三ちゃんのサンデーサンライズ。第461回。令和6年3月31日、日曜日。
気仙沼の兄が行きたいというので肘折温泉に二泊。
雪が迎えてくれて肘折をらしく演出してくれました。
何もすることがなく、行くところもなく、風呂に入って、呑んで、寝る、の繰り返し。
寝すぎてかえって腰が痛くなったほど。
65を過ぎたら睡眠時間を8時間以上とってはいけないとテレビで言っていた、とカミさんの情報ですが、本当かもしれません。
寝疲れるということが確かにあるように感じます。
記憶は要らないという話はこれまで何度か書いてきました。
私の過去は思い出したくないことばかりなので、消し去りたいといつも思っています。
それでも、何かの拍子にフッと浮かび上がって来て嫌ーな気持ちになります。
そんな時は、浮かび上がってくる途中で頭を振って振り払います。これが意外と効果あるんですよ。
キャッチする前にリリースする感じです。
嫌な記憶は全て自分の言動です。あの時のあの言いぶり、あの態度、あの思い。慚愧と羞恥の記憶です。
思い出したくもないし、思い出されたくもない。
自分だけが覚えていて誰も覚えていないこともあれば、自分は忘れているのに誰かが覚えているということもあるでしょう。怖いのは後者です。
自分が覚えていれば反省も謝罪もできましょうが、自分が覚えていないことで相手に嫌な思いをさせてしまったことは反省すらもできません。何事もなかったように平気な顔で接してしまいます。
例えるならば、空ののし袋を渡してそれに気づかずに平気で接するようなものです。
相手は、「なんだこの人」と思うでしょう。
相手にどう思われようと、気づかないのであればどうしようもないことです。
問題はそうではなくて、嫌な記憶を思い出す自分の時間です。
嫌なことを思い出している時、その時間、記憶に気持ちが奪われて、その時を生きていない、それが問題なのです。
記憶を思い出すことで今の時間を奪われている。更には、嫌な自分を振り返ることで自己嫌悪に陥って今の自分を肯定することができない。
だから、今をしっかりと前を向いて生きられず、更に後悔するような行動をとってしまう。それが悪循環となるのです。
大丈夫、救いはあります。
我々には、今日、今しか生きることができないのですから、過去は過去として今をどう生きるか、そこに集中するしかありません。
今の今まで自己嫌悪でいた自分も、「記憶を捨てる」と転換したとき、過去は過去のまま置いておいて、今を見ることができるようになります。
それでいいのです。
記憶も、反省も、後悔も要りません。
「あの人、自分がしたこと忘れたのかしら」と後ろ指を指されても、今日をしっかり生きることでしか周囲の批判を覆すことはできないのですから、まずは今を生きるしかないのです。
明日があろうがなかろうが構いません。
例え今日が最期の一日だとしても、「今日しっかり生きた」と思えたら、今日に満足して死ぬことができます。
どんなに恥ずかしい生き方をしてきたとしても、最期の一日は立派だったと周囲に思われるかもしれませんし、否、誰にどう思われようと、自分で自分をこれでよかったと肯定できるなら、自分を許すこともできるでしょう。
気仙沼の兄、清凉院住職はそういう点で私と同じ生き方の人です。そこがシンパシーを感じるところです。
最近は顔も似てきたらしく「本当の兄弟ではないんですか?」と逆に言われたりします。
人はみんな、不思議なご縁で今を生きています。
ただ、縁ばかりではありません。そこには選択が絡んでいます。
ご縁の中から、自分に心地いい状況を選択しているのです。縁と選択、それが人生をつくっています。
さて、今日はどんなご縁の中からどんな選択をしていきましょうか。ドキドキワクワク。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。