3月22日。
昨日の気落ちを忘れて元気よく出発。はじめは調子よく鼻歌も出ていた。
ところが、だんだん左足が痛くなってきた。
足の裏に小さな豆のようなものができてそれが痛む。
距離が出ない。ようやく小杉町。
曹洞宗の寺院を訪ねた。今日こそと思い、緊張しながら戸をたたいた。
住職らしき人が出てきて、作法通りあいさつをすると、「今日はこの通りなので済みません」と目を指さした。
住職は眼帯をしていた。目を患っていたのだろう。
しかし、それが拝宿を断る理由になるのだろうか。
そして、「この先にもお寺があるからそこを訪ねてみたら」と教えられた。
行ってみると他宗のお寺さんだった。曹洞宗のお寺で断られて他宗のお寺の門をたたく勇気は残っていなかった。
甘いと言われればその通りなのだと思う。
でも、門をたたくまでの緊張感が大きい分だけ、断られたときの落胆も大きく、疲れた体が一層重くなる。
それもこちらの身勝手な感情だとは思う。お寺はもういやだ。
旅館「松原屋」。
小矢部~小杉 24㎞。
まだ血が止まらない。錫杖に血がついた。
身震いするような気持ちでお経を読みながら歩く。
倶利伽羅トンネルの前で道を聞いたおばあさんが200円喜捨してくれた。
トンネルが一番嫌だ。
車の音が轟音に聞こえる。突風が笠を煽っていく。暗い。湿っぽい。遠くの明かりを目指して錫杖の音にすがって足を進める。
とにかく歩く道ではない。
抜けた。富山県。
小矢部市。
お寺に泊めてもらおうと思い、コピーした寺院名鑑を頼りに訪ね歩く。
ここはどうかとたどり着いたお寺を訪ねてみると留守のようだ。
あきらめて帰ろうかと思い山門までやってくると、ちょうど住職らしき人が帰ってきた。
緊張した面持ちで、「わたくし、山形県松林寺徒弟、三部義道と申します。永平寺から師寮寺まで帰る途中です。今晩一晩雨露さえ凌げれば結構です。拝宿させていただけないでしょうか」天龍寺さんで教えられたとおりにお願いしてみた。
すると、「今この通り工事中なもので、済みません」と言う。
見回すと、確かに庭の工事中のようだった。
庭の工事と、一人の修行僧を泊められない理由とどんな関係があるのだろうか。
絵に描いたような門前払いだった。
緊張感が抜けてどっと疲れが出てきた。重い足がなお重くなる。
もうお寺を訪ねる勇気もなく、近くの宿を探した。旅館「山田屋」。ようやく指の血が止まった。
金沢~小矢部 28㎞。
3月21日、春分の日。
ホテルで精算しようとして頭陀袋に手を入れたところ、むき出しにしていたカミソリに当たって指を削いでしまう。
ちり紙と手ぬぐいで応急処置をして出発。血が止まらない。
雨が降っていたので、教えの通り足袋を履かずに歩く。しばらく歩くと草鞋に小石が挟まったような痛みを感じてきた。我慢して歩いたが痛みは消えずにだんだんひどくなる。
おかしいなと思って草鞋を見てみると、小石ではなく、草鞋に擦れて足の皮膚が切れていた。
藁の草鞋であれば、雨に濡れて草鞋も柔らかくなるのだろうが、ビニールの草鞋はそうはいかない。ふやけて柔らかくなった足の皮膚を容赦なく引き裂いていく。指の血も止まらない。
「何でこんなことをしようと思ったのだろうか」「どんな意味があったのか」「どんな目的があったのか、なかったのか」「格好」「評価」「行」「経験」・・・
雨に濡れながら、手と足から血を流しながら、一歩一歩自分をみつめた。
喫茶店で休憩。ホテルで作ってもらったおにぎりを食べていると、味噌汁を出してくれた。
手と足を見て、包帯、ガーゼ、バンドエイド、手ぬぐいをくれた。
人はどうしてこんなに親切なのだろう。
足袋を履いて歩き始めた。雨も止んだ。
3月20日。
7時30分きむら屋出発。
北潟湖畔を歩く。ほどなく福井県を越えて石川県へ。
連休のために車が多い。排気ガスを吸って喉が痛くなった。
日本の道は歩くためにできていない。
犬が吠える。変な格好なのは分かるが、すべての犬が吠えなくともよさそうなものだ。
道ばたの小川で小さな子が二人遊んでいた。
一人の子が私に気づき、変な格好に驚いた様子でもう一人に教えようとするのだが、もう一人は遊びに夢中で私に気づかない。
ようやく気がついて、二人で顔を見合わせながらも小さな手を合わせて合掌してくれた。
さすが仏国土。お坊さんに手を合わせることを大人の姿を見て学んでいるのだろう。
かわいく、ありがたい。
加賀を越えたところで休憩。
トイレも借りたいので喫茶店で休む。
「これから先に泊めてくれるようなところはないでしょうか」と訪ねると、店の人と常連客が「どこまで行くの」と聞くから、「山形まで」と答えると、「それは無理だ」。全部を歩いていくのは絶対無理だから、車に乗せてもらえるときは乗せてもらった方がいいよ、とアドバイス。
「この人金沢まで行くから乗せてもらいなよ」と紹介してくれた。「そうかなあ」と思いながらも、親切な皆さんに押し切られて、お言葉に甘えることに。
金沢着。
ビジネスホテル泊。
これまで永平寺上山の時と同じ出で立ちで歩いてきたが、荷物が多すぎて歩くのに大変だと感じた。特に、袈裟行李と振り分け荷物を肩の前後にして歩くのは歩きにくい。
極力荷物を整理して、袈裟行李と頭陀袋を両肩に襷にかけてみると歩きやすそうだ。余った荷物は松林寺に送ってしまった。
ホテルのコインランドリーで下着を洗濯した。
松林寺に電話を入れた。
「4月○日に寺の役員会があるからそれまでに帰ってこい」と言う。
「今、修行として歩いているのであって、役員会のために帰るというような気はない」と電話を切ってしまった。
心配だから早く帰って欲しいという意味だったのだろうが、せっかくの意欲に水をかけられたような気がして腹が立ってしまった。
芦原温泉~加賀の先まで 19㎞。
今インターネットでルートを検索すると、距離数が出るという便利な機能があるということを発見しました。これがあれば一日の行程の距離が計算できます。
因みに、永平寺から松岡までは約8㎞でした。
3月19日。
午前10時、天龍寺を出発。
大変お世話になりました。
一路海を目指した。
街中の道は、どんどん自動車が通るし、笠が飛ばされるようになるし、空気は悪いし、海岸沿いを歩いたら気持ちがいいだろうなあ。
歩いた、足と肩が痛くなる。途中丸岡城に寄る。
今日の宿は芦原温泉。
最初から贅沢だが、1年前永平寺に上る前日に立ち寄ったのがここだった。送ってきてくれた父と義兄と3人で1泊した。風呂場で父が頭を剃ってくれた。とてもいい旅館だったと思うが、あまり記憶にない。
その宿に行ってみたが、連休前で満室だという。
しかたなく、近くの民宿へ。
「きむら屋」3800円。
突然訪ねていって、宿泊をお願いしたら、頭のてっぺんから足のつま先までジロッと見て、「今日は宿泊者がないからお風呂をたててない、それでもいいか」と言う。もう疲れていたので「それでも結構です」と言って、草鞋と脚絆を脱ぎ、雑巾を借りて足を拭いて2階に上がって休んでいた。
こちらとすれば、初めての宿のお願い、泊めてくれるのか、断られるのか。向こうとすれば、いきなり変な格好の人間がやってきて、お金を持っているのかどうか。
こんなものなのだろうなと、旅の厳しさを出だしから思い知らされたようだった。
すると、「お坊さん、風呂をわかしましたから入って下さい」と階下から声がした。
「えー、私一人のために?」
ありがたいなあ。この旅は何とかなるかもしれない。
松岡~芦原温泉 21㎞。
永平寺町松岡の天龍寺住職は、当時永平寺の講師をされていた笹川浩仙老師で、自身も出家の時四国八十八ヵ所の霊場を歩いて回ったという経験があることから、私が歩いて帰るという話を聞いて、是非うちに寄って行きなさいと言ってくれたのでした。
永平寺の山門を出てからわずか2時間あまりの行程でしたが、今日の行脚はここで終了し、天龍寺さんにお世話になることにしました。
歩くための格好は整えましたが、心構えやら作法などは全く知りもせず考えもしませんでしたから、天龍寺さんに教えてもらったことは本当に参考になりました。
寺を訪ねたときの口上の述べ方、御開山拝登の仕方、寝具の始末、御手洗いの掃除の作法、等々、知らなければ恥をかくような事柄を教えていただき、拝登金や線香筒なども用意していただきました。
3月18日。
天龍寺さんの毎月の行事である市内托鉢に参加させていただいた。
あいにくの吹雪で、冷え込む一日だったが、かえって、大きな声でお経を読むと体が温まると言うことを知って、いい経験になった。
草鞋も、雨の日はわざと素足に草鞋を履く、いわゆる「素草鞋」がいいのだと聞いた。
足袋を履いたまま足が濡れると体温を奪ってしまい、体には良くないという経験談を聞いたのだ。
結局、天龍寺さんには2泊させてもらい、お世話になった。出発するときには寺内のみんなで見送りしてくれ、応援してもらった。
3月19日、本当の意味での出発。
3月17日。
山門にて送行のお拝。朝課中に朝課の鐘の音に合わせてお拝をするというのが当時の慣わしだったようで、それに倣って静かに一人旅立とうと思った。
朝課に出ていない同安居(同じ年に上山した修行仲間)数名が見送りに来てくれた。
思えば1年前この山門前に立ったときは、「もうどうにでもなれ」と、死ぬ覚悟を決めたような心境だった。
修行を終えてここから出るときはどんなに晴れやかだろうかと、その時の気持ちを夢見るように想像していたような気がする。
今、その時を迎えて、晴れやかというよりも、今ここを出てしまったら、もう二度とここで修行生活を送ることはできないのだという、寂しさがこみ上げて、お拝しながら目が潤んできた。
厳しくはありながら、「永平寺で修行した」という実感は、紛れもなく誇らしさとして胸に刻まれ、ここを出てしまうことのもったいなさを感じていた。
7時、祖父から送ってもらったビニールの草鞋の紐をしっかりと結んで、第一歩を踏み出した。
永平寺の山は雨だった。
春先の冷たい雨が草鞋の足からにじんできて脚絆を濡らしたが、1年ぶりに何の制約もなく、自分の意志でどこまでも歩けるんだという開放感が、足を軽くしていた。
道の途中、すれ違った赤い傘を差した女性が「おはようございます」と声をかけてくれた。下界の人と1対1で、声をかけられる、それだけで「道場を出たんだ」という実感につながってくる。娑婆の匂いをかぐように大きく息を吸い込んだ。
今日は松岡の天龍寺さんに泊めていただくことに決めていた。
なかなか本葬の疲れがとれません。もう眠くなったので「雲水道中記」はお休みです。
残務整理というものが結構あるもので、毎日奔走しています。
また今日は歯医者に行ってきました。
師匠が亡くなる少し前から左の奥歯が痛んで歯科医に行っていたのですが、親知らずの痛みだろうということで、口腔外科で手術の日取りまで決めていました。
外科の先生は、手術をすると、口が開きにくくなる、腫れる、痛む、痺れるなど、症状が出るだろうと言う。右の親知らず歯も同じような状態で痛まないけどどうなるのと聞くと、「痛まなければそのままでいい」という。痛まなければいいならば、左も気合いで痛まないようにしようと我慢してきたら、だんだんおさまってきた。
それで、今日歯科医に行って話したら、親知らずの手前の歯かもしれないということで治療してきたという訳です。手術しなくて良かった。
師匠が亡くなってから本葬の前々日、物を片付けていて左の足の親指に思い物を落としてしまって内出血してしまった。夜中にズキズキ痛み出し、次の日に病院で血を抜いてきた。
親知らずといい、親指といい、この時期に痛むとは、「親の痛みを知れ」という師匠の鉄槌なのだろうと受けとめています。ありがとうございます。