その日私は山口赤十字病院を訪ねた。もう長くはないと分かっていた。最後にその煖皮肉に触れたいと思った。緩和ケアの病室は和風の設えで自宅の部屋にいるような雰囲気を醸し出す工夫が施されていた。ご家族が見守る中、ベッドに横たわり大きな呼吸をされていた。
ご子息が「三部さんが来てくれたよ」と耳元で呼びかけると口元をゆがめ微笑んだように見えた。「すごいよ親父!笑ったよ」と叫んでいた。
その後まもなく主治医から「ご家族だけにしてあげてください」と告げられ、角直彦師の寺で休ませてもらっていた。2時間ぐらい経ったろうか、息を引き取られたという連絡が入り、病室に戻った。ご家族はご遺体を囲んで荷物の整理をされていた。高校野球の敗戦チームがベンチの整理をしているような敗北感を感じた。「有馬さん、負けちゃったね」。
師は、智慧と慈悲を兼ね備えた人だった。
師の知識は余人の及ばない膨大な量で、仏教はもちろん、歴史、文学、民俗学、音楽、美術、陶芸、どの分野においても深い造詣を有していた。
「知識と智慧は違う」とはよく言われることだが、師の場合、知識を栄養として智慧を増長させていたのではないかと思う。
慈悲を車のエンジンに例えるならば、ハンドルやアクセル・ブレーキを駆使して目的地に向かっていく技術が智慧と言ってもいいだろう。エンジンがなければ前には進まないが、運転技術がなければ暴走してしまう。その両方を備えていたのが有馬師だったと思う。
師の思想の発火点となったのは、父親が出征して帰らなかったこと、そして戦後目の当たりにした朝鮮民族への差別事例の体験だったかもしれない。人の悲しみを源として、その慈悲心の発露が生涯を通じて行動の原点となったのではないかと思われる。
師はよく「慈悲の社会化」と口にされていた。私ははじめ、それは論理的におかしいのではないかと思った。慈悲は一人一人の心の問題であって、社会に結びつけるものではないと思ったからだ。しかし、それは私の浅慮だったと気づくようになった。
世界各地で止まない戦争や紛争、人権差別、自殺、障がい者、老人問題などなど、諸問題に向かいその解決方法を考える時、その答えは仏教の中にあるのではないか、それは、一人一人の慈悲心を開発し広げていく、あるいは結んでいくことで成し遂げられる、平和な社会の実現ではないか、それを「慈悲の社会化」と呼んだのに違いないと思えるようになった。
こんなことも言っておられた。「国際化というのは都会のインテリが議論していただけではダメだ。地方の親父たちが野良仕事の帰りに土手に腰掛けて煙草など吹かしながら『ところで難民問題どう思う』などと言うような状況になって初めて国際化を果たしたと言える。それができるのは我々僧侶だ」と。師がシャンティボランティア会に目指した目標はそういうことだったように思う。
「ボランティアなんて海底でうごめくヒラメみたいなものだよ」とも言っておられた。当に衆生と共に、社会の底辺からこの国を、世界を変えていく、そんなダイナミックな挑戦をしてみたかったのではないか、と思う。
以来40年、師の遷化から20年、その遺志を継ごうとした者たちが、果たしてどれだけその理想に近づけたかと自問するに忸怩たるものがある。
しかし、遅々たる歩みではあるが、経行のごとく半歩ずつ前に進んでいることは感じている。師のように智慧と慈悲を兼備する人は稀かもしれない、であるならば、それぞれが持ち寄り足りないところを補い合いながら「慈悲の社会化」に向けてこれからも蝸牛の歩みを進めて行かなければならない。(曹洞宗報 令和2年12月号)
副会長 三部義道