の材料は、この家族が「この日になったら日本の友だちにご馳走しよう」と、何日か前から少しずつ残してきたものだったことを後から知りました。

そんな貴重な食事をいただいたことを忘れるわけにはいきません。そして、いただいて良かったと心から思いました。

家族は、その後何年かして難民として日本にやってきました。

日本で再会を果たし、以来親戚のつきあいを続けてきました。

この度、お母さんの訃報を聞き、東松山に急行しました。

安らかできれいなままのお顔でした。

日本にやってきてから26年、いろいろな思いがあったでしょう。最期はきっとカンボジアの大地を思い浮かべていたのではないかと想像しました。

熱心な仏教徒だったお母さん、スタイルは違えども、黄色のお袈裟を身にまとって読経しました。

お骨は十数年前に亡くなったお父さんの時と同じく宿用院でお預かりすることにしました。

お父さんのお骨の一部は、今でも宿用院に安置しています。戒名もつけさせていただきました。

「徳実誠信居士霊位」

その隣にお母さんのお骨も安置して、一緒にお参りしました。

「徳風妙薫大姉霊位」

カンボジアには、お父さんも眠る親族のお墓があります。

子どもたちがお金を貯めて納骨に行く日まで、ここにお休みください。

優しく温かかったお母さん。

長い間お疲れ様でした。お世話になりました。おいしい食事ごちそうさまでした。

また会いたいです。

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SVA30周年

2011年12月13日 23時13分52秒 | シャンティ国際ボランティア会

前回からの動きを。

12月8日、お釈迦様お悟りの日、成道会。坐禅をしてあずき粥を食べてお祝いしました。

9日、SVA30周年記念式典の打ち合わせで東京。

10日、記念式典。160名ほどの出席を得て盛大に圓成。30年を振り返り、また、新たな一歩を踏み出す決意を確認。

内容は、これまでのSVA根幹事業である図書館活動の意義を検証するパネルと東日本被災地の現状を語るパネルというシンポジウムと、懇親会の2部構成。

30年前に、この団体が30年続くと思った人も、こんなに大きな活動体となることを予測できた人もいないと思われます。

「ボランティアの道はけものみちに似ている」と達観した先達、有馬実成師の言葉を胸に、これからも道なき道を、勇気と希望をもって歩み続けなければなりません。隣を見るといつも仲間が同じく歩いてくれるのであって欲しい、と思います。

11日、千葉県佐倉の歴史民俗博物館へ。久しぶりなので以前の展示が思い出せませんでした。ここの展示量もすごい。ポイントを絞らないと、一日ではとても回れない。もう2~3度は訪れないとと思いました。

その後、尊敬する千葉の和尚さんの寺へ、叱られに。何を言われるかは分かっているのですが、時々叱られないとスッキリしません。酔うほどに「バカたれが、そンなことも分からんで」と、いつもの言葉を聞くと安心します。

本当はもう一泊して、13日に山口の猿回し猿舞座の親方とお会いして、来年の被災地公演の打ち合わせをする予定でしたが、葬儀が入ったため断念。

12日に山形に戻り今日13日葬儀、という近況でした。


困難な人々と共に

2011年11月29日 23時08分20秒 | シャンティ国際ボランティア会

昨日カンボジアから戻りました。

いささか疲れました。帰りの飛行機の中で不整脈がありました。

その原因は分かっています。連日連夜の、暴飲、暴食です。

SVAが創立されて30年、カンボジア事務所がスタートして20年。

あの混沌としたカンボジアの国が、20年経ってここまで成長し、もちろん「未だにこんな状態か」という場面も多々ありましたが、人口が増え、都会らしい街の様子が整い、信号は動き、ほとんどの人は信号を守り、夕方には公演や川沿いに人が集まり、バトミントンをしたり、愛を語ったり、子どもたちが夜に外出している。

平和で安全な国になった。

20周年記念式典も、160名を超す人々が出席し、その様子はテレビニュースにも流れました。

これらのコーディネートが、ほとんど現地事務所のスタッフのみでできたということ、それが感慨深く、「よくぞここまで」と、うれしくてついつい飲み過ぎてしまいました。

松永然道初代会長(現名誉会長)ご夫妻も出席され、成田から成田までずっとご一緒させていただきました。

次は、12月10日、東京で30周年記念式典が開催されます。

今後も、社会的に困難な人々の側に身を置き、肩を抱き合いながら共に生きていきます。


カンボジア20周年

2011年11月22日 21時53分02秒 | シャンティ国際ボランティア会

SVA(公益社団シャンティ国際ボランティア会)のカンボジア事務所開設20周年記念式典出席のため、24日より、カンボジアです。

SVAは今年30周年を迎えていますが、スタートはタイ領内のカンボジア難民キャンプ支援活動でした。

そのカンボジア難民がキャンプから自国に帰還するにともなって、SVAもカンボジア国内に事務所を開設したのが20年前だったのです。

それこそ開設当初は、政情も不安定、インフラの整備もままならず、夜は真っ暗で、強盗対策のため24時間銃を持ったガードマン配置という状態でした。

次の年の92年に訪れたときも、信号はあっても電気がないため、交差点は車と牛車と荷車と人が自分の行きたい方向にひしめき合い、押し合い、まさに出口の見えない混沌とした世界でした。

アンコールワットものんびりしたもので、今では考えられませんが、入口からワット中心まで、人っ子一人いない写真が撮れました。入口の兵士は、カメラは1台1ドル、ビデオカメラは2ドルだと退屈そうに門番をしていました。

中庭では、バッタンバンからトラクターに乗って4日かけて来たカンボジア人の一族が、のどかに昼食を作っていました。

プノンペンからシェムリアップまでの国内線飛行機は、ソ連製の中古で、操縦席のドアが閉まらず丸見えで、中には幹部兵士のような人が子供を抱いて籐椅子に座っていました。

座席もパイプ椅子のような代物で、機内には冷蔵庫のような真っ白な霧が立ちこめ、贅沢は言わないから、無事に着いてくれることだけを祈っていました。

空港のトイレに行くと、水が流れないため、大便が便座の上まで盛り上がり、どうやって用をたすか悩んだ事でした。

以来、カンボジアは急激に経済成長を遂げ、田舎の駅のようだった空港も、立派なものになり、観光地には豪勢なホテルが立ち並び、目を見張るばかりです。

今回式典が行われるホテル、カンボジアーナは、92年頃に建てられたと記憶していますが、真っ暗な首都にぽっかりと浮かぶ天空の城ように、煌々と電気がつき、こんなところにこんなものを建てやがって、とブルジョアを軽蔑すプロレタリアートの目付きで眺めていました。

今ではそれ以上の高級ホテルがいくつもありますが、せっかくだから懐かしんできたいと思います。

加えて、明日23日は東京の修行仲間の晋山式(住職就任式)に呼ばれています。

ということで、6日間ほど留守にします。

くれぐれも緊急の用事が入らないことだけを心から祈ります。


大震災1 巨大地震

2011年03月13日 21時45分02秒 | シャンティ国際ボランティア会

この度の超巨大地震、山形の被害は軽微なものでした。

太平洋側の被害には目を覆いたくなるばかりです。

何万何十万という人々の不安と悲しみと絶望に胸がつぶれる思いです。

SVAシャンティ国際ボランティア会は、救援活動の視察を行うことになりました。

私も同行して15日に現地へ向かう予定です。

今回の救援活動は、かなり長期に亘るものになるでしょう。

じっくり腰を据えて活動できる拠点を探してきたいと思います。

活動拠点、活動内容が見えてきましたら、多くの皆様のご協力をお願いしたいと思います。