なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ316 サヨナラだけが人生だ

2021年05月30日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第316回。5月30日、日曜日。

木曜日訃報が飛び込んできました。
「死んだらダメじゃん」。頭の中で繰り返し鳴り続けています。
喪失感というよりも、大きな脱力感です。
20代から、教化研修所の先輩として、仲間として、同志として、長年つき合ってきました。
一緒に飲んだ時間は何百時間になるだろう。どうしてそんなに飲めるのだろうかと不思議になるくらいビールを飲む人でした。
カラオケで聴いた歌は何百回になるだろう。パワフルというよりも、うるさかった。「赤いスイートピー」。
歌い、語り、飲み、その熱さが好きでした。
「サンベー!、イケー!」という声が聞こえてきます。
とても寂しいです。
あなたと語り合えない、あなたと酒が飲めない、あなたの爆発的な歌が聞けない。
そんなこと、信じられません。ああ…
まだまだ夢を語り合いたかった。
あなたに褒めてもらいたかった。

もちろん飲んでばかりいたのではありません。
仏教の話、布教の話、現代の話、未来の話。その知識と実践とを踏まえた意見は説得力がありました。
その後の飲み会でのギャップが心地よかった。
それゆえに宗門の要職も担ってきたのです。とても大きな大事な人でした。
奇しくも、今年度特派布教の会場で配られる「聞法のしおり」はあなたの文章でした。
題して『やすらかに生きる』。
「お経をお唱えしながら、幾多の亡くなられた尊いいのちに祈りを奉げます。当たり前の時間ですが、今日もおまいりできたことに感謝いたします。」
供養できることがやすらかに生きることだ、との法話でした。
更に、曹洞宗法話動画の№6にも担当として実演されています。5月1日にYoutubeにUPされた動画を見ることができます。題して『今、いのちあるはありがたし』。
これが最期の説法になったでしょうか。

金曜日福島まで弔問に行ってきました。
4月7日に東京で倒れられたと伺っていました。
自力で呼吸もできるようになり、3日前に福島に戻り、これから少しずつ回復していくのかと希望をもった矢先のことのようでした。
庫裡の客間に横たわったお顔は実に穏やかでした。しばらく拝ませてもらいました。
何の苦しみも、悩みも、不安や憂いもない、静かなお顔をしていました。
そのお顔を見ただけで救われました。
もう仏の世界に逝かれたのですね。
今頃は、生前中巡拝されたインド、中国の仏跡を訪ねる旅の支度をされているのでしょうか。
でも今回は、誰もご一緒できませんよ。
南米の時のように奥様も付き添いできません。一人旅です。
「しかたない、一人で行ってくるよ、フハハハ…」。
こちらは、一人、ビールを上げてお見送りします。
今度はそちらの世界とリモートで飲み会したいと思いましたが、そちらにはビールはないですよね。
あきらめて一人で飲みます。

「さよならだけが人生だ」という言葉がしみじみ感じられるようになりました。

干武陵作『勧酒』、井伏鱒二訳
  勧君金屈巵  この杯を受けてくれ
  満酌不須辞  どうぞなみなみつがしておくれ
  花発多風雨  花に嵐のたとえもあるぞ
  人生足別離  「サヨナラ」だけが人生だ
 
過去帳にまた新たに一霊を書き加えました。
令和3年5月27日、長楽34世雲巌重孝大和尚。世寿満68歳。
あなたが体で教えてくれたこと。
合掌低頭を長く丁寧にする。
それをあなただと思ってこれからも実践していきます。その度にあなたに会えるでしょう。
サヨナラ、中野さん、重孝さん。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ315 山と水と、田植え

2021年05月23日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第315回。5月23日、日曜日。

いよいよ最上町の地酒造りがスタートしました。
昨日は酒米の田植えでした。子どもから大人まで30人ほどが集まって、昔ながらのワクを転がし手植えました。
実際に田んぼに入って植える者、それを応援する者、腕を組んで眺める者。いい米ができることを願って皆、力を合わせました。
テレビの取材も入りました。月曜日さくらんぼテレビの夕方報道番組で放送になるようです。
植えたのは、酒米「出羽燦々」という品種で、その名の通り1995年に山形が生んだ酒米です。
「出羽三山」に掛けて「燦燦ときらめく」というネーミングでしょう。そのような酒になればと思います。
今年植えたのは奥山勝明君の1反5畝の田圃で、800㎏の収量を見込んでいます。
その米を50%精米し、水をその1.4倍加えて酒を仕込むと800ℓの酒ができます。4合瓶で1100本ということになります。
先行予約販売を考えていますが、どうも足りなくなるような気がします。
初年度は足りないぐらいでいい、ということで計画しましたが果たしてどうなることやら。
田植え後の協議で、ラベルデザインも決定しました。
銘柄「山と水と、」の文字と山鳥を配したデザインです。
山鳥は最上町の鳥で、きれいな水のある所にしか棲まないということで、この酒のシンボルとしました。
「山と水と、」の文字は、富沢馬頭観音東善院の住職に書いてもらいました。スッキリした味のある字で、この酒の味に合う字になりました。
先行予約販売の酒は、昔懐かしい木箱に4合瓶4本入りで、ぐい呑み2個を付けてお渡しします。
木箱用の焼印も作るつもりです。ぐい呑みは、4月に最上町に来た協力隊で新進気鋭の若き陶芸家の二人に作ってもらいます。
今後、のぼり旗、ポスター、チラシなどを製作していきます。Tシャツも考案中です。
実はもう一つ、テーマソングも製作にかかっています。
私が詞を書いて、同級生の柴田敬君が作曲しました。現在東京のスタジオで編曲中です。
歌い手はある方にお願いしていますが、今はまだ伏せておきましょう。
歌詞だけ紹介すると、

『山と水と、』

1、山は語らず 水を生む  人は語らい 夢を見る
  ここに生きる 同胞(はらから)よ 山と水と、人と夢と、
  山紫水明 最上(さいじょう)の 青き山 白き水

2、水は流れて 山を成す  流れの中に 夢を追う
  今を生きる 同胞よ 山と水と、人と夢と、
  山紫水明 最上の 青き水 白き山

  今を生きる ここを生きる ともに酒を酌み交わし
  山紫水明 最上の 青き山 白き水

  今を生きる ここを生きる ともに酒を酌み交わし
  山紫水明 最上の 青き水 白き山

というものです。
「青き山」と「白き山」は、最上の夏と冬の山です。
繰り返しがくどいようですが、曲がいいので聴いてもらいたいと思いました。
出来上がりが楽しみです。
完成すればCDにして配るつもりです。

昨日は誕生日でした。娘たちが来てお祝いなどしてくれました。
これで正真正銘の高齢者です。
高齢者って本当に子どもなんだと実感します。少しは成長しなければなりません。
ああそれよりも、パソコンの調子が悪く、初期状態に戻したら復元がうまくいかずメールの送受信ができない状態です。
なんていう誕生日だとガッカリしています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ314 その欲はどこから

2021年05月16日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第314回。5月16日、日曜日。

人間の諸欲というものがどこからくるものか。
日本における「三大欲求」とされるのは、食欲、性欲、睡眠欲ですが、睡眠欲は欲求というよりも、脳が休息を求める「機能」だという捉え方もあるようです。
いずれにせよこれらは肉体的、生理的欲求となります。
ただ分からないのは、食欲が生命保存のための根本的な欲求だとするならば、なぜ必要以上に食べたくなるのか。お腹がいっぱいなのに「目が食べたい」などと言ったりします。あるいは「別腹」。
生命維持のための食物は必要なだけ摂取した後もなお食べたいと思う欲求はどこからくるのか、ということです。
必要なだけ摂取すれば食欲がストップするのなら、誰一人肥満や食べ過ぎて体を壊す人もいないだろうに。
同じように、性欲が種の保存のための生理的欲求であるのなら、体はその機能をすでに失っているのに、薬などを使ってむりやり回復させようとする欲求はどこからやってくるのか。それは何の欲なのか。
加えて、バンジージャンプや絶叫マシンを体験してみたいという、命を危険にさらすようなスリルというか刺激を求めるという欲求は一体何なのか。
それらは、肉体的欲求を超えた精神的な飢渇感からくるように思われます。
生理的欲求に対して、社会的欲求とされるのが、金銭欲や、名誉欲、承認欲、達成欲、知識欲などの心理的欲求、精神的欲求と言われるものです。
必要以上の食欲、性欲は精神的などこからくる欲求なのでしょうか。それは何と呼ばれるのでしょうか。
また、生命保存の欲求、生存欲があるならば、なぜ人は自ら命を落とそうとするのでしょうか。
それは、「これ以上苦しい思いをするなら死んだ方がましだ」という、よりよき生への欲求の裏返しと見ることもできますが、そればかりではなく、「楽になりたい」という生への憧れの欲求というか、根源的なところで死への欲求は甘美な誘いとしてあるように思います。著名な作家の自殺などを思うとそんな感じがします。

ネットで欲のことをチラチラ見てみると、三大欲求と呼ばれるものの外に、四大欲求から八大欲求まで分類されてあるようです。
その中には、典拠は不明ですが、「ブッダの七つの欲求」というのがあり、それは、食欲、性欲、睡眠欲、承認欲、生存欲、怠惰欲、感楽欲の七つだというのです。
怠惰欲というのはおもしろいですね。「ラクをしたい、サボリたい、ダラダラしたい」という欲求だというのです。確かに怠けたいという欲求はあると思います。「ラクしたいので今頑張る」という意味も含まれているようです。
キリスト教では、人間をダメにする七つの欲を「七つの大罪」として捉えているようです。それは傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲の七つです。
ここにも怠惰という欲が入っています。

ここである思いが浮かんできました。
もしかして、「楽になりたい」という死への憧れはこの怠惰欲の究極な欲求なのでしょうか。
仏教は、「人生は苦である」という前提を認めるところから始まりますが、それを認めたくないとなれば苦しみを受け入れることは難しいでしょう。
お釈迦様は、人生が苦であるからこそ、そこからの解脱を図り、苦しみの原因を探り、その解決方法として、四諦、八正道というプロセスを提示しました。まことに論理的です。
苦しみの中で生きるアドバイスです。
生きる苦しみからの解放を、死をもってではなく、生きることによって成し遂げる教えです。

心理学者アブラハム・マズローは、「五大欲求」の中で「自己実現欲求」をあげています。
それは「あるべき自分になりたい、世の中に貢献したい」という自分の持つ能力や可能性を発揮したい欲求だというのです。
この欲求が、人間が根底に持つ欲求であり、最終的に到達する欲求だとしています。
それをまとめて「生存欲求」「関係欲求」「成長欲求」の三つの段階の「三大欲求」というする論もありました。
さらにそれは、「爬虫類脳」「哺乳類脳」「人間脳」と分類して、脳の部位と欲求を当てて見る見方もあることを知りました。

欲は生命が持つ、生きる動機としての根本的な機能ですから、それをなくそうとしても消し去ることはできないでしょう。
さらに人間は、爬虫類や他の哺乳類とは違う欲を持ち、それが原因となり苦しんでいます。
「少欲」と言われるように、欲をコントロールしようとしてもそれもなかなか難しいでしょう。
若い頃の暴走する肉体的な欲求から歳とともに解放されてくるのはありがたいことです。
欲はありながら、生理的な欲求から精神的な欲求へ、その中でも「成長欲求」のような欲へ段階を高めていくことで、暴走を食い止めることができればと思います。

参照

三大欲求とは?人間の重要な欲求を八大欲求まで完全解説! - Web活用術。

日本では「食欲・性欲(排泄欲)・睡眠欲」の三大欲求が有名ですが、この欲求は日本独自の表現です。この記事では、二大欲求、もう一つの三大欲求、四...

Web活用術。

 


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ313 花まつりと三つの驕り

2021年05月09日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第313回。5月9日、日曜日。

5月8日の昨日は松林寺の降誕会、花まつりでした。
少人数でしたが、いつものように梅花講の皆さんとお花を飾ってお祝いしました。
シャカ族の王子として誕生した人間シッダールタ。
悩み多き少年時代を過ごし、やがて城を抜けだし苦行を経て、人間の苦しみの原因を探りそこからの解放に目覚め、その教えを広めるために旅をされた。
その生涯のはじめの物語として降誕会は説かれています。
ネパールに行ったとき、「ここがその場所だ」とされる地を訪れたことがありました。
聖者誕生の地はそれなりの意味はあると思いますが、私はさほど感動を覚えませんでした。
それよりも、シッダールタが釈尊になる原因となった「四門出遊」の物語の方が私には意味深く感じられます。

若き日、王子は従者を連れて城の外に遊びに出た。一説には14歳のときとされる。
そこで、老いた人、病んだ人、死んだ人を見た。
それまでに、それらの人を一切見たことのなかった王子は非常にショックを受けた。
皺だらけで黒ずんだ皮膚。痩せ細ってあばら骨が浮き出た体。髪が白くなり眼も白濁し、力なく横たわる老人の姿を、見たくないと思った。
しかし、これが全ての人間が避けられないやがて来る姿であるならば、それを現在の自分が嫌悪するのは自らの驕(おご)りではないのか、と気づき強く反省した。
同じように、病についても、死についても、それを見たくないという自らの嫌悪感に対して強く反省した。

それが後に、「若さの驕り」「健康の驕り」「いのちの驕り」という「三つの驕り」にまとめられました。
老いや死を避けたいという思いから、目を背けたり、見ないようにする気持ちは誰にもある感情かと思います。
しかし、それが他人事ではなく、やがてやってくる自らの姿だとすれば、自分の姿に目を背けていることになります。自分の姿に自分が嫌悪しているのは、現在の我が身の「若さの驕り」だと気づいたことが釈尊の優れたところです。
だとするならば、我々にはこの三つだけでない驕りがあると思われます。
テレビに映る、飢えた子どもの姿や難民の人々を見たくないと思う、それも驕りではないのか。
いじめられている人を見て見ぬふりをする。
貧困の子どもをかわいそうだと思いながら無視する。
差別を受ける人をそちらにも問題があるんじゃないのなどとはぐらかす。
災害の被災者を見ようとしない。
戦争や紛争で傷つき、あるいは命を落とした人々に目を背ける。
血と涙を流しながら命をかけて抵抗するミャンマーの人々を他人事と退ける。
それらは全て、自らの驕りからくるものなのではないか。
「富者の驕り」
「平和の驕り」
「安全の驕り」
「マジョリティの驕り」
「常識の驕り」
「正義の驕り」
「普通の驕り」
現実を見たくない思いの原因はどこにあるのか。その追求の眼を自らに向ける。
それがシッダールタが出家を志す起因になったのだと思います。
東の門から出て老人を見、南の門から出て病人を見、西の門から出て死人を見て現実の姿に心を痛め、北の門から出て沙門を見てその姿に打たれ出家を志す、という物語になったのが「四門出遊」です。
そういう意味で、誕生の地から車で1時間ほど離れたシャカ族のカピラ城跡だとされる遺跡に立ったとき、苦悩の日々と出家への憧れを抱いた若きシッダールタの肉体を感じ感激でした。

母親の姿を見ていると、当に老衰、老醜と言わざるを得ません。
着替えをさせてもらいベッドから車椅子に移り、口に食事を運んで食べさせてもらう。
おしめに排泄してそれを家族に処理してもらう。そのことの苦痛を感じていないわけではないと思います。
「それでも生きていなければならないのか」、そう思うこともあるのではないか。
父親もパーキンソン病に苦しんで「もう生きていたくない」とこぼしたことがありました。
それでも生きていなければならないのか。私もそう思ったことがあります。
釈尊は、その目を自らに向けた人でした。
そして、その解決法を示し、涅槃を目指したのです。
だとするならば、老いは決して避けるべきことではなく、自らを見つめ、苦悩の解脱に向かう起点の一つになり得ることだと受けとめることができます。
見たくない現実こそが、自分を高めてくれるのだと学ばなければなりません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。






サンサンラジオ312 自分のにおい

2021年05月02日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第312回。5月2日、日曜日。

5月に入りました。
自分の誕生月であるからだけでなく、新芽が芽吹くこの月は一年で一番好きな月です。
新緑の緑は幼児のような純粋さで、見るだけで心が洗われるようです。

マスク習慣で気がついた、自分のゲップのにおい。
せっかく心が洗われたのに変な話ですみません。
口臭は時々確かめたりして分かっていたが、ゲップのにおいまで意識したことはなかった。
ガッカリする匂い。
あとはくしゃみのにおいもね。
普段気がつかないことはあるものです。
考えてみれば、口臭、汗のにおい、加齢臭、自分が発する匂いというものを、何の意識もせずにまき散らしていたんですね。
そのことに、マスク生活で気がつかされました。
母親の介護をして抱き上げたときに母のにおいがします。
風呂の前に自分の服を脱ぐときににおうにおいと同じにおいです。
親子だから体質も似てるだろうから体臭も同じなのだろう。それともこれが加齢臭というものか。
介護は全てのにおいを発散し受け止めなければなりません。
そこでもにおいというのを意識しています。
いわゆる「におい」だけではありません。
言葉や、顔つきや、態度でも、臭いことはあるでしょう。
マスクでにおいには気づきましたが、それ以外の自分の臭さはどうやって気づけばいいでしょうか。
自分を観るのは鏡という方法もありますが、自分が自分を観るときはもはや自然ではないでしょう。そこにはすでに自意識が介在しているはずです。
言葉は見えないし。
誰かが隠し撮りしたビデオでも観ない限り、自分の自然な臭さは観れないように思います。

ただ、自分のおならのにおいは実は嫌いじゃないんですよ。
すみません、ほんとに臭い話で。
布団の中から漏れ上がってくるにおいには、何か懐かしいような、牧歌的な心地よさを感じることは否定できません。
もちろん自分の分身だからであり、人に嗅がせてみるものではありませんが。
「かわいそうだよズボンのおなら、右と左に泣き別れ」つまらないものを思い出してしまいました。
着物から洋服に変わる頃の都々逸ですかね。
確かに着物だと、左右に分かれずに襟元から湧き上がってくるのは確かです。
都々逸といえば好きなのがいくつかあります。
・酒飲み男花ならつぼみ 今日もさけさけ明日もさけ
・色でまどわすすいかでさえも なかにゃくろうの種がある
・恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす
そんなことを言いたいのではありません。

気を取り直して。
混んでいる電車などで立っているとき、誰かに寄りかかっていると、その人が倒れれば一緒に倒れることになります。
自分の足でしっかり踏ん張ることがまず大事ですが、それでも大きな揺れの場合は耐えられなくなります。
つかまるなら人よりも吊革、それよりも手すりです。
人生も同じようなもので、自分の力だけでは立っていられないとき、何につかまるのかが大事です。
しっかりした柱を拠り所にすることで安心が得られるでしょう。それが心の柱、宗教です。
手すりよりも安全なのは座ることです。「帰家穏坐」家に帰ってどっかりと座るような落ち着きと安心を得られる宗教を持ちましょう。
宗教の必要性を普段は感じなくとも、思わぬ病気や災難に遭遇したとき、何かにすがりたいと思うのが人間です。
しかし、普段から心の柱を持たない人がその時になって慌てて求めることで宗教まがいのものを頼りにしてしまい余計に苦しみを抱えてしまうこともないわけではありません。
全てを誰かに委ねてしまうことは危険です。
一端委ねてしまうと、一から十まで頼らないではいられない不安に駆られ、どんどん依存していくことになります。
先だってもそんなニュースがありました。そういう例をたくさん見てきました。
いわゆる、人の弱みにつけ込む宗教のふりをした貪欲な輩です。
まず自分の足でしっかり立つ、誰かではなく自分を頼りにする、その上で揺るぎない心の柱を拠り所とする。
揺るぎない心の柱は、自分の外にあるのではなく自分自身の中に立てるものです。
それは毎日の行いから育っていくもの。家に仏壇があればそこに毎日手を合わす。そういうことです。

暗闇に一筋の光が差し込むと、今まで見えなかったほこりが舞っていることに気づきます。
宗教はほこりを気づかせてくれる光です。
マスクと宗教を一緒にすることはできませんが、マスク生活の中で自分に気づくことはあるはずです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。