なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その12

2021年03月31日 05時00分00秒 | 義道
永平寺役寮時代

平成4年(1992)春のある朝トイレに座っていると、十和子が「電話、永平寺からだって」と受話器を持ってきた。それは永平寺の池田副監院からで、「役寮として永平寺に来てくれないか」という話だった。はじめ何のことか飲み込めなかった。役寮というのは、永平寺に常在して業務を務め、修行僧の指導にもあたるという役職で30名ほどがその任に当たっている。しかし、その任に当たるのは、永平寺で長く修行した人がほとんどで、1年間しか修行していない自分などが務めるような役ではないと思っていた。トイレの中で受けるような要件でもなかった。「よく考えて早めに返事をしてほしい」と言われ電話を切った。
「何の話?」と聞かれ、「いやいや、とんでもない電話があるもんだ。永平寺に来いという話だった」と、その時はまさか妻と1歳になったばかりの娘を含め3人の子供を置いて行けるわけがないと笑っていた。すると彼女は「ふーん、おもしろいじゃない」と簡単に言う。「え、3年間だよ」と言うと「何とかなるんじゃない」とあっけらかんとしている。それから悩んだ。「反対されて、そりゃあそうだと笑い話にすればいいと思ったのに、何とかなるという、本当に行けるんだろうか、自分などが行っていいんだろうか」という思いと反比例して、「もう一度永平寺の中に入れる」という期待の思いが膨らんできた。修行を1年で切り上げて山を下りる時、もう二度と僧堂に入ることはできないだろうという寂しさと恋しさを感じていた。怠惰な生き方を締め直すためにも、もう一度あの場所に身を置いてみたいという思いは日に日に強くなっていった。
腹を決めたころ、「あなた本当に行くの?」と聞かれたが、今更言われてももう引き返せなかった。池田好雄老師は、庄内の寺の住職で、松林寺の授戒会の際には説戒師を務めてくれた。また昭和62年(1987)から通っていた布教師養成所の直近の主任講師でもあった。そんな縁がつながって永平寺の伝道部講師を受けることになった。
平成4年(1992)9月8日に上山した。久しぶりの永平寺は緊張の連続だった。修行1年目のビクビク感がよみがえり、古参和尚が大きな声を出すと自分が怒られているのかと背中に緊張が走った。修行僧の時は周りを眺める余裕もなかったが、役寮に慣れるにしたがって顔を上げて眺めるほどに永平寺は美しいと感嘆した。水の流れる音や樹木の四季の移り変わりは、自然の姿に仏を感じさせてくれるに充分だった。ありがたい経験もたくさんさせていただいた。朝課の導師や夜の点検などは役寮ならではの役目であり、毎晩の法話や坐禅指導も及ばずながら務めさせていただいた。何よりも、道元禅師のお傍に生きることができるという喜びはこの上ないものだった。

上山して3年目の平成7年(1995)1月17日、朝の坐禅の時、僧堂全体がグラグラと揺れた。阪神淡路大震災の発災だった。テレビのない永平寺でも、とてつもない大きな地震であることが新聞等で分かった。神戸には永平寺修行中同寮の和雄さんがいる、大丈夫だろうかと心配になったがなかなか情報は伝わってこない。新聞の死亡者欄を隈なく見てもそれらしい名前がないので安堵していた。ところが同じ兵庫県の修行仲間から「どうもお子さん二人を亡くされたらしい」という情報が入った。それから心がざわついて落ち着いていられなくなった。永平寺だからといってただ坐っていていいのだろうか。難民キャンプに身を置いた経験が、「傍に行って寄り添いたい」という行動を駆り立てたのだと思う。
「現地に行かせてほしい」と監院老師にお願いするも色よい返事はもらえなかった。ならば、永平寺を辞めても行くと腹を決めた時許可が下りた。
震災から5日後の22日、修行僧二人と3人で神戸を目指した。まずは和雄さんの寺に行き亡くなったお子さん二人に手を合わせた。続いて、避難所に行き「安置されている遺体に手を合わさせてほしい」とお願いすると、グランドで焚火を囲んでいた一人が寄ってきて「宗教関係者が避難所をウロウロするのを目障りだと思う人がいるから止めた方がいい」と耳打ちされた。被災地で宗教者は何の役にも立たないどころか目障りな存在なのか、宗教者はこれまで一体何をしてきたのか、何をしてこなかったのか。情けなさと腹立たしさで悲しくなった。
仕方がないので瓦礫の片付けをしていると、ラジオから火葬場で読経のボランティアを求めているという情報が流れた。「葬儀もせずに遺体を荼毘に付す遺族の心情を思うといたたまれない。ボランティアで読経だけでもしていただけるお坊さんがいたらお願いしたい」という火葬場職員の悲痛な叫びだった。永平寺から「すぐに火葬場に行け」と連絡が入り、真っ先に駆け付けた永平寺組と高野山組が一緒になって読経した。その後何班かに分かれて修行僧がボランティアとして現場に派遣された。總持寺からも派遣された。これが修行道場から災害支援にボランティアを派遣した最初のケースとなった。また、日本国内の災害にお坊さんが関わっていくきっかけとなったかもしれない。

永平寺勤務中、月に2度は宿用院に帰って来ていたが、3人の子どもを抱えて3年間、十和子はよく寺の留守を守りやりくりしてくれたと思う。
平成7年(1995)10月31日、3年間の勤めを終えて永平寺から帰ってくると、布教師養成所でお世話になった主任講師の辻淳彦老師から電話があった。「永平寺から帰るのを待っていたので特派布教師を務めてくれ」とのこと。畏れ多いことではあるが、せっかく推薦いただいたので受けさせていただき、平成8年(1996)4月から特派布教師を務めることとなった。


サンサンラジオ307 コロナと春

2021年03月28日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第307回。3月28日、日曜日。

22日、山形市に独自の緊急事態宣言が発令されました。
隣の仙台市の急増に呼応するかのように、山形県内での感染者も急増しているためです。
ちょうどその晩、集中講座の企画委員会があり、今年は開催したい意向を伝えたのですが、みな意気消沈してしまっていて、6月開催は見送らざるを得ませんでした。
チケットの販売が難しいと言われれば、無理やり開催することもできません。
とりあえず、様子を見て、ワクチンも届いて感染が収まれば、10月にも開催できないかという結論となりました。お盆明けに判断します。

25日はシャンティボランティア会の総会でした。
オンライン開催ですが、会長副会長は会場にて出席の予定になっていました。
緊急事態宣言は山形市のみで、県全体ではないのですが、「こんな時に行くの?」という空気が蔓延していて、こちらも断念しました。
結局オンラインでの参加でしたが、総会も理事会も無事に終わり、その後に行われた40周年記念のトークイベントもいい内容でよかったでした。
上京したら、甥っ子が開店したもつ焼き屋に行こうと思っていましたが次の機会とします。

昨日は鶴楯の春の作業のための下見に行きました。いよいよ今年は支障木の伐採と植樹を開始します。麓までの道路も作りたいと思っています。
みんなの力を合わせてやろうと、気運は高まっています。
地酒造りも少しずつ動き出しています。
4月20日に実行委員会を開き5月22日に酒米田植えの予定まで決まっていますが、テレビ局から取材の依頼が入り、その芽出し作業から追いかけたいとのことです。
酒の量は少量で最上町限定販売の予定なので、できる前からあまり大騒ぎするのはどうかと思いますが、最上町民に対しての広報も必要かと思っています。

大雪に覆われていた田んぼも急速に溶けて、散歩ルートの道も歩けるようになりました。
冬の間ほとんど体を動かすことなく、座ってばかりいたので、関節も肉もカチコチに固まってしまっています。
少しずつほぐしていかなければなりません。
身体を動かすためならばルームウォーカーもあるのですが、冬の間に2回ほど乗ったでしょうか。外の空気を吸いながら自然の中の散歩の魅力とは比べ物になりません。
楽しみは、イヤホンで聴く落語や浪曲、朗読、そして島津亜矢。朝の散歩には島津亜矢が合います。元気が出ます。
鳥のさえずりが聞こえだしたらイヤホンは外します。自然に勝る音楽はありませんからね。

明後日30日は北海道で寺院の研修会の講演が入っています。
空港まで車で行って、飛行機に乗り、密を避けて電車に乗ればホテルまで無事に着けるのではないかと思っています。
ただ、宣言が出た山形から来るのは受け入れる側としてどうなのかと思い電話したら、「北海道はずいぶん出ているのであまり気にしていない」とのこと。
うーん、いいのか悪いのか。
研修会を中止にしないことがその意思表示なのでしょうから、行くしかありません。

大震災以来、人の痛みに寄り添うという無縁社会からの変革の動きも、寄り添いそのものができない状況では、孤独や無縁に逆戻りしてしまうかもしれません。
親や兄弟の看取りや葬儀にも参列できず、しっかりお別れができないことがもたらす心の不安定さを、どう解決していけばいいのか。
そこに僧侶の役割はないのか。あるとすればそれはどんなことか。言葉として何を伝えていけばいいのか。
未知の局面ですが、苦しむ人がいれば、そのための解決方法は生み出していかなければなりません。
苦しみは金銭的な問題ばかりではないはずです。
この局面で、仏法が役立つのかどうか、それが問われているのでしょう。
そのためにも集中講座を開催できないかと思ったのですが、人が集まることができないことは癒しの機会も制限されるということなのです。
収まるまでジッと待つのも一手ですが、全てが動き始める春、この中でもできることがないのか、散歩しながら考えましょう。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



義道 その11

2021年03月24日 05時00分00秒 | 義道
宿用院時代

当初、英照院に住みながら宿用院の住職を務めるという計画だったが、住職と監寺の責任の重さと愛着を測ればどうしても住職地に重心がかかってしまい、英照院の方は1年余りで辞任させていただくことになった。
河北町谷地の宿用院は600年の歴史がある寺で、4年前に亡くなった先住市川清矩大和尚は、28年間河北町長だった人であり、また曹洞宗宗議会議長も務めた有徳の住職だった。その分、一般の檀家からすれば近寄り難い部分があったかもしれない。そこに、20代の住職家族が生後間もない子供を抱いて寺にやってきたので、みんな興味津々で様子を見に来た。何も知らない土地で住職の経験もない状態だったので、こちらも関心をもって檀家と接してきた。お陰で、120軒ほどの檀家の家族構成、顔名前、親戚関係までほとんど頭に入っていた。
新しいことを何か始めても喜んで協力してくれ、応援してくれた。
手始めに寺報月刊「なあむ」を発行した。これは松林寺で先行した寺報「いちょう」を追いかける形でスタートさせた。宿用院の役員さんが毎月檀家に配布してくれた。また門前の掲示板に毎月仏教の言葉を書いて張り出す掲示伝道を始めた。次いで月例の坐禅会、写経会を開始した。
教化研修所の時代、中野先生に、「寺に人を寄せるには何がいいですかね」と聞いたことがあった。先生は「それは祭りがいいよ、10年やれば伝統になるよ」と教えてくれた。その教えを実行したのが「宿用院地蔵まつり」だった。野ざらしの石地蔵に覆い堂を作りたいと発願し寄付を募って完成させた。その落慶式を盛大に挙行しイベントも行った。終わって「楽しいね」という声を待ってましたとばかりに「来年もやろう」と例祭にこぎつけた。それから毎年5月最終日曜日を定例として25回まで続いた。
おじいさんやおばあさんお母さんは寺に来るが最も来ないのはお父さん方だ、そのお父さんたちを集めるために結成したのが「宿用院羅漢クラブ」だ。その羅漢クラブが地蔵まつりを主催し、その流れで、新年会、花見、芋煮会、バーベキュー、旅行と、次々と企画してはとにかく飲んで楽しく過ごした。
研修所時代に少し法話の勉強をしていて、必修として布教師養成所にも出席していた。住職となり、大般若会・施食会などのお寺の行事で話すようになった。老人会や公民館行事などにも講話として呼ばれていた。しかし、浅い勉強と薄い知識の中で話をするのは穴あきダムのようなもので、すぐに底をついてしまう。もう一度勉強しなおさないと話ができないと思い、昭和62年(1987)から布教師養成に通い始めた。年3回で当初は1週間の日程だったが次の年から5日間になった。少し話せると思って高くなっていた鼻の根元から見事に刈られた。行くたびに落ち込み自己嫌悪に陥ったが、お陰で勉強させてもらった。
平成4年(1992)、本堂の柱が白蟻に喰われていることが分かり、土台を全て取り換える改修工事を行った。併せて平成5年に宿用院開創600年を迎え、その法要と初会結制を挙行し、記念誌『宿用院縁起』を作った。

河北町長の選挙にもかかわった。総代の一人が立候補し、当時の町政の事情もあり頼まれて掲示責任者を引き受けた。無事当選し二期目を迎えた時、事前の予想では無投票ということで、断り切れず現職の後援会長を引き受けた。その直後に立候補したのが、何ともう一人の宿用院総代だった。総代同士の一騎打ちでは、住職がどちらかの後援会長など務められないと退任を申し入れたが、選挙は既に走り出してしまっていて、辞めるに辞められない状況になってしまっていた。この事が宿用院時代で最も苦しい出来事だった。ありがたいことに、その後現職が当選してからは、ほとんどしこりも残らずどちらの総代も寺の運営を積極的に担ってくれた。

平成11年(1999)高木善之環境講演会「美しい地球を子どもたちに」が開催された。主催したのは環境NGO「ネットワーク地球村」の山形県会員が中心となった実行委員会だった。宿用院が事務所となり会員の一人だった私が実行委員長になった。河北町で一番大きな「サハトべに花」の大ホール定員800名に1100名が集まった。通路に立ち階段に座りステージ上にもパイプ椅子を並べたがそれでも入りきれずに帰った人がいて、ステージから眺めて思わず鳥肌が立った。その実行委員会の熱を次につなげていこうと結成したのが「河北町環境を考える会」だった。私が代表となり、毎年「100万人のキャンドルナイトin河北」を開催、講演会や研修会、宿用院を会場に毎月例会を行ってきた。会として東日本大震災の炊き出しにも何度か行った。お寺が環境問題の発信地になるべきと考え平成21年(2009)庫裡の屋根にソーラーパネルを設置した。

宿用院住職になる時、父親から「10年勤めてこい」と送り出されたが、なってしまえばそう簡単に辞めるわけにもいかず、結局27年住職を勤めた。
新米住職を暖かく向かい入れ、かわいがり、交流を深めた宿用院檀家衆の顔が次から次へと浮かんでくる。私にとっては家族同様のつき合いだった。

サンサンラジオ306 ミャンマーを憂う

2021年03月21日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第306回。3月21日、日曜日。

昨日は彼岸の中日でした。
今年は大雪だったため駐車場の雪が残り、檀家衆の車の出入りに大変でした。
雪国は春彼岸に墓参りができないので、ほとんど全檀家が寺の位牌堂をお参りに来ます。
それが1年初めの寺参りという人も多く、自分の家の位牌ばかりでなく親戚の位牌にも供物を上げてお参りします。
今の供物はほとんどが袋のお菓子や果物ですが、以前はぼたもち、炊き込みご飯、だんごなどでしたからその後の始末が大変でした。
母親の話では、昔は空の重箱を持ってきて上がった供物をいただいていく家もあったとか。貧しい家庭にとってはめったにないごちそうだったに違いありません。それを楽しみに待っていた子どもたちもいたでしょう。
持てる者は供え、持たざる者はいただく、そんな循環の機能がお寺にあったということです。東南アジアの寺院には今もそれに近い機能があるように思います。
昨日は、毎年手伝いをしてくれる6名と家族も総出で片づけをして、お菓子や果物は「お護符」として分配しました。小さな子供がいる家にもおすそ分けするようにしていて、一部は山口県の友人にも送ります。みんな健康で暮らしてくれればと思います。

ミャンマーの情勢が気になって心が晴れません。
ミャンマーは、長年にわたり軍政にありましたが、2015年の選挙によって民主化が実現し、海外からの投資も増大してアジア最後のフロンティアと呼ばれていました。
ところが、2月1日の軍部のクーデターにより、一気に元の軍部による独裁政権に逆戻りしてしまいました。
昨年11月に行われた総選挙でスー・チーさん率いるNLDが再び圧勝し、軍の力が弱まることに危機感を感じたフライン総司令官らがクーデターを起こしたのです。
ロヒンギャに対する迫害も軍部によるもので、それらに対する追求から逃れたいという狙いもあったと思われます。
しかし、毎日のように罪のない一般市民の命が奪われる状況には、ふつふつと湧いてくる怒りが抑えられません。
本来国民を守るべきはずの軍隊と警察が国民に銃を向けるという事態はとても看過できません。一体軍隊は何を守ろうとしているのか。
軍部はおそらく、以前に戻るだけだ、国民もすぐになれるだろうと甘く見たのだろうと思われ、それが誤算だったでしょう。
軍政から解放されて一度自由の空気を味わった国民は、そう簡単に圧政に戻ることを受け入れはしなかったのです。
武器を持たない国民が武器の代わりに使ったのはSNSという情報手段でした。
一人一人は弱い存在ですが、集団になれば力となります。国民の心をつなぐ情報手段は大きな武器となりました。
ただし、ここにきて軍部はWi-Fiの接続遮断、民間新聞の休刊など、情報を断絶する処置を取り始めているようです。
このまま情報が遮断されてしまえば、見えないところでどんな残虐な事態が起こるか益々心配されるところです。
熱心な仏教徒が多いミャンマーですが、僧侶たちも声を上げ、デモを行っているようです。しかしその僧侶さえも拘束されているという情報があります。
国民に銃を向けることに耐えられない軍や警察の人の中からインド側に亡命する人も出ているようで、その心の苦しみが察せられます。
何とかしなければなりません。
軍部が軍政から手を引くつもりはなさそうです。一方国民側も徹底的に不服従で抵抗すると予想されています。
どこに着地点を見出すのか、専門家の誰にも見通しができません。
以前のように少数民族との内戦が再燃するかもしれませんし、新たな難民が発生することも予測されています。
国民があきらめてしまうことで軍事政権は長期化、既成事実化してしまうでしょう。
海外の人々がしっかり監視をして、国民が孤立しないように見続けなくてはなりません。

シャンティ国際ボランティア会では、ミャンマーの国内支援を行う事務所をピイに置いているほか、タイ側に逃れた難民がキャンプから帰還する受け入れのための事業事務所をパアンに置いています。
それぞれにローカルスタッフを雇用し、前政権との連携の下教育支援を行ってきました。
それがクーデター後に活動の縮小と休止を余儀なくされています。
最も困ったのはスタッフの給与が支払えないことです。銀行が閉鎖されATMが止まっています。パアンの事務所には現金が日本円で5000円しかないという状態です。
スタッフの生活を支えるために、何とかお金を送らなければなりません。今、その方法を模索しているところです。
これまでせっかく積み上げてきた活動と活動の拠点を閉鎖することは、ミャンマーの国民にとっても大きな痛手となります。
活動ができないのに事務所を維持しスタッフに給与を支払うのは、団体の資金繰りとしても大変厳しいのですが、事態が沈静化するまで何とか維持して次につなげていきたいと苦心しているところです。

ミャンマーに安定が戻ることを心より祈ります。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。







義道 その10

2021年03月17日 05時00分00秒 | 義道
結婚前後

9年半ぶりに松林寺に帰ったのを手ぐすね引いて待っていたかのように、結婚しろの大合唱とともに見合い話が次々と舞い込んできた。本人がしたいかどうかではなく、結婚することがここに住む条件のように責め立てられて、言うままに何度か見合いをした。したいわけではないので相手に対しても誰が良いとか悪いとかあまり考えなかった。
それまでにおつきあいしていた人は学生時代からいた。ただ、永平寺に行き、山形の寺に帰る気持ちがだんだん固まってくると、田舎の寺の奥さんになる人かどうかという見方をしてしまい、難しいだろうと思ってしまった。
昭和59年(1984)の12月2日、叔父が持ってきた何度目かの見合いは松林寺でだった。仲人と叔父夫婦、それに相手とその母親と出稼ぎに行っている父親の代わりに従兄弟が同席した。顔を合わせた相手に別段の感情は湧かなかった。帰ってから母親は「どうだ」と言う。どうもこうも初めて会ったばかりでどうでもないと言うと、「男の方から仲人に返事をするのが礼儀だ。悪くなければいいということだ」と言う。すぐに仲人に電話で「本人が大変気にいっているのでどうか進めてください」と言っている。「見合いというのはそういうものだ」と押し切られてしまった。
「向こうの父親も帰ってくるというので、次は8日に相手宅で会うことにましょう」と、仲人により段取りが決められた。それで6日後の2回目の見合いというか顔合わせとなった。誰もが「本人同士の気持ちが大事」と言葉では言いながら、ここで決めようという空気が充満していて、「どうだ」と迫られる。この時点で、自分の気持ちより親や親戚や仲人の気持ちを汲もうというように心は動いてしまう。「分からない」というのは「悪くないということだ」と、親同士が「それじゃあ」と言って「旨い酒ということで」と結婚することが決まってしまった。
その場でカレンダーをめくり式場に問い合わせ、結婚式の日取りと会場、結納の日まで決められた。本人同士の意思などさほど問題ではなく、親同士と親戚、仲人でどんどん進められていくのだった。そして、60年(1985)4月13日に結婚した相手が十和子だ。
彼女は当時銀行勤めで、年末商戦で忙しくなかなか会う時間もなかった。結婚が決まってから改めて「これでいいのか」と迷いが膨らんだのだろう、忙しいということを理由に正月が明けてからも会うことを避けていた。
それでも結婚当日はやって来て、松林寺仏前で挙式した。その後も半年ほどはギクシャクしたブルーな時代があったが、以来36年夫婦として何とかやってこれた。1男2女もそれぞれ結婚し幸せそうに暮らしている。結果としてこれでよかったのだと思う。いや、そう思う以外ない。
自分の意思で結婚したりしなかったりするが、自分の意思だから幸せになれるとは限らない。本人の意思など無視されるような形で、周囲に促されそれに任せてしまうことで幸せになる場合もある。どんな形で一緒になったとしても、結婚というのは夫婦になるというゴールではなく、夫婦になっていくスタートなのだと振り返って思う。幸不幸はスタートで決定されるのではなく、幸せを感じるような生き方をするということなのだろう。

結婚も慌ただしかったが結婚後もなかなか忙しかった。2か月後の6月には松林寺の授戒会だった。その準備には事務仕事がたくさんあり、また毎日のように人が集まり日常が忙殺されていた。それがかえって結婚後のギクシャクを薄めてくれたかもしれない。授戒会とはキリスト教の洗礼式のようなもので、3日間にわたり僧侶60名戒弟360名が本堂を埋め尽くして、正式な仏教徒になる修行を行った。感動で涙を流す人も大勢いた。
また結婚と前後して、新庄英照院の留守番役を頼まれていた。授戒会が終わるとすぐに英照院勤務となった。さらには河北町宿用院の住職という依頼の話も来ていた。結果として、松林寺の副住職でありながら英照院の留守居役である監寺を務めさらに宿用院住職となるという、3カ寺の掛け持ちをするようなことになってしまった。
この間のことを時系列で整理すると、59年(1984)12月2日お見合い、8日2回目の顔合わせで旨い酒、20日結納、60年(1985)4月13日結婚、6月松林寺授戒会、終わって英照院の留守番、61年(1986)1月長男誕生、4月宿用院住職兼英照院監寺という目まぐるしい日程だった。



サンサンラジオ305 10年前

2021年03月14日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第305回。3月14日、日曜日。

大震災から10年の月日が流れました。
忘れないと思っている人も、忘れたくとも忘れられないという人も、共にあの日を振り返り手を合わせたと思います。
松林寺では、その時間に鐘を撞き、本堂で一人供養の経を読みました。
ぽかぽかと暖かい日でしたが、あの日もこんな暖かな日だったらよかったのになと思いました。
あの日私は松林寺に居ました。
ドイツから客人が来ていました。
静岡大学に留学していた学生でした。
どういう経緯で最上町だったのかよく覚えていませんが、何でも農業を学んでみたいといって、その当時ハウスで花の栽培をやっていた義兄のところに来ていたのでした。
せっかくだから日本の文化も学んだらということで、お寺に来たのでした。
三島由紀夫と椎名林檎が好きで日本語を学んだと言っていました。
坐禅を体験した後、習字をやってみようということになり、硯と筆と紙を並べました。
彼はイラン系で名前をプーヤと言いました。
日本に来てから、ある人が名前に漢字をあててくれました。
「風」の右肩に「○」を付けてプー、それに「矢」でプーヤ。
「じゃあそれを筆で書いてみよう」と書き始めました。
はじめて筆を持ち、一枚書きましたが「うまく書けない」。
もう一枚書いて「うまく書けた」と言ったところにグラグラと来ました。
地震のないドイツで育ったプーヤには初めて経験する大地の揺れでした。
190㎝もある大男が私にしがみついて「どうすればいいの」と震えるので、ニコニコしながら「大丈夫、すぐに収まるから」となだめていましたが、いつまでも揺れが収まらず大きくなっていくので、笑顔を取り繕っている余裕がなくなり、母親を伴って「外に出よう」と飛び出しました。
しばらく銀杏の木の根元で揺れが収まるのを待ち、庫裡に戻ってラジオをつけました。既に停電でテレビはダメでした。
寒かったので電気を使わないストーブを本堂から持ってきてそれを囲みました。寒さばかりでない理由で震えていました。
ラジオでは三陸沖を震源とする大きな地震があったこと、栗原で震度が7あったこと、津波の恐れがあることを繰り返し何度も何度も放送していました。
やがて間もなく津波が襲ってきたこととその甚大さを各地から伝えていましたが、何せラジオでは想像するにも限界があります。
宿用院に居るカミさんと子どもの無事を確認し、とにかくプーヤを何とかしなければならないと食料の確保とローソクなどを準備していました。
やがてニュースは福島第1原発での異常事態を報道し始めました。
それを知ったプーヤの母親がドイツから電話をよこします。
「何とかしてすぐに帰ってきなさい」と言っていると。
海外ではきっと、原発はもうダメで、放射能が拡散して日本は人が住めなくなるという情報だったのではないかと想像します。
母親の心配ももっともなことでした。
「そんなこと言っても帰れないよ」と彼は言っていました。
飛行機が飛んでいるのかいないのか、空港まで行く移動手段もないのですから。
一日半で電気は復旧し、映像で津波の様子を見て心が凍りました。
電話やメールも通じるようになり、いろんな情報が入ってくるようになりました。
シャンティボランティア会の動きも入って来て、被災地へ向かうという動向が見えてきました。
頭を叩かれたように「そうか被災地に行かなければ」と気づきました。
とりあえずは行くだけ行こうと、水とパンなど最低限手に入るものを車に詰めて、近所の青年小野君と二人で被災地へ向かったのは発災から4日後の3月15日のことです。
ガソリンが制限され、高速道路の通行も警察署の許可を得た車両のみに制限されていたので、関東方面から東北に向かう支援も福島県や宮城県の南部に集中していました。
幸い日本海側から太平洋側への東西のルートは規制がなく、なるべく北へ向かおうと気仙沼を目指しました。
県境を越え宮城県に入り、最も震度の大きかった付近を通りました。
ところが、阪神の震災の時のように軒並み建物が潰れている光景は見えませんでした。
「あれ、大丈夫なのか?」と胸をなでおろしながら、海が近づくと、景色は一変しました。
交通規制を避け、峠道を下ったその沢に、瓦礫が押し寄せていたのです。
海まではまだ遠く、山の中だというのに。「こんなところまで」と絶句しました。
ニュースは本当だったんだ、と瓦礫を見て津波が現実だと受け止めざるを得ませんでした。
気仙沼の清涼院さんと抱き合って無事を確かめ、そこから北へ北へと向かいました。
沿岸を走る国道45号線は入り江ごとに分断され、山道を迂回しながら大槌町吉里吉里まで行きました。
行けども行けども、津々浦々が被災地でした。
車の中では声も出なくなっていました。小野君と二人車の中で泣きながら走っていました。
何ができるのか、ジッと考えていました。
以来、被災地を走り回ってきましたが、今記録を読み返してみると、このブログでも「東日本大震災」のカテゴリーで132本も記事を書いていました。
あれは現実だったのかと、遠い昔のことのようにぼんやりした記憶になっています。
因みにプーヤは、初回の5日間被災地を回っている間に、何とかバスや電車を乗り継いで無事に静岡まで戻ったようでした。

これからも朝課で「被災地早期復興、原発事故早期終息、被災者各々身心安寧」を祈り、「東日本大震災被災物故者諸精霊」の菩提を供養し続けます。

2年前の記事もあわせてお読みください。

サンサンラジオ201 3.11の悲劇 - なあむ

♪゜・*:.。..。.:*・♪三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第201回。お相手は、いつもの...

サンサンラジオ201 3.11の悲劇 - なあむ

 


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。





義道 その9

2021年03月10日 05時00分00秒 | 義道
曹洞宗ボランティア会時代

「曹洞宗東南アジア難民救済会議」の活動を正式に引き継いだ「曹洞宗ボランティア会」は徐々に活動を開始していた。しかし、事務所に顔を出すのは難民キャンプボランティアあがりの学生と会計担当の若尾さんというおじいちゃんだけで、常在のスタッフはいなかった。そこで永平寺に「早く戻って来い」という連絡が入ることになったのだった。

昭和58年(1983)5月、松林寺には1か月もいないで東京事務所勤務となった。しかし、団体に職員を雇う金銭的な余裕はなかった。理事の駒込泰宗寺さんが「離れが空いているからそこに住んで時々寺を手伝って」という条件で、団体からは月に3万円の給与をもらうことになった。朝に本堂を開けて朝課に出てということでスタートしたのだが、五反田から駒込に帰るのは毎日終電ギリギリの時間だった。というのは、タイとは2時間の時差があるため、現地事務所との連絡はいつも夜になり、また当時事務局長の有馬実成さんは山口の寺に居て、そこから指示が来るのは夜の9時過ぎが多かった。
また、終電近くになりそろそろ帰ろうかと思っているところに現れるのが佐藤滋君だった。大学に行っているのかいないのか、それまで何をしているのか不明だが、夜中にバイクで事務所にやって来てはぼんやりタバコを吸って「三部さん帰ろう」と言う。バイクに二人乗りして寒い中を駒込まで帰った。それから泰宗寺の離れで酒を飲んで泊っていくのだった。そんなこともあり、次第に朝のお勤めは怠けてしまい、お寺の用事もおろそかにしてしまった。
貸し切りバスで静岡までミカン狩りの一泊旅行「カンボジア緑陰の集い」を行ったこともあった。日本に来てからほとんど顔を合わすことがなかったカンボジア人たちが思いっきり母国語で話ができることで、バスの中は大変な盛り上がりだった。富士の裾野で宿を提供してくれたお寺では、在日のカンボジア婦人がカンボジア料理を振舞ってとても喜んでくれた。
ワンフロア11.5畳の五反田の事務所は2年で手狭になり引越すことになった。次に借りた巣鴨の事務所もマンションの1室で、和室二つとダイニングキッチンだけでここもすぐに手狭になった。すると同じフロアの向かいの事務所が空いてそこに移り、さらに手狭になった頃に階下の会社が倒産してそこに移った。わらしべ長者のような事務所移転だった。私は巣鴨に引越しを済ませて間もなく、59年(1984)のお盆に山形に帰ることになった。大学、研修所、永平寺、そして東京のボランティア会事務所と、合わせて9年半山形を離れていた。父親の我慢も限界だった。次の年昭和60年(1985)6月に、松林寺では授戒会の大法要を控えていて、その準備で気をもんでいたのだった。

サンサンラジオ304 臨終の疑似体験

2021年03月07日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第304回。3月7日、日曜日。

町からコロナ・ワクチンの案内が来ました。
高齢者対象の先行接種のようです。
5月の誕生日で満65歳ですが、今年一線を越える人は全員がその対象のようです。
注射は痛いし、1回もインフルエンザ・ワクチンを接種したことがないので積極的に希望はしませんが、周りに迷惑をかけてもいけないので、希望するに〇をつけて返信しました。
晴れて?高齢者に認定されたことになります。めでたくもあり、めでたくもなし。
これからは、何をしても「高齢者」というくくりの中で呼ばれることになります。
そうか、年金もらえるのか。国民年金ですけど。
住職に退職金はないし厚生年金もありません。


確定申告をしました。
「え、坊さんも税金払ってるの?」と思った方、それは思い違いです。
税制上、住職は宗教法人から給与をもらうことになっています。
布施収入は宗教法人松林寺に入りますから、それは非課税で消費税もありません。
そこから住職が給与をもらう時に源泉徴収されます。
それと、松林寺以外からの収入、講演の謝礼などは別途申告しなければならないので確定申告となります。
もちろん町県民税、国民健康保険料も払っています。
ちゃんと普通に払うものは払っていますから「坊主丸儲け」などと言わないでください。
宗教法人が非課税なのは、法人所有の境内や伽藍といった宗教活動のためものが対象です。
今年度は講演がほとんどありませんでした。町内で3件あっただけです。
なので、収入はガクッと減っています。

昨日6日、松林寺で「お寺カフェ」が行われました。ハッピーサポーター推進協議会の主催です。
私の法話の時間があったので、それを利用して「臨終の疑似体験」というのをやってみました。
人は誰でも「生まれたら死ぬ」と分かっていながら、どこか他人事のように受け止めているのではないでしょうか。
実際に自分が死に臨んだ時、どんな心境になり何を考えるのかを体験してみることは決して無駄ではない思います。
それがその後の生き方に活かされると思うからです。
このような体験は「死の体験授業」や「死の体験旅行」などという名前で各地で行われています。
私も一度やってみたいと思っていたので、今回試させていただいたのでした。
医師に余命を宣告された自分が、臨終までのプロセスを物語で疑似体験します。
物語はオリジナルで作ってみました。
大切な人と大切な物を5つずつカードに書いてもらい、物語を読み進む中でそのカードを1枚、時には2枚と失っていきます。その選択に悩みます。
最後に残った大切なものは何か、その人あるいはその物に対して、最期にどんな思いを伝えるのか、という疑似体験のプログラムです。
終了後感想を聞くと、今回の参加者は一人を除いて全員が女性でしたので、最後に残ったカードは「夫」「子供」というのが多かったようです。
お1人は、家族は誰一人失いたくないので「捨ててください」と言われてもできませんでした、とその時の思いを語ってくれました。
途中で涙を流す参加者が何人かいて、いろんな思いに気づくきっかけになったと思います。
今後、今回のプログラムをもう少しブラッシュアップして、またやってみたいなと思います。

「もう3月だね」という言い方は、今年いっぱい生きるという予測を前提としたものでしょう。
時は、毎日毎日確実に過ぎ去っていきます。私たちの残りの人生も一日一日と短くなっています。
それが今年の中のいつか、ではないという保証はどこにもありません。
今日したいこと、今日すべきことは何か。
まずは、今日を精いっぱい生きましょう。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



義道 その8

2021年03月03日 05時00分00秒 | 義道
永平寺修行時代

永平寺の修行を目指す者は、春と秋の指定された期間に上山することになっている。春は2月中旬から4月初めまでの期間に希望日を申請して許可を待つ。昭和57年(1982)、私に来た許可は「3月12日上山」だった。決められた持ち物を準備し、蒲団と着替えなどを詰めた行李は先に永平寺に送っておく。前日の夕方までに門前の地蔵院に到着しなければならないので、10日に松林寺を発ち、父親と義兄も行ってみたいということで3人で芦原温泉に一泊した。次の朝、風呂場で父親が頭を剃ってくれた。父はそのつもりでいたらしい。それを受け入れることが修行に入る儀式としてふさわしいと思えた。この時に、親子の関係より師弟の関係が強く意識され、父子の確執も薄れていったように思う。
翌11日、地蔵院に一泊して荷物の点検と心構えが叩き込まれ、12日朝、永平寺山門の前に立ち木版を三打した。「どんなに厳しいといっても殺されることはないだろう」ぐらいの覚悟だった。

足が太くて短くて固い自分にとって、坐禅は苦痛の何ものでもなかった。しかも永平寺では「結跏趺坐(けっかふざ)」と言って両足を組むのでなければ坐禅とは認めない。「組めなければ足を縛れ」と言われ、腰ひもを右足首に結んで腿の下を通して左足を縛り上げた。足ばかりでなく頭の全体までキリキリと痛んだ。
朝の3時から夜9時まで坐禅三昧で、それが10日間続いた。その間何度も「帰れ!」と怒鳴られ引きずられ階段から転げ落された。帰るということは逃げるということだった。寺を出る時送り出してくれた家族や親戚、檀家の顔を思うと逃げることはできなかった。柱にしがみついて何とか耐えた。
その後の1年間については『やる気があるのか』に詳しく書いた。
今思えば慚愧の事柄もいくつかあるが、結果として和尚として生きていく自信はついたと思う。

その後の行脚は上山前からあこがれていたことだった。教化研修所の2年後輩になる渡辺さんは、年齢も大学も同期(らしい)なのだが、永平寺の修行を終えてから入所したので先輩後輩ということになった。その渡辺さんが、研修所内で福島の寺の寺報を書いていた。覗くと、永平寺から福島まで歩いて帰った記録だった。「そんなことがあるんだ」と驚いた。同時に自分も「やってみたい」と思った。行脚僧の姿にカッコイイとあこがれたのだった。
昭和58年(1983)3月17日永平寺を発ち、4月11日に松林寺に着いた。この時の経験は、永平寺1年間の修行と同等、あるいはそれ以上に大きかったかもしれない。

下りると決めた期日が近づくにつれ、「ここで下りていいんだろうか、ここで下りたら二度とここに入ることはできないだろう、もう1年居てもいいのではないか」と思うようになった。悩みながら行脚の準備を進めていた時、ボランティア会の仲間から、「歩いて帰るなどと悠長なことを言っていないで山門に車を横付けするから真っすぐ東京に来い」と連絡があった。東京の事務所を後にするとき、「1年したら戻ってくる」と約束していたのだ。東京の事務所の大変さも理解できた。でも「これだけはやらせて欲しい」と言って歩いたのだった。
そして、これも渡辺さんのマネをきっかけとして行脚の記録を寺報に書くこととなった。昭和58年(1983)から松林寺で『いちょう』を、昭和61年(1986)から宿用院で『なあむ』を月刊で出してきた。それをもとにして『やる気があるのか』『いちごいちご』『なあむ』を上梓できた。さらにそれが布教師の道へと進むきっかけとなり、また永平寺役寮へとつながっていった。