三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第332回。9月26日、日曜日。
酒田出身の詩人、吉野弘の詩集から一つ
『生命は』
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
いいですね。
世界は他者の総和。まさにジグソーパズル。
自らの足りないところは、他者から満たしてもらうためのものだった。
他を受け入れるための空白だったのだ。
虫にも風にも手伝ってもらって、何とか自らを完結できる。
そして、自らも、知らぬ間に誰かの風になっている。ありがたいことです。
先週は酒米の稲刈りをしました。
会員と地元を中心に子どもたちやお母さん方、40名ほどが秋の喜びを満喫しました。
晴天の下、黄金色に稔った米を収穫する喜びは、太古の昔からこの国の人々が味わってきた至福なのでしょう。
その喜びのDNAは子どもたちにも引き継がれていくものと信じます。米を離れてこの国の生きる喜びはないのではないかとさえ思います。
さらに、米からできた酒を味わうことができるなんて。至祝、万歳。
私は、積極的に生きる人、自ら楽しもうとする人が好きです。
人任せにした上にひとのせいにして、常に否定的なことばかり言う人は嫌いです。あまり側に居たくないと思います。
積極的に生きようと思っても生きられない人はいます。病気や環境によって難しい人。
でも、そういう人のことを慮って、積極的に生きることができる人がそうしないのは、その人に対しても失礼だと思います。
津波で全てを流された漁師が、ボランティアに来てくれた若者が「皆さんのことを思うとこれからどう生きていっていいのか」と言うのに対して言いました。
「あんたらはあんたらの場所で幸せになればいいっちゃ。こう見えて俺たちは、人の幸せをうらやむほど落ちぶれちゃいねえよ」と。
子どもたちがここで生きることに希望を持てないのは、仕事がないとか、将来性がないとかよりも、大人が楽しそうに生きていないからじゃないのかと思うのです。
故郷は、一旦は都会で生活したとしても、やがて帰りたくなる場所でなければならない、そうであって欲しい場所、と思います。
そうなるためには、何よりも大人が楽しそうに生きて見せるということでしょう。
私が故郷に戻ってここで生きると決断したときの目指す方向はそこにあります。
楽しく生きて見せる。それがここに生きる私の目的です。
否定的な言葉には耳を貸さない。
ひとのせいにしない。他人のアラを探さない。言いふらさない。
誰とも比べない。今ここで自分の命を生きる。
過去は思い出さない。失敗や過ちの記憶を思い出しているよりもすることがある。
積極的に生きる人と多くの時間を過ごす。
この命を楽しく使い切ることに時間を使う。
生きる。楽しく生きる。楽しく生き切る。
そういう生き方が、知らぬ間に、誰かの風になればいい。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
酒田出身の詩人、吉野弘の詩集から一つ
『生命は』
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
いいですね。
世界は他者の総和。まさにジグソーパズル。
自らの足りないところは、他者から満たしてもらうためのものだった。
他を受け入れるための空白だったのだ。
虫にも風にも手伝ってもらって、何とか自らを完結できる。
そして、自らも、知らぬ間に誰かの風になっている。ありがたいことです。
先週は酒米の稲刈りをしました。
会員と地元を中心に子どもたちやお母さん方、40名ほどが秋の喜びを満喫しました。
晴天の下、黄金色に稔った米を収穫する喜びは、太古の昔からこの国の人々が味わってきた至福なのでしょう。
その喜びのDNAは子どもたちにも引き継がれていくものと信じます。米を離れてこの国の生きる喜びはないのではないかとさえ思います。
さらに、米からできた酒を味わうことができるなんて。至祝、万歳。
私は、積極的に生きる人、自ら楽しもうとする人が好きです。
人任せにした上にひとのせいにして、常に否定的なことばかり言う人は嫌いです。あまり側に居たくないと思います。
積極的に生きようと思っても生きられない人はいます。病気や環境によって難しい人。
でも、そういう人のことを慮って、積極的に生きることができる人がそうしないのは、その人に対しても失礼だと思います。
津波で全てを流された漁師が、ボランティアに来てくれた若者が「皆さんのことを思うとこれからどう生きていっていいのか」と言うのに対して言いました。
「あんたらはあんたらの場所で幸せになればいいっちゃ。こう見えて俺たちは、人の幸せをうらやむほど落ちぶれちゃいねえよ」と。
子どもたちがここで生きることに希望を持てないのは、仕事がないとか、将来性がないとかよりも、大人が楽しそうに生きていないからじゃないのかと思うのです。
故郷は、一旦は都会で生活したとしても、やがて帰りたくなる場所でなければならない、そうであって欲しい場所、と思います。
そうなるためには、何よりも大人が楽しそうに生きて見せるということでしょう。
私が故郷に戻ってここで生きると決断したときの目指す方向はそこにあります。
楽しく生きて見せる。それがここに生きる私の目的です。
否定的な言葉には耳を貸さない。
ひとのせいにしない。他人のアラを探さない。言いふらさない。
誰とも比べない。今ここで自分の命を生きる。
過去は思い出さない。失敗や過ちの記憶を思い出しているよりもすることがある。
積極的に生きる人と多くの時間を過ごす。
この命を楽しく使い切ることに時間を使う。
生きる。楽しく生きる。楽しく生き切る。
そういう生き方が、知らぬ間に、誰かの風になればいい。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。