なあむ

やどかり和尚の考えたこと

人と人を結ぶ音

2012年08月24日 16時15分02秒 | ふと、考えた

Yamagatagaku
明日は山形市遊学館で「山形学」なるものがあります。今回はその中の、「音学(おとがく)やまがた」の第3回講座で、テーマは「市民活動と音学」。

その講師の一人として招かれています。

何故そうなったのかと言えば、「歌によって人と人とを結び、願いや希望を届けている方々のお話を伺います」という内容から、まけないタオルの歌が被災者を勇気づけている、ということが目にとまったのだと思います。

話の内容はパネル形式ですので、コーディネーターにお任せで、タオルと歌のお届けツアーの話をすればいいかと思っています。

まあ、タオルのお陰で色々なところへ引っ張り出されて貴重な体験をさせてもらっています。

そして、その講座の修了後は、気仙沼清涼院さんの地蔵盆祭りへ。私と清涼院さまをつなぐきっかけになった祭りです。何としても顔を出さなければなりません。

今年のゲストは、やなせななさんです。早坂文明さんも合流することになっていて、今年3回目のチーム21世紀文明会合です。

確かに、歌が人と人とを結びつけて、願いや希望を届けていることに違いはありません。


最上川カヌー探訪

2012年08月18日 21時11分05秒 | 地球環境

7月28・29日に行われた「第1回最上川カヌー探訪」の写真を紹介します。

私がカヌーを始めたきっかけは二つ。

一つは息子の影響で、高校時代カヌー部に入っていた息子は国体で2位にもなりました。親子体験というイベントで月山湖で初めて乗ってみてそのワクワク感を知りました。

もう一つは、環境からの視点で、山形の大河最上川の自然環境を知るには、カヌーで下るのが一番だという考えから、今から10年近く前にマイカヌーを購入したのでした。

これまでは一人で河北町内の最上川をパチャパチャ遊んでいただけなのですが、いつかは最上川を下ってみたいと思っていました。

朝日町のNPO「ブナの森」の今回の企画を知り、参加を申込みました。

無謀でした。あまりにもカヌーと最上川を甘く見ていました。

一日目でホトホト疲れて、二日目はどうしようかと考えながら早々に眠りにつくと、明早朝叔父危篤の連絡が入り、救われたかっこうになりました。

写真を見ると、二日目のコースには難所も多く、自分には無理だったと知りました。

もう少し穏やかなコースがあればまた参加したいと思っています。

一日目

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二日目

No2 18 25


僧力

2012年08月17日 21時23分55秒 | ふと、考えた

巷では「女子力」なる言葉が話題なそうな。

料理、洗濯、掃除や整理整頓などの能力、女性としての魅力、母性、やさしさなども含まれる「らしさ」を指すのでしょう。

お坊さんに置き換えて、「僧力」とすれば、それはどんな内容を指すでしょうか。

読む、書く、話す、能力は当然入るでしょうね。

お経をありがたく読むことができる。私の師父などは今だに「お経の読み声がよかった」と多くの方から懐かしがられています。

筆字を上手に書くことができる。これも師父は「位牌や塔婆の字はみんなが拝むのだから丁寧に書け」と言っていたものでした。

話すは、法話ですね。読経の後に何か一言話すことによって、檀信徒の信心を育てることになります。

この、読む、書く、話すがちゃんとできれば、お坊さんとしてそれほど批判されることはない、と教えてくれた老師がおりました。

こうした能力以外に、僧力としてあげるとすれば、態度、姿勢、雰囲気、人相などもあげられるかもしれません。

お坊さんから見ても、お坊さんらしい雰囲気の人というのがあります。

特に禅宗であれば、坐禅を基本とした背筋がピシッと伸びている人は雰囲気があると思います。

逆に、厳しさは感じられず、丸く暖かい雰囲気を醸し出す人。こちらも、居るだけで人を安心させるというお坊さんとしては大事な要素だと思います。

一番お坊さんとしてそぐわないのは、雰囲気に貪欲さが感じられることでしょうか。

だとすれば、欲が少ないというのも僧力になるかもしれません。

それから、人の痛みを想像できる共感力。争いを好まない静けさ。時流に流されない信念。仏の教えを理解する智慧。人の苦しみを放っておけない慈悲。などが僧力としてあげられるでしょう。

生まれつきの性格や人相というのもあるかもしれません。そして、お坊さんとして生きる、という覚悟。理想とするお坊さんとの道交の中で導かれる「薫習」など、僧力をつける方法もあります。

ひとりひとりのお坊さんの「僧力アップ」が世界を正しい方向に導くことになると信じています。

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見捨てられる

2012年08月14日 07時59分26秒 | ふと、考えた

人間にとって一番寂しいことは見捨てられること、あるいは見捨てられたと感じてしまうことでしょう。

病院や施設にいる老人にとって、家族の来訪がだんだん減っていく、しばらく誰も訪ねてくれなくなる、「自分はもう家族から見捨てられてしまった」と思うとき、寂しさは極致になるのではないか。

いじめを受けている子どもが絶望してしまうのは、いじめの暴力そのものだけではなく、いじめられていることを知りながら、同級生や先生が見て見ぬ振りをする。誰も感心を寄せてくれない。何事も起きていないような無邪気な笑い声が聞こえる。そんなとき、「自分は見捨てられてしまった」と感じるのではないか。それが最もつらい絶望の瞬間なのではないか。

震災で注目を浴びていた被災地がどんどん忘れ去られていき、小さな集落や仮設住宅には誰も来てくれないというところもあるのだろう。問題は何も解決されず、さらに複雑に深刻になってきているのに、被災から免れた人々の視線が次第に冷ややかになっていくのを感じる。あの暖かな眼差しや言葉は何だったのか。そう思うとき、置いてきぼりにされる不安が迫ってくるのではないか。

原発が再稼働したり、そのニュースも忘れ去られたり、県外に避難している人が福島出身であることを語れなかったり、被害者でありながら長期化することによって非難の対象になったり。福島そのものが日本国から切り離されてしまうような不信感がつのるとき。

見捨てられた、と感じる寂しさは絶望に変わっていくでしょう。

オリンピックのお祭り騒ぎが華やかであるほど、相対的に寂しさを増していた人もいたに違いありません。

マザーテレサの言葉、「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、『自分は誰からも必要とされていない』と感じることなのです。」

亡くなった方々も同じ。誰からも掌を合わせられることもなく、お供え物もなく、供養を受けることのない精霊はたくさんあることでしょう。

そんな全ての精霊に供養しようというのが「施食(施餓鬼)会」です。施食会の法要は営まなくても、どのお寺でも、お盆には「施食棚」を設え、山海の珍味を供えて萬霊を供養します。

仏様は決して見捨てませんよ、という供養です。

生きている人も亡くなられた人も、誰一人、見捨てられていい存在などありません。

しかし、そう感じてしまう人がいるとすれば、それは私たちの行動が足りないということでしょう。体を運び、言葉に出し、心を寄り添っていかなければなりません。

あなたの周りに寂しさを感じている人はいませんか。20120710_155712


第7回松林寺集中講座

2012年08月13日 11時36分17秒 | 集中講座

お盆前にバテてました。暑さと葬儀の連続と寝不足と。

ようやくPCの前に座る気になってきました。

さて、今年度集中講座の内容が決まり、チラシも完成しました。今回はカラーです!

落語は露の新治師匠、音楽はRIA+ノリシゲ、気仙沼大漁唄い込みと虎舞、そして、私がこれまでの震災支援についてまとめてお話しをさせていただく予定です。

露の新治師匠には第2回3回に続いて3度目の公演です。今回は落語をたっぷりと聴かせていただく内容です。柳家さん喬師匠との打ち合わせて、一年おき交互にご来山いただくことが決まっています。

RIA+ノリシゲの夫婦デュオは、震災後ノリシゲさんの故郷である岩手県大槌町に移り住み、音楽活動をしています。震災を歌った「歩きましょう」は、you tubeで検索していただくとたくさん見れます。

昨年に引き続きおいでいただく気仙沼大漁唄い込み保存会の皆さんには、今年は虎舞も披露いただくことになっています。この虎舞、津波で太鼓が流され復興できないことを知り、「まけない!タオルプロジェクト」から太鼓製造の支援をさせていただきました。その復活披露を集中講座でしていただくことになったものです。

ということで、今年のテーマを「被災地を忘れない、見捨てない」として開催いたします。多くの皆さんにおいでいただき応援していただければ幸いです。2
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