なあむ

やどかり和尚の考えたこと

体にいいこと悪いこと

2012年09月21日 20時56分32秒 | ふと、考えた

女というものは。

二言目には「体にいい」「体に悪い」とおっしゃる。

体のどこにいいとか、何に効果があるとかはあまりどうでもいいらしい。

とにかく体にいいというものは善であり、わるいというものは悪らしい。当然といえば当然の話だが、物事の善悪、判断基準がすべてここにある、というのが女というもののようだ。

それは、本能的にあるいは根源的に女としての存在意義なのだと思う。

命を引き継ぎ、その命を次につなげていく、つまり、命の存続が、女としての最大無二の命題なのだと思うからだ。

何しろ、女は命を産み育てる機能を具有している。ここが男との決定的な違いだ。

対して男というものは。

命の他に大切なものを持ち合わせてしまう動物なのだろう。

体にいいことよりも大事なもの、体に悪いとわかっていながらそれでもやらなければならないこと、したいことを見つけてしまう性質なのだと思う。

胎盤を持つ女には考えられない、信じられない価値観が、男としての存在意義というものでしょう。

「男」かどうかの見極めはそこにあるのかもしれない。

元々男は、染色体からして不完全であり、命を産むことは絶対にできない。

男がいなくても女は生きていけるが、女がいなければ男は生きる意味を失ってしまうだろう。

女性蔑視と誤解なきようお願いしたいが、存在の優劣を述べているのではなく、男女の根源的な違いについて感じていることを述べたに過ぎない。

もちろん、命より大事なものを持ってしまう女もいれば、命よりも大事なものを見いださない男もいるだろう。だからといってそれを否定するものでもない。

しかし、男と生まれてきたからには、体にいいことよりも大事なことを追い求めたいと、私は思う。

たとえそのために人生が多少短くなったとしても、追い求めずに命を延ばすことよりも価値があると、私は思う。

戯れ言です。聞き流してください。2011yuko15_3


大震災132 変わらない苦痛

2012年09月20日 20時43分01秒 | 東日本大震災

暗いニュースばかり続くと気が滅入ってしまうので、マスコミも明るい話題を探して報道します。

被災地の中にも明るい話題はあるわけですが、そればかりが表に出るとそれが全体の様子かと誤解されてしまうことにもなります。<o:p></o:p>

ニュースというものは、その言葉通り、常に新しい出来事を求めていく性質を持っています。<o:p></o:p>

1年半経っても変わらないものは全く変わりなく、困難なものは困難なままなのですが、あるいは、時間が経つにしたがってかえって更に困難な状況は増していくのに、変わらないものは報道されないという宿命にあります。<o:p></o:p>

その変わらない困難の中で、明るい話題だけがクローズアップされると、光と影のごとく、陰は益々暗く感じてしまいます。<o:p></o:p>

報道だけで被災地の状況を理解するのは無理があります。変わらない事柄にこそ困難は潜んでいるからです。つまり、切り取られた一瞬の風景ではなく、時間の経過の中にある問題を理解しなければ困難を肌で感じることはできないということです。<o:p></o:p>

たとえば、あの日のまま放置された田畑を見続けることが農家にとってどれほどの苦痛であるか。

福島の自然の中にありながら、自然と共に生きられないという生活がどれほどストレスになるか。

一枚の写真から時間による心の積み重ねを見通すことは難しいことです。<o:p></o:p>

時間の経過の中で積み重ねてきた苦痛を理解するには、やはり現地に行く、あるいはその人々の話を聞くという以外にないでしょう。

人は、人との関わりの中でしか生きられない存在であるならば、他の喜びをどれほど共感できるか、それ以外に、生きる喜びを見いだす術はありません。

喜びを共感するためには、悲しみも共感しないわけにはいきません。

むしろ、共に感じた悲しみから共に乗り越えた時にこそ、喜びの共感は生まれるものだといえるでしょう。

残り少ない命、被災地と共に生きていきたいと思います。

これほどのとてつもない災害の隣で生きているということは、この命を被災地のために使えという使命だと受けとめています。

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福島の旅

2012年09月11日 12時48分06秒 | ふと、考えた

一昨日昨日と、松林寺宿用院の檀信徒総勢25名で福島の旅に行ってきました。

普通に観光し、温泉に入りお酒を飲みご馳走を食べ買い物することが、福島の支縁になる、という思いから企画しました。

松林寺では、思ったほど参加者が集まらなかったため同級生の動員をかけた結果、大変賑やかで(過ぎ?)楽しい旅となりました。

また、両寺の交流にもなったと喜んでいます。

大内宿、末廣酒造、母畑温泉八幡屋、アンナガーデン、片岡鶴太郎美術庭園と名所巡りをし、福島市の長秀院さんで渡部祥文師のお話しを聴きました。

震災直後から原発事故後の生々しいお話、そして現状の問題、将来に対する困難な予想と、現地でなければ感じられない「空気」を肌で感じてきました。

渡辺師も話していました。「その場に行ってみないと分からないことがたくさんある」。

今後も被災地、特にも福島とつながっていくために、多くの皆さんに何度も出かけていただきたいと願います。

お土産物屋の方が話していました。「どこから来たの、山形から、山形の皆さんは本当に一生懸命支援してくれたよね、山形に何かあったらすぐに飛んで行くからね」。

これが「支縁」ですよね。

帰りには福島産の桃をたくさんお土産に買ってきました。

渡辺師曰く「福島の人は放射能汚染に一番敏感ですから、福島の産品は世界一安全だと言えます」。

福島の産品を選んで避けるのと選んで買うのとでは2倍の差になります。買い物でもできる支縁。是非お願いします。

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膝枕

2012年09月04日 18時59分12秒 | ふと、考えた

唐突に、膝枕。

「膝枕」とは言いますが、枕にしているあそこは膝ではない。どちらかと言えば腿。

本当に膝を枕にしたのでは具合が悪いでしょう。

腿なのになぜ「膝枕」と言うか、という話。

他人の脚、腿の部分に頭を置いてゴロゴロしてきたのは猿の時代からかどうかは知らない。

しかし、それを「膝枕」と命名したのはそれほど古いことではないのではないか。近世?おそらくは男性。

想像してみるに、正座をした和服のご婦人の「腿」の部分に頭をつけた殿方。少し酔いも回って温かく柔らかくほのかな香りも心地いい。その殿方の目に映っていたのは、「膝」。膝頭を撫でたかどうかは別にして、その丸みを帯びた脚の途中の屈折する部分は、腿の側から見るとなんとも愛おしく見えたに違いない。笑うと震えるお腹の振動が後頭部に触れるのもいい。かんざしか何かで耳なぞをほじくられながら、得も言われぬくすぐったい快感を覚えたことでしょう。

その快感は、唯一目に映る「膝」として脳裏に刻まれたのではないか。

もうそれは「膝枕」と呼ばれても致し方ないと、受けとめざるを得ません。

・・・たかだか膝枕ぐらいでそんな大げさな、というご批判はご尤もです。

でもですね、あの何とも言えない距離感は、男にとっても女にとっても不思議な感情をもたらすものと思えるのです。大人も子どもも。

世の中には、「膝枕、耳かき」という商売もあるらしい。さらに、膝枕のためだけの人形もあるそうな。うーん、微妙。24013000164