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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第238回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
11月24日、日曜日。
ボン ヂーア!おはようございます。
ブラジル、サンパウロからお送りします。
現在こちらは23日の夕方5時です。
20日成田から飛び立ち、メキシコシティまで12時間。そこで時間調整が6時間。
さらにそこから9時間45分、ようやくサンパウロに着きました。
実に遠い移動でした。
時差はちょうど12時間。つまり日本の真裏なのです。
リオデジャネイロオリンピックの閉会式で、安部マリオが土管から現れたのはそういう意味でしたね。
時差が12時間ということは、こちらが夕方5時の時、日本では次の日の朝5時だということです。
分かりやすいといえば分かりやすいのですが、テレビでNHKの放送をみたりすると、夜なのか朝なのか分からなくなってしまうようでした。
今回は特派布教の海外巡回なのですが、南米開教60周年という記念行事の一環という意味もあります。
22・23・24日と、3日間に及ぶ大法要です。
日本から、両大本山はじめ関係の和尚さん方約60名、北米南米の国際布教師さん方も参列されて総勢70名ほどの和尚さんが集まります。
さらには、その後パラグアイに移動して、パラグアイ初で唯一の仏教寺院である拓恩寺の晋山式、新住職の就任式が25・26日の2日に亘って行われます。
その後ブラジルに戻って、坐禅を中心に活動する寺院二ケ寺で坐禅の話をする予定です。
ブラジルには今から111年前の明治41年以来13万人の日本人が移民し、その子孫である日系人は200万人ほどといわれる世界最大の日系人国です。
移民当初の環境はかなり厳しく、多くの方が苦労の末亡くなっています。
こちらに着いてから立ち寄った日本食堂「美松」の女将が話しかけてこられ、「60年前、2歳の時に親に連れられてやって来た。だから日本語は少し話はできるけど読み書きはできない。移民当初は奴隷と同じだった。足枷をしていないだけ」と教えてくれました。
アメリカ大陸がヨーロッパ人に発見されてから、大航海時代に各国が競争するように領土を広げていきました。
南米は、当初北米ほどには重要視されなかったようですが、スペインとポルトガルが勝手に領土を分割し、それぞれの土地に合った開発を進めていきました。
ポルトガル領のブラジルでは、初めは染料のための「赤い木」を売り、サトウキビや綿花、そしてコーヒーを栽培して発展していきました。その労働力として「輸入」されたのがアフリカの奴隷だったのです。
その後奴隷の売買が禁止され、その代わりの労働力として入植したのがヨーロッパやアジアの人々でした。
日本側で移民を誘う謳い文句には、安定した収入が得られるなどの夢が語られましたが、実際に渡ってみると、雇い主にとっては奴隷に代わる労働力でしかありませんでした。
食料も乏しく衛生的にも劣悪で、当初はトイレもなかったようです。きれい好きな日本人にとっては精神的に厳しかったでしょう。
雇用条件をめぐって雇い主との争いがあったり、逃亡しないように銃で見張られていたりと、まさに奴隷と変わらない境遇のスタートが移民の歴史でした。
それでも勤勉で正直な日本人は次第に信頼を獲得していきました。
移民収容所を取材した当時の現地新聞記者は「説明会が終わり、日本人が立ち去った部屋にはごみ一つ唾一つ落ちていなかった」と感嘆の記事を書いています。
そんな苦労を重ねた移民先祖に対する日系人の供養の心は深く、お寺への信心も厚いのです。
60年前にこの地に派遣された曹洞宗の開教師たちは、そんな移民の方々のそばに寄り添い、苦労を共にし、悲しみ喜びを分かち合ってこられました。
そのお一人に、シャンティ国際ボランティア会初代会長、松永然道老師がいらっしゃいます。
2年前に老師が亡くなられた際、本葬に合わせて、同時にブラジルに派遣された桒原老師から追悼の手紙が送られました。
それはこんな内容でした。
-
3人の若者が、駒澤大学の校歌と応援歌に送られて、色とりどりのテープが舞う中、見送りの家族や友人に手を振りながら、ブラジルやアルゼンチンに移民する人々と共に移民船ブラジル丸で横浜港を後にしたのが1959年10月4日のことでした。
移民としてパスポートの職業は農業、所持金は5ドルまで、幾度かの問い合わせにも、南米総監部からの返事がなく、まったく事情が分からないままの出発でした。現地について分かったのですが、仔細が分かったら来なくなるだろうとのことでした。
薄い板一枚の掘立小屋のような開教所に住まい、よく効くともらった下痢止めの薬を飲んだ水は、水槽のヘリをたたいてボーフラを沈めて掬った水だったり、白いワイシャツが砂ぼこりで赤く染まり、ドラム缶の五衛門風呂の水が肌にしみ込んだ赤土で赤い水になったりでした。
電気のない中、大きなシーツを木の間にかけて、ジープのエンジンで幻灯機で道元禅師物語を語れば、気がつくとたくさんの人に囲まれて、日本語が分からないコーヒー園の人たちも大喜び。すべてが驚きの連続。カルチャーショックというより、人間の生きる姿の力強さに圧倒されての開教の開始でしたね。
当時のブラジル移民の実情はひどいもので、その中を生き抜いて、人々に憩いの場を与えてくれた功績は、今のブラジル布教の大きな土台となっていることを知るべきでしょう。
-
本日そんな話をさせていただきました。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。来週もブラジルからお送りします。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第238回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
11月24日、日曜日。
ボン ヂーア!おはようございます。
ブラジル、サンパウロからお送りします。
現在こちらは23日の夕方5時です。
20日成田から飛び立ち、メキシコシティまで12時間。そこで時間調整が6時間。
さらにそこから9時間45分、ようやくサンパウロに着きました。
実に遠い移動でした。
時差はちょうど12時間。つまり日本の真裏なのです。
リオデジャネイロオリンピックの閉会式で、安部マリオが土管から現れたのはそういう意味でしたね。
時差が12時間ということは、こちらが夕方5時の時、日本では次の日の朝5時だということです。
分かりやすいといえば分かりやすいのですが、テレビでNHKの放送をみたりすると、夜なのか朝なのか分からなくなってしまうようでした。
今回は特派布教の海外巡回なのですが、南米開教60周年という記念行事の一環という意味もあります。
22・23・24日と、3日間に及ぶ大法要です。
日本から、両大本山はじめ関係の和尚さん方約60名、北米南米の国際布教師さん方も参列されて総勢70名ほどの和尚さんが集まります。
さらには、その後パラグアイに移動して、パラグアイ初で唯一の仏教寺院である拓恩寺の晋山式、新住職の就任式が25・26日の2日に亘って行われます。
その後ブラジルに戻って、坐禅を中心に活動する寺院二ケ寺で坐禅の話をする予定です。
ブラジルには今から111年前の明治41年以来13万人の日本人が移民し、その子孫である日系人は200万人ほどといわれる世界最大の日系人国です。
移民当初の環境はかなり厳しく、多くの方が苦労の末亡くなっています。
こちらに着いてから立ち寄った日本食堂「美松」の女将が話しかけてこられ、「60年前、2歳の時に親に連れられてやって来た。だから日本語は少し話はできるけど読み書きはできない。移民当初は奴隷と同じだった。足枷をしていないだけ」と教えてくれました。
アメリカ大陸がヨーロッパ人に発見されてから、大航海時代に各国が競争するように領土を広げていきました。
南米は、当初北米ほどには重要視されなかったようですが、スペインとポルトガルが勝手に領土を分割し、それぞれの土地に合った開発を進めていきました。
ポルトガル領のブラジルでは、初めは染料のための「赤い木」を売り、サトウキビや綿花、そしてコーヒーを栽培して発展していきました。その労働力として「輸入」されたのがアフリカの奴隷だったのです。
その後奴隷の売買が禁止され、その代わりの労働力として入植したのがヨーロッパやアジアの人々でした。
日本側で移民を誘う謳い文句には、安定した収入が得られるなどの夢が語られましたが、実際に渡ってみると、雇い主にとっては奴隷に代わる労働力でしかありませんでした。
食料も乏しく衛生的にも劣悪で、当初はトイレもなかったようです。きれい好きな日本人にとっては精神的に厳しかったでしょう。
雇用条件をめぐって雇い主との争いがあったり、逃亡しないように銃で見張られていたりと、まさに奴隷と変わらない境遇のスタートが移民の歴史でした。
それでも勤勉で正直な日本人は次第に信頼を獲得していきました。
移民収容所を取材した当時の現地新聞記者は「説明会が終わり、日本人が立ち去った部屋にはごみ一つ唾一つ落ちていなかった」と感嘆の記事を書いています。
そんな苦労を重ねた移民先祖に対する日系人の供養の心は深く、お寺への信心も厚いのです。
60年前にこの地に派遣された曹洞宗の開教師たちは、そんな移民の方々のそばに寄り添い、苦労を共にし、悲しみ喜びを分かち合ってこられました。
そのお一人に、シャンティ国際ボランティア会初代会長、松永然道老師がいらっしゃいます。
2年前に老師が亡くなられた際、本葬に合わせて、同時にブラジルに派遣された桒原老師から追悼の手紙が送られました。
それはこんな内容でした。
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3人の若者が、駒澤大学の校歌と応援歌に送られて、色とりどりのテープが舞う中、見送りの家族や友人に手を振りながら、ブラジルやアルゼンチンに移民する人々と共に移民船ブラジル丸で横浜港を後にしたのが1959年10月4日のことでした。
移民としてパスポートの職業は農業、所持金は5ドルまで、幾度かの問い合わせにも、南米総監部からの返事がなく、まったく事情が分からないままの出発でした。現地について分かったのですが、仔細が分かったら来なくなるだろうとのことでした。
薄い板一枚の掘立小屋のような開教所に住まい、よく効くともらった下痢止めの薬を飲んだ水は、水槽のヘリをたたいてボーフラを沈めて掬った水だったり、白いワイシャツが砂ぼこりで赤く染まり、ドラム缶の五衛門風呂の水が肌にしみ込んだ赤土で赤い水になったりでした。
電気のない中、大きなシーツを木の間にかけて、ジープのエンジンで幻灯機で道元禅師物語を語れば、気がつくとたくさんの人に囲まれて、日本語が分からないコーヒー園の人たちも大喜び。すべてが驚きの連続。カルチャーショックというより、人間の生きる姿の力強さに圧倒されての開教の開始でしたね。
当時のブラジル移民の実情はひどいもので、その中を生き抜いて、人々に憩いの場を与えてくれた功績は、今のブラジル布教の大きな土台となっていることを知るべきでしょう。
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本日そんな話をさせていただきました。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。来週もブラジルからお送りします。