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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
8月26日、日曜日です。
最近、話したい書きたい気持ちが募ってます。
もしかして、死期が近いのか、単なるいつもの思いつきなのか。
自覚症状はありませんが。まあ、その時はそうなったで、「そういえば最近ずいぶん語っていたね」と思ってくれればいいです。
頭燃を払うように、語りたいときには語らしてもらいましょう。
修証義講話の準備をしていて懺悔について少し考えました。
もともと「懺悔」という言葉は仏教が中国に渡ってできた言葉です。インドのサンマという音を漢字にあてて「懺摩」としました。その意味が「過去の過ちを悔い改める」ということで漢訳すれば「悔過」になります。
そして、音の懺摩の「懺」と意味の悔過の「悔」を合わせて「懺悔」の文字ができました。
ですから、これはあくまで「ザンゲ」と濁らずに、「サンゲ」と読むべきです。
キリスト教が日本に入って来て、その意味にそのまま「懺悔」の言葉をあてたのでしょう。
その時からかどうかは定かではありませんが、いつの間にか「ザンゲ」の読み方が一般的となり、パソコンの変換で「ザンゲ」でないとこの文字が出てきません。残念なことです。
それはどうでもいいのですが。
「懺悔」の文字が日本全国に翻ったったのは、終戦直後の「一億総懺悔」という標語でしょう。
これは戦争責任を国民に押しつけるもので、結局誰も責任をとらない体質の最悪の事例です。
しかも、この言葉を使った当時の東久邇宮首相の「懺悔」の内容は、「敗戦を天皇陛下に謝罪しよう」という呼びかけでした。
開戦も終戦も天皇を利用し、政治家も軍部も責任をとらないまま今日まで来てしまいました。
平成天皇陛下が在位中、積極的に激戦地を訪ねて慰霊を行ったり、終戦記念日に「深い反省」を述べられたり、多くの被災地に足を運ばれたりするのも、昭和天皇から背負った贖罪で国民に懺悔されてきたのではなかったかと思うところです。
当に懺悔は、自らの心からにじみ出るもので、誰かに強制したりさせられたりするものではありません。
平成天皇の行動を見るとき、日本人の代表として首相より上の存在があることに救いを感じたりします。
在位最後のお言葉として、日本人のあり方を一言諫言していただいたらいいのに、と思います。
それに比べて。
福島第一原発事故の責任は一体誰がとるのでしょうか。
津波が想定されていなかったわけではありません。
津波の到達予想の高さを、経済的な側からの算出で想定していたにすぎません。
その責任は誰にあるのでしょうか。
自然には勝てないなどと言って、責任を自然のせいにすることも目くらましです。
地震と津波の規模が想定できなかったとしても、しているのですが、原発は人間が作ったものです。「絶対安全」と嘯くなら、こんな大事故になる津波を想定できなかった責任は誰にあるのでしょうか。
よもや、これも国民に押しつけて「一億総懺悔」しようなどと言うつもりではないですよね。賠償金を電気料金に付加しているのであれば結局そういうことか。
明確な責任をとらずにうやむやの中で意識が薄れていくのを待つ、それがこの国民の特徴のようですね。
でも、外国のように、元大統領であろうが悪いとなれば徹底的につぶすというやり方に、何となく違和感を感じたりするのは、責任問題をうやむやにしても仕方がないと思っている、日本人的な心の現われなのでしょうか。
うやむやに言葉にしない文化が「忖度」を生みました。国の不祥事も結局はうやむやのまま。
それはもしかして、日本国民の宗教観と関わりがあるのか、と思います。
絶対神を立てずに八百万の神をあがめ、ありがたい存在であれば神でも仏でも無条件にとりあえず手を合わす。
心が広いというか、和を以て貴しとなすというか、節操がないというか。
でもそれは、最後はトップがハラを切り自ら責任をとるということが暗黙の了解として約束されていたからではないですか。
そういう侍的な精神構造なしに責任をうやむやにすることは、この国をダメにしてしまうように思われてなりません。
懺悔がなければ、いくらリセットしても同じ過ちを繰り返すばかりです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
8月26日、日曜日です。
最近、話したい書きたい気持ちが募ってます。
もしかして、死期が近いのか、単なるいつもの思いつきなのか。
自覚症状はありませんが。まあ、その時はそうなったで、「そういえば最近ずいぶん語っていたね」と思ってくれればいいです。
頭燃を払うように、語りたいときには語らしてもらいましょう。
修証義講話の準備をしていて懺悔について少し考えました。
もともと「懺悔」という言葉は仏教が中国に渡ってできた言葉です。インドのサンマという音を漢字にあてて「懺摩」としました。その意味が「過去の過ちを悔い改める」ということで漢訳すれば「悔過」になります。
そして、音の懺摩の「懺」と意味の悔過の「悔」を合わせて「懺悔」の文字ができました。
ですから、これはあくまで「ザンゲ」と濁らずに、「サンゲ」と読むべきです。
キリスト教が日本に入って来て、その意味にそのまま「懺悔」の言葉をあてたのでしょう。
その時からかどうかは定かではありませんが、いつの間にか「ザンゲ」の読み方が一般的となり、パソコンの変換で「ザンゲ」でないとこの文字が出てきません。残念なことです。
それはどうでもいいのですが。
「懺悔」の文字が日本全国に翻ったったのは、終戦直後の「一億総懺悔」という標語でしょう。
これは戦争責任を国民に押しつけるもので、結局誰も責任をとらない体質の最悪の事例です。
しかも、この言葉を使った当時の東久邇宮首相の「懺悔」の内容は、「敗戦を天皇陛下に謝罪しよう」という呼びかけでした。
開戦も終戦も天皇を利用し、政治家も軍部も責任をとらないまま今日まで来てしまいました。
平成天皇陛下が在位中、積極的に激戦地を訪ねて慰霊を行ったり、終戦記念日に「深い反省」を述べられたり、多くの被災地に足を運ばれたりするのも、昭和天皇から背負った贖罪で国民に懺悔されてきたのではなかったかと思うところです。
当に懺悔は、自らの心からにじみ出るもので、誰かに強制したりさせられたりするものではありません。
平成天皇の行動を見るとき、日本人の代表として首相より上の存在があることに救いを感じたりします。
在位最後のお言葉として、日本人のあり方を一言諫言していただいたらいいのに、と思います。
それに比べて。
福島第一原発事故の責任は一体誰がとるのでしょうか。
津波が想定されていなかったわけではありません。
津波の到達予想の高さを、経済的な側からの算出で想定していたにすぎません。
その責任は誰にあるのでしょうか。
自然には勝てないなどと言って、責任を自然のせいにすることも目くらましです。
地震と津波の規模が想定できなかったとしても、しているのですが、原発は人間が作ったものです。「絶対安全」と嘯くなら、こんな大事故になる津波を想定できなかった責任は誰にあるのでしょうか。
よもや、これも国民に押しつけて「一億総懺悔」しようなどと言うつもりではないですよね。賠償金を電気料金に付加しているのであれば結局そういうことか。
明確な責任をとらずにうやむやの中で意識が薄れていくのを待つ、それがこの国民の特徴のようですね。
でも、外国のように、元大統領であろうが悪いとなれば徹底的につぶすというやり方に、何となく違和感を感じたりするのは、責任問題をうやむやにしても仕方がないと思っている、日本人的な心の現われなのでしょうか。
うやむやに言葉にしない文化が「忖度」を生みました。国の不祥事も結局はうやむやのまま。
それはもしかして、日本国民の宗教観と関わりがあるのか、と思います。
絶対神を立てずに八百万の神をあがめ、ありがたい存在であれば神でも仏でも無条件にとりあえず手を合わす。
心が広いというか、和を以て貴しとなすというか、節操がないというか。
でもそれは、最後はトップがハラを切り自ら責任をとるということが暗黙の了解として約束されていたからではないですか。
そういう侍的な精神構造なしに責任をうやむやにすることは、この国をダメにしてしまうように思われてなりません。
懺悔がなければ、いくらリセットしても同じ過ちを繰り返すばかりです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。