なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ281 自らが寺となる

2020年09月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第281回。9月27日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
20日日曜日、河北町葬儀
22日火曜日、彼岸中日
23日水曜日、宿用院施食会
24日木曜日、和田みさ子さんを偲ぶ会実行委員会
25日金曜日、鶴楯伐採下見
他法事8件
というような1週間でした。

9月に入ってからも連日暑かったのに、彼岸になり急に涼しくというか肌寒くさえなりました。
稲刈りも最盛期を迎えています。7月の長雨や猛暑残暑がありましたが米は良く稔っているようです。
太陽の光と水と肥料があれば一粒の米が約200粒に増え、アスパラは次から次へと顔を出します。
赤ん坊も母乳だけしか口にしていないのに、日に日に大きくなるのが分かります。
ありがたいことです。命はそれ自身が成長する力を持っているのですね。

実は最近少し落ち込んでいます。
このブログの訪問者数が減っているのです。
関心のある方だけ読んでくれればいいと思って書いてはいるのですが、それでもやっぱり訪問者数は気になって、チェックをしてしまいます。
先週比何%減、となると少なからずへこんでしまいます。
特に頑張って書いた記事の時などは「なんでー」と落ち込みます。
逆に思いがけず何十%もどっと増えることもあり、これも「なんでー」と驚きます。
こちらの思いとブログの訪問数は必ずしも一致しないものなのでしょう。
どの記事がどれだけ読まれたかというのが確認できるのですが、その中でいつも根強い人気の記事があります。
「バカ肉」と題した記事で、10年前の2010年1月に書いたものですがいまだにランキング上位に入ってくるのです。
どんな人が何のためにこの記事を読むのかと首をかしげています。
こんなバカな記事が何かのたしになっているとすればそれはそれでうれしい気持ちがあります。
もし気に入った記事があれば繰り返し読んでいただけるのもいいかなと思います。

カンボジア難民キャンプボランティア時代にその名と存在を知りました。
カンボジア人僧侶マハ・ゴサナンダ師。
ポル・ポト時代には多くの教育者、政治家、そして僧侶も殺害されました。タイで瞑想修行をしていた師は、カンボジアからタイ側に流出した多くのカンボジア人難民をキャンプに訪ね、法を説き人々の心の支えとなりました。
法を説くだけでなく、師は自ら国境のジャングルに足を踏み入れ、さまよう人々の手をとり、倒れた人々を抱きかかえ、トラックに乗せて難民キャンプに送り届ける活動を行いました。
それを見ていた周囲の僧侶たちは冷ややかな目でこう言いました「難民には男性もいるが女性もいるだろう。あなたはトラックに乗せる時女性に触れたのか。それは破戒ではないのか」と。
タイやカンボジアの上座部仏教では、僧侶が女性に触れることを厳に戒めているのです。
ゴサナンダ師は微笑みをもってこう答えます
「確かに女性にも触れました。それは破戒に違いありません。しかし、ここにお釈迦様がいらっしゃったらきっと同じことをされたのではないでしょうか。少なくとも目をつぶってくれたに違いないと思います」。
師は本当に微笑みの人でした。そして強い信念と行動の人でした。
その後師は、カンボジアの平和を祈って「ダンマヤトラ(法の行進)」を行います。
タイとの国境から首都プノンペンまで、ゲリラ戦闘中の地域も通って計4回行われました。
第4回目は、ベトナム国境までの600キロを3週間かけて行進しました。
行進の参加者はどんどん増え、最終的には僧俗合わせて1000人を超えるまでに膨れ上がったのです。
行進が通る村々では、花と線香と水を持った数えきれない人々が、街道に膝をついて迎えます。
ゴサナンダ師は、村々で法話をして、戦火で焼かれた大地に菩提樹を植え、合掌する人々に水をかけるお浄めを施して進みます。
ある夜、4人の武装した兵士が宿舎に訪ねてきて「指導者に会いたい」と言いました。
万一を考えて師の弟子が面会すると、兵士は銃を僧の足元に置き「どうか自分が弾に撃たれないように、そして自分の弾が誰一人傷つけたり命を奪ったりしないように祈ってください」と言ったのです。
カンボジア人の誰もが平和を願っていたのでした。
やがて師は、ノーベル平和賞の候補にノミネートされます。
今、師の言葉が胸にかかります。
「多くのカンボジア人が、僧侶は寺に属するものだというのです。しかし私たちは、自分たちの寺を出て、苦しみに満ちた現実という寺の中に入ってゆく勇気を持たなければなりません。自らが寺となるのです」。(参考:マハ・ゴサナンダ著『微笑みの祈り』)
カンボジア在住の友人が、今年はゴサナンダ師の13回忌だと教えてくれました。
私も、自らが寺となるような生き方がしたいと思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。




サンサンラジオ280 空気を掻く

2020年09月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第280回。9月20日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
13日日曜日、鶴楯の支障木調査、最上の地酒を創る会
17日木曜日、もっちい例会
18日金曜日、彼岸前の掃除
19日土曜日、彼岸奉詠
他法事2件
というような1週間でした。

先々週発会した「花の鶴楯を創る会」が早速動き出しました。
13日午後、メンバー全員が鶴楯の麓に集合し、頂上に登り眺めの支障になっている樹木の選定をしました。
ドローンも使い、上からと下から確認しながら伐採木にテープを巻いていきました。
来週には森林業者に下見をしてもらって見積もりをとることになります。
地元の男どもが里山に集まって、ああでもないこうでもないと語りアイデアを出し合うことができて、まずは良かったと思います。

その夜は「最上の地酒を創る会」の第1回会合でした。
これまで2回準備会を行ってきましたが、組織名を決め役員を選任して正式な発会となりました。
酒米は最上町産の「出羽燦燦」、仕込み水は奥羽山脈を水源とする地下水、製造酒量は800ℓとなりました。
来春田植えをして秋に刈り取り、その米を仕込みます。
来月19日には味の方向を決めるための試飲会を行い、銘柄も決める予定です。
連絡をいただければどなたでも参加できます。銘柄の応募もどうぞ。

もがみ地産地消エネルギー(もっちい)の例会で地域新電力立ち上げに向けて研究を進めていますが、まだまだ勉強しなければならないことがたくさんあります。
それでも若いメンバーと地域の未来を語り合うのは楽しいひと時です。皆ここで生きることを楽しもうとしているのです。
せっかくここで生きるのですから、楽しまないと命がもったいないです。

散歩をしていると田んぼから白鷺が大きな羽根をはばたかせて飛び立ちます。
その羽根の動きを見ていると、鳥は空気を掻いて飛ぶんだなと改めて思いました。
その空気、「空気」といっても空気は「空」ではないのです。
質量がなく真空状態であれば、鳥ははばたいても飛び上がれないはず。
空気に質量があるからこそ、水を掻くように空気を掻いて鳥は飛んでいるのです。
飛行機が飛ぶのも空気に羽根が乗り上げる質量があるからでしょう。風が吹くのも質量のある証拠。
改めて空気の成分を見てみると、78%が窒素、21%が酸素、残り1%がアルゴン、二酸化炭素、ネオン、ヘリウム、クリプトン、キセノン、水素、メタン、一酸化二窒素だとのこと。
一番多いのが酸素ではなかったんですね。
窒素はたんぱく質をつくる気体、つまり生物の栄養素なのだと知りました。
しかし、人間には空気は目に見えないので何もないものと思っているのです。
誰も「今窒素を78%、酸素を21%、二酸化炭素、ネオン・・・を吸っている」と意識している人はいないでしょう。

私たちには水は見えますが、おそらく水の中に住む魚たちには見えていないと思います。かといって魚たちに空気が見えているかどうかは分かりません。
人類初の有人宇宙船乗組員ガガーリンの言葉はあまりにも有名です。
「地球は青かった」。
宇宙からは気体が水のように目に見えるものなのですね。
魚たちは、体をくゆらせ、尾びれや腹びれを動かして前に進んだり曲がったりしています。
自分には見えないだろう水を掻いて自由に動き回っているのです。
だとしたら、人間も、掌で空気を掻けばわずかでも前に進むかもしれません。
散歩のとき、掌を開いて右左と前後させて空気を掻いてみています。少しは推進力が増しているかも。(おならをすればさらに増すかも)
足掻き(あがき)や藻掻き(もがき)でも、空気に質量があるのですから決して無駄ではないでしょう。
鳥のようにはいかないまでも、この短い手足で、この人生を、あがき、もがいて一歩前に進んでみようと思っています。
魚は後には進めない体をしています。人間も振り返らず、前だけを向いて進んでいこうと思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ279 峠の町

2020年09月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第279回。9月13日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
6日日曜日、松林寺総代会、本堂屋根葺き替えについて
7日月曜日、東北管区教化センターリモート会議、写経会
他法事6件
というような1週間でした。

近年本堂屋根の雨漏りが続いて、その都度応急処置を施していますが、なかなか止まりません。そればかりか、少しずつその範囲と量が広がっているようです。
いずれ葺き替えをしなければならないと計画を練っていましたが、それを早めなければならないかもしれません。
思わぬところから新たな事業が持ち上がってきました。

今『最上町史』を読んでいます。
昭和60年に、町政30周年を記念して刊行されたもので、上下巻にわたり古代からの歴史、地勢、政治、交通、文化、信仰、生活、習俗などなど、多岐にわたって町の記録が記載されています。
これまで必要があると開く程度でしたが、今は暇なこともあって、興味のある所を読み、つられて次から次へと読み進んでいます。
歴史を知ることは面白いです。新たな発見もたくさんあります。その中から一つ。

最上町は「峠の町」だと言っていいほどです。
これほど峠のある町も珍しいのじゃないでしょうか。
それは、町全体が古代に噴火したカルデラ盆地の中に位置しているからです。
そのために四方を急峻な山に囲まれ、それが自然の要害ともなり、戦国時代には他国から攻められない安定した統治がなされていました。
1580年に最上義光勢に滅ばされるまで、細川摂津守の小国領統治は一説には200年以上も続いたとされています。
しかし人々はさかんに他国と往来をしていたのです。
その通行の道が峠でした。
今名前が残っている峠道は、仙台領側へ花立峠、堺田越え、田代峠、天領尾花沢方面へ山刀伐峠、背坂峠、金山越え、午房根峠、戸沢藩新庄方面へは亀割峠、新庄峠などです。
その他にも、地元民が人知れず通った山道もあっただろうと思います。
特に、尾花沢側は、細川時代から戸沢藩時代まで、現在の尾花沢市富山までが小国領であったため、頻繁に峠越えしていたと思います。
小国領は古くから馬産地であったため、馬の売り買いで峠を越えたという記録があります。
南部領から花立峠、背坂峠を越えて北陸加賀まで、馬を連れての往来があったとのこと、それなりの賑わいもあったことでしょう。
また、地元民が遠方まで出かけるとき、あるいは嫁ぐとき、あるいは売られていくとき、家族は峠まで見送りに来たかもしれません。
そこでどんな言葉を交わしたのか、どんな顔で別れたのか、どんな思いで見送ったのだろうか、と思います。

これまでにも何度か紹介しましたが、私の大好きな、真壁仁の『峠』と題した詩にはこうあります。

   峠は決定をしいるところだ。
   峠には訣別のためのあかるい憂愁が流れている。
   峠路をのぼりつめたものは
   のしかかってくる天碧に身をさらし
   やがてそれを背にする。
   風景はそこで綴じあっているが
   ひとつを失うことなしに
   別個の風景にはいってゆけない。
   大きな喪失にたえてのみ
   あたらしい世界がひらける。
   峠にたつとき
   すぎ来しみちはなつかしく
   ひらけくるみちはたのしい。
   みちはこたえない。
   みちはかぎりなくさそうばかりだ。
   峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
   たとえ行手がきまっていても
   ひとはそこで
   ひとつの世界に別れねばならぬ。
   そのおもいをうずめるため
   たびびとはゆっくり小便をしたり
   摘みくさをしたり
   たばこをくゆらしたりして
   見えるかぎりの風景を眼におさめる。


人は峠を越えながら成長してきたのではなかったかと思います。
一つの世界に訣別をして新しい世界に入っていく覚悟を、峠を越える経験で培ってきたのではなかったか。
結婚するということは独身から既婚への峠を越えることであり、親になることは子どもから大人への峠越えです。峠には訣別が伴います。
親でありながらいつまでも子どものような振舞いなのは、子どもの世界との訣別の覚悟がないということです。
トンネルを抜けていつでも何度でも楽に峠を越えられることが、覚悟という成長を阻害しているかもしれません。
かといって、今普段の生活で歩いて峠を越えることは、まずありません。
せめて想像だけでもしてみる、できれば実際に峠に立ってみて、古の訣別の姿に思いを馳せてみるということがあってもいいかもしれません。
峠は誘うばかりだ。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ278 花の鶴楯

2020年09月06日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第278回。9月6日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
30日日曜日、花の鶴楯を創る会
3日木曜日、仙台で葬儀
4日金曜日、軽架線の下見
というような1週間でした。

沖縄九州を中心に台風の被害はなかったでしょうか?
日本は災害大国になってしまったようです。

先日朝、外にいると、カミさんが玄関から包丁を握りしめて出てきました。
刃を向けて近づいてきます。
「誰を殺しに行くんだ?」と私。
「あなたよ。保険金は安いけどね」とカミさん。
あの、殺したのが分かった場合保険金はおりないと思うのですけど。
(そっちかい)
どうも保険金の種としか見られていないようです。
何のことはない、みょうがの葉を刈りに行っただけのようでした。

3日日曜日は「花の鶴楯を創る会」の設立総会でした。
山の土地の地権者が集まり、趣旨に賛同を得て発会を見ました。
鶴楯は、集落近くの小高い山の上にあったもので、1580年、万騎の原合戦の武功により最上義光から当地を与えられた小国日向守が、本城小国城の分楯として1605年に築城したものです。
そこは、それ以前の細川摂津守時代にも楯はあった場所で、ゆえに古楯(フンダテ)と呼ばれていました。
鶴楯に居城した日向守の一族は、その城下を本城にならって「下小路」「立小路」と命名しました。ゆえに、下小路立小路のにとって鶴楯はその象徴であり、中心であると言っていいのです。
1622年、最上家の改易によって小国城も破却され、小国家の統治は42年間で幕を閉じました。
それ以降、鶴楯の麓には秋葉山、馬頭観音、観世音菩薩などの石碑、中腹には猿田彦神社、頂上には太平山三吉神社を祀り、楯なき後も下小路立小路のによってその跡地は大事にされてきました。
鶴楯の遺跡を、両の中心として今後も大切にしていくために、桜と楓、アジサイを植樹して「花の鶴楯」として整備をしていく計画です。
頂上からは下小路立小路はもちろんのこと、万騎の原から月楯方面まで一望できる眺めがすばらしい。
桜や紅葉は、陸羽東線の乗客、国道47号線の車からも目を引くことでしょう。
春には花見、秋には紅葉狩りとして人々が集う。そんな、子孫まで自慢できる故郷のシンボルを創るための組織として「花の鶴楯を創る会」を設立しました。
まずは、頂上からの眺めを確保するために、支障木を伐採することから始めたいと思います。
13日にはみんなで山に登り、支障木の選定をする予定です。
4日に行った軽架線の下見というのもその事業の関連ですが、新庄の農林大学校の実習で、ワイヤーを使って伐採した木を麓に下ろす実地研修を行うための下見でした。

想像しています。
春になり、雪が解けると桜が咲きだし、山が白い道を作ります。遠くからもそれを眺めて行ってみたくなります。
石碑や祠に手を合わせながら参道を上り詰めると、頂上はパーッと視界が開け、田んぼの水がキラキラ光り、新緑の風が頬を爽やかに撫でていきます。
花の下では盃に花びらを浮かべて酒を酌み交わしています。
夏にはアジサイが咲き乱れ、木漏れ日が揺れています。蝉が鳴き、緑陰は汗ばんだ背中に涼を与えてくれます。
秋、山が紅く染まり人々を誘います。
親子連れや孫を連れたおじいちゃんおばあちゃんが登ってきて、眼下に黄金色の稲穂の波や陸羽東線を走る列車、国道47号線を通る車を眺めて歓声を上げています。
大人たちは、子供たちに遺跡の歴史を語り、神様に手を合わせることを教え、里山を大切にすることを伝えます。
故郷を離れた人々も、帰ったら鶴楯に行こうと思うでしょう。
喧騒が去ると、やがて山は白い眠りにつきます。

古の歴史を知り、信仰心を育て、人々が楽しく集う、そんな、自慢したくなるような里山を作り出そうとしています。
ということで、また一つの事業が動き出しました。

何度も言うようですが、人生は実に短い。
たとえ生きていたとしても、体はいつまで動くのか、気力はどこまで続くのか、声をかけて手伝ってくれる仲間はいるのか。
そう考えると、物事ができる時期、機縁というかタイミングがあるでしょう。
今の自分にできること、今の自分でなければできないことがあると感じます。
それは機を逃さずにやりたい。できなくなってから後悔したくない。
60歳を一期と定めてから、一度リセットして、あとはやりたいことをやろうとしています。
もう長くはないのですから。
いえいえ、カミさんに刺されることはない、と思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。