なあむ

やどかり和尚の考えたこと

チーム21世紀文明

2014年08月08日 06時48分59秒 | 東日本大震災

昨日は宮城県山元町の徳泉寺のお施餓鬼会に招かれて法話を勤めました。

チームまけないタオル、またの名をチーム21世紀文明の早坂文明さん住職のお寺です。

伽藍もお墓もみんな流されてしまったお寺なので、早坂さんが住職のもう一つのお寺、徳本寺さんの本堂でのお勤めでした。

檀家さん74名が亡くなっておられます。

震災後初めての法話の機会でしたので、タオルの成り立ちなどについてお話させていただきました。

震災の年の4月3日に「まけないタオル」を思いつき、ブログに書くと、すぐに反応してくれたのがやなせななさんでした。

「親戚のタオル業者を紹介しましょうか?」という連絡から、話は具体的に動き出しました。

何枚つくるのか、お金はどうするのか、長さは本当にこれでいいのか、業者は「短くて使われへんからダメや」と言うてます、等々、彼女が中に入って着々と準備は整っていきました。

「三部」と「なな」、3×7でチーム21だね、ということになりました。

その間早坂さんは、ブログを読まれながらも「まけないタオル」ってどういう意味なのか、何をしたいのか、よく分からないと思っていたようです。

だんだん理解されるようになり、これをもっと広めて理解してもらうためには歌を作った方がいいのじゃないか、ということで歌詞を書いてくれました。

それが、私の思いつきからちょうど1ヶ月後の5月3日、早坂さんが境内の掃き掃除をしながら30分でできあがった歌詞だったのです。

チーム21に早坂文明さんが加わり、チーム21世紀文明となりました。

歌詞はその日のうちにななさんのもとへ届き、「私曲つくるの時間かかるんです、2~3ヶ月かかることもあります」とのことでしたので、無理かなと思っていたら、次の日の朝、「曲できました」との電話。

「私が曲を書かなかったら誰かが書くのだろう、それは嫌だと思って書きました」「書き上がって母親に聞かせたら泣いてくれました」と。

物事が進む時はこんなものなのだろうと思いました。

歌はCDになり、合唱曲になり、ダンスの振り付けがついたり、どんどん広がっていきました。

ななさんも全国各地で歌いながらタオルの支縁を呼びかけてくれました。

その結果、先月末、タオルの枚数は合計82000枚に達しました。

「歌で広めればわかりやすい」と早坂さんが言われた通りでした。

そんなことを、昨日改めて感じたところです。

スタート当時のことを確かめるために、自分のブログを読み返してみました。

興奮状態にあったことがよく分かります。

でも、自分で書いた文章ながら、涙が出てくる箇所もあります。

もし、時間がありましたら、このブログのカテゴリー「東日本大震災」の書き始めのころをお読みいただければ幸いです。

Dsc_0381


東日本大震災137 忘れないって

2013年03月13日 07時42分19秒 | 東日本大震災

震災2周年で色々な報道があったようです。

合言葉は「忘れない」。

1000年に一度の震災を、2年で忘れてはなりません。

しかし、人間は忘れる動物です。忘れなければ生きていけないかもしれません。

被災を受けなかった私たちは、毎日頭から震災が離れないという生活をしていません。笑いもするし、遊びもする、被災地のことなど頭からすっぽり抜けてしまっている時もあります。

「忘れない」という言葉は、忘れてしまうことがあるから「忘れないようにしようね」という合言葉なのでしょう。

しかし、被災地、被災者は違います。

大槌町の江岸寺さんの言葉です。

「よくマスコミが震災のことを『忘れない』っていうけど、当事者の我々からすれば、『忘れたくとも忘れられない』毎日なのが現実。『思い出す』ってことは、ある意味で『忘れられる』心境になっているからできること。すべてを忘れ去ることは無理だが、一時でも震災を忘れられるようになれば、一歩前進なのではないかなとも思う。矛盾しているようだが、そんな我々の心境を酌みとってもらったうえで、多くの方に震災のことを『忘れない』でいてほしい」。

現在も、被災のど真ん中で、一時も忘れることのできない苦しみ悲しみの中に人々がいることを知っておくべきでしょう。

その上で「忘れない」とはどういうことか、それは、平生は忘れていても、時々は思い出すということでしょう。

毎月11日は思い出すとか、テレビ新聞の報道を「もういいや」と目を背けるのではなく、心を費やして向き合っていくということだと思います。

1000年に一度の被災から逃れた私たちは、1000年に一度の災害で亡くなられた人々を追悼し、苦しむ人々のために生きることを与えられた使命と受け止めたいと思っています。

3月11日、あれほど「忘れない」を連呼していた意味が、次の日から忘れることの免罪符であってはなりません。

「忘れない」を形に、行動に。

私の11日は、石巻のお寺さんの法要に参加させていただく予定でしたが葬儀が入り断念しました。

昨日12日は、新庄中学校の震災を通して命について考える「いのちの日」で講演、夜には新庄エヴァホールでのやなせなな震災支縁コンサートに参加しました。

20130312_195056


東日本大震災136 最後の避難所

2013年02月15日 22時37分52秒 | 東日本大震災

東日本大震災の避難所がまだ残っていたということを知りませんでした。

双葉町の住民が避難している埼玉県加須市の避難所がそれ。

今日縁あって、伺ってきました。

間もなく2年が経とうとしている現在、ここが唯一最後に残った避難所です。

原発事故後、双葉町民7000人は町を追われ、川俣町、さいたまアリーナを経て、加須市の旧騎西高校校舎に落ち着いたのが3月31日。その時の人数は約1400名。

足の踏み場もなく、人をまたがないとトイレにも行けないような状態でした。

その後、多くの人は福島県内の仮設住宅や加須市周辺の見なし仮設に転居して、現在も避難所に身を置いている人の数は約130名。

やはり、高齢者や生活の厳しい、いわゆる社会的弱者の方々だという。

「平均年齢70歳ぐらいかなあ」とのこと。

昨年9月には、それまで日に3度配給されていた弁当が有料となりました。

仮設に移った人たちは自分で生活しているんだから、避難所だけいつまでも特別扱いできない、というのが理由。

避難所では電気は使えるがガスが使えないので、結局自炊することができず、弁当に頼るほかない。

そんな人たちを見かねて、加須ふれあいセンターが「寄り添いセンター、こらっせ、くわっせ双葉」を立ち上げ、昼食の営業を始めました。

はじめてここで食べた人が、温かいみそ汁と茶碗でごはんを食べることに、その当たり前のことにいたく感激されていた、という話を聞いて、あまりにも長い避難所生活、弁当の生活のつらさを知らされたことでした。

センターでは、1食300円というギリギリの値段設定で運営していますが、ひと月に60㌔使う米の支援だけでも何とかならないかという情報を耳にして視察に伺ったことでした。

避難所には、役場も一緒に避難しています。

町長が不信任決議され辞職、議会は解散という混乱の中、今後町がどうなっていくのか、全く不透明であることに町民は不安の只中にあります。

避難所の部屋をのぞかせていただきました。

他の避難所と同じです。畳を敷いた教室を、段ボール箱などで間仕切りし、一部屋に3~4世帯が暮らしていました。

もう2年です。

町役場はいわき市に移転の準備を進めていますが、それがいつになるのか二転三転しているようです。

「役場が福島に戻っても、おれたちはもう戻らない」という声が聞こえました。

89歳の女性は、「2年近くもここにいると、住めば都ということだな。もう戻るつもりはありません。息子夫婦も、私に最後に自分の家に住まわせたいとここに家を買う相談をしている」と話してくれました。

「忘れ去られた避難所」だと思いました。

でも、知らされないことは、自ら知らなければならないのです。

今後さらに忘れ去られてしまわないように、時々顔を出したいと思いました。

20130215_15144620130215_151918_3


東日本大震災135 山田の記録

2013年02月07日 09時44分42秒 | 東日本大震災

冬篭りのような状態でしたが、節分も過ぎたことですし、そろそろ活動を開始しなければなりません。

このブログの記事もいつの間にか700本を越していました。これが702本目です。

さて、岩手県山田町から要請がありました。

山田町では、大津波を風化させないため、今後の防災教育のため、震災当時の山田町の様子をまとめた写真集「あの日から明日に向かって~東日本大震災・山田の記録」を刊行されることになりました。

多くの方から協賛金をいただいての刊行とのこと。

一口3000円で、3月11日の発刊を目指しています。

要請を受けまして、まけない!タオルプロジェクトから100口分、30万円の協賛をさせていただくことにしました。

関心と協賛の方は、以下のSVA岩手事務所まで。

●岩手事務所

 〒028-0541 岩手県遠野市松崎町白岩20-23-5

 TEL /FAX0198-60-1286 携帯:080-6849-9687<o:p></o:p>

 


東日本大震災134 支縁の思考

2012年11月29日 11時16分38秒 | 東日本大震災

11191659_50a9e6e7d3491新評論社から「3.11以後生きるヒント」三好亜矢子・生江明編、という書籍が刊行されました。

副題が「普段着の市民による『支縁の思考』」。

私も依頼されて一章書いています。

「大災害に生き合わせた私たち 寺院と災害ボランティア」

関心のある方はお読みいただければ幸いです。

きっかけは、昨年最上町で開催された河北新報社主催「仙山カレッジ」でパネラーを務めたこと。

そこに取材に来ていたのが編者の三好亜矢子さんでした。

もう一人、講師として話をしたのが最上町町長で、その町長が語った「支援から支縁へ」の言葉がこの本の副題に取り上げられたようです。

しかし、解説しておかなければなりませんが、ご存じの人はご存じの通り、この「支縁」という言葉を最初に使ったのは私の知る限りやなせななさんです。

昨年のNHKラジオの中で彼女が語ったもので、私も得心しながら聞いておりました。

同じように、最上の人間も聞いていて、自分たちの集落の活動に「支縁」という文字を使ったのを町長が取り上げた、というのが経過です。

もちろん、いい言葉ですし、やなせさんもそれを独り占めするよな気持ちはないはずですので、どなたが使われてもいいというか、むしろこれからの支援に大事な意味付けをしてくれる言葉として広く広まればいいなと思います。

私も使わせてもらっています。自治体として初めてこの言葉を使ったのが最上町であるとすればそれもうれしいことです。この本によって、さらにこの国にこの心、その意味するところが広がればすばらしいと思います。

ただ、その出所を忘れずにいて欲しいと願うだけです。


東日本大震災133 中間報告

2012年11月06日 21時15分55秒 | 東日本大震災

昨年の5月以来、たくさんの方々にご支縁をいただいてきました「まけない!タオル」プロジェクト、10月末時点で中間報告をすることにしました。

本当に多くの皆様に「支縁」の輪が広がり、現在7万枚目を製作しています。

タオルそのものの評価よりも、早坂文明、やなせななのコンビニよるテーマソング「まけないタオル」が大きな広報効果をもたらしていることは間違いありません。

現在も、やなせさんは全国各地を飛び回り、歌と共にタオルの活動を広めてくださっています。

いただいたご支縁金で被災地にタオルを届けていますが、それ以上にいただいた分については、大切に、直接被災地に届く形で支縁をさせていただいています。

特に、故郷を離れバラバラに暮らしている地域の人々が、離れていても心を一つにしていけるような、伝統芸能や祭りの復活等に支縁して行ければと考えています。

ということで、今後もこのプロジェクトは継続して活動を続けていきます。

中間報告のチラシは、これまでご支縁いただきました方々に郵送させていただきますが、住所の分からない皆様には、以下のコピーで報告とさせていただきます。

Photo
Photo_2


大震災132 変わらない苦痛

2012年09月20日 20時43分01秒 | 東日本大震災

暗いニュースばかり続くと気が滅入ってしまうので、マスコミも明るい話題を探して報道します。

被災地の中にも明るい話題はあるわけですが、そればかりが表に出るとそれが全体の様子かと誤解されてしまうことにもなります。<o:p></o:p>

ニュースというものは、その言葉通り、常に新しい出来事を求めていく性質を持っています。<o:p></o:p>

1年半経っても変わらないものは全く変わりなく、困難なものは困難なままなのですが、あるいは、時間が経つにしたがってかえって更に困難な状況は増していくのに、変わらないものは報道されないという宿命にあります。<o:p></o:p>

その変わらない困難の中で、明るい話題だけがクローズアップされると、光と影のごとく、陰は益々暗く感じてしまいます。<o:p></o:p>

報道だけで被災地の状況を理解するのは無理があります。変わらない事柄にこそ困難は潜んでいるからです。つまり、切り取られた一瞬の風景ではなく、時間の経過の中にある問題を理解しなければ困難を肌で感じることはできないということです。<o:p></o:p>

たとえば、あの日のまま放置された田畑を見続けることが農家にとってどれほどの苦痛であるか。

福島の自然の中にありながら、自然と共に生きられないという生活がどれほどストレスになるか。

一枚の写真から時間による心の積み重ねを見通すことは難しいことです。<o:p></o:p>

時間の経過の中で積み重ねてきた苦痛を理解するには、やはり現地に行く、あるいはその人々の話を聞くという以外にないでしょう。

人は、人との関わりの中でしか生きられない存在であるならば、他の喜びをどれほど共感できるか、それ以外に、生きる喜びを見いだす術はありません。

喜びを共感するためには、悲しみも共感しないわけにはいきません。

むしろ、共に感じた悲しみから共に乗り越えた時にこそ、喜びの共感は生まれるものだといえるでしょう。

残り少ない命、被災地と共に生きていきたいと思います。

これほどのとてつもない災害の隣で生きているということは、この命を被災地のために使えという使命だと受けとめています。

20110606_181415


大震災131 神様知恵をください

2012年07月17日 15時00分23秒 | 東日本大震災

7月14日の朝日新聞「声」欄に掲載された記事です。

声の主は東京都武蔵村山市の小学生(9歳)の藤澤凛々子さん。

「この前、ギリシャ神話を読みました。人間に火を与えた神プロメテウスに、全能の神ゼウスが言いました。『人間は無知で、何が幸せで何が不幸かわからないからだめだ』

私はずっと人間は他の動物よりかしこいと思っていました。火を使い、便利で幸せな生活を送っているのは人間だけだからです。

でも、大い原発が再稼働したというニュースに、ゼウスの言う通り人間は無知なのかもと思いました。福島第一原発事こは、まだ終わっていません。放しゃ能で大変な事になってしまうのに、この夏の電力や快てきな生活を優先したのです。大い原発は幸せな未来につながるのでしょうか。私が大人になるまでに日本も地球もだめになってしまうのではないかと心配です。

神様、どうか私に目先の事だけでなく未来の事まで考えて何が幸せで何が不幸なのかわかる知恵をください。その知恵で人も他の動物も幸せにくらせるようにしたいです。おねがいします。」

9歳の女の子が神様に願うこと、それが、「目先の事だけでなく未来の事まで考えて何が幸せで何が不幸なのかわかる知恵をください」という叡智だということに感動します。

この国の未来を生きるのは、間違いなく、今現在の若者子どもたちで、その人たちがどんな未来にしたいのか、その意志決定はその人たちに任せるべきだと思うのです。

原発を稼働しないと電気が足りなくなるのであれば(あるとしても)、そのように説明して、原発による快適さを選ぶのか、それとも多少不便でも安全な生活を選ぶのか。未来を生きる人たちが選ぶべきだと思うのです。

未来のないお年寄りたちが、それまでの常識だけで未来を決めることは慎むべきでしょう。

もし、国民投票を行うなら、必ず子どもたちにも投票してもらいたいと思います。

決して子どもたちは無知ではない。

凛々子ちゃんのように、何がもっとも必要なのかをちゃんと知っています。

私も祈りましょう。

「神様仏様、どうか、政治家に、目先の事だけでなく未来の事まで考えて何が幸せで何が不幸なのかわかる知恵を授けて下さい」

「どうか、私に、どの政治家が未来の日本のため、世界のために役立つ政治家なのか、見分ける力をください」


大震災130 原発再稼働

2012年06月18日 09時41分33秒 | 東日本大震災

今日の新聞で、福島原発事故直後にアメリカが飛行機を使って測定した放射線量のデータが公表されず、大勢の人が避難した先で被曝してしまった、という記事が載りました。

次々と明らかになる、国の失態。

まことに脆弱な危機管理態勢の中で我々は暮らしているのだと恐ろしくなります。

以下は、一昨日「ほんとうの空」に書いたものです。

本日6月16日、政府は福井県知事と協議しておおい原発の再稼働を正式決定するようです。

福島第一原発の事故から1年3ヶ月、福島県民がどれ程の苦しみを味わってきたか、そしてこれからその苦しみがどれほど続くのか、それをどれ程受け止めているのでしょうか。

南相馬市で、「県外の我々は皆さんのために何ができるでしょうか」と尋ねた時、その方は「原発反対の声を上げて下さい、それが何よりも私たちの願いです」とおっしゃいました。

原発を再稼働するということは、福島の苦しみを見て見ぬふりをすることに変わりありません。

これほどの犠牲を払って、原発はまことに危険な機械であることを思い知らされたはずです。安全な原発など存在しないということを大きな痛手を負って気づかされたはずです。

飯舘村菅野村長が「この事故を『福島の人たちのあの苦しみがあったからこそ日本が世界から尊敬される国になった』という転換点にしてほしい、そうでなければ、今の我々のつらさはあまりにもむなしい」と語っていました。

日本人が、これまでの便利さ追求一辺倒の価値観から、自然と調和しながら生きるライフスタイルに変換していくきっかけにすることで、福島の人々が、自分たちの苦しみが「無駄ではなかった」とせめても思っていただける、ということでしょう。

昨日の朝日新聞オピニオン「耕論」で、原発再稼働に対する発言を取り上げていました。

音楽家坂本龍一さん、真言宗の僧侶中嶌哲演さん、福島県から福井県に避難している川崎葉子さんの3人です。

中嶌さんの言葉から

「安全神話は福島の事故によって崩壊したのではありません。原発が各地の寒村に押しつけられたとき、すでに崩壊していたのです。大都市の近くには造れない危険な施設と分かっていたのですから。原発を受け入れた自治体は麻薬のようなお金で、子孫に対する倫理観までマヒさせられた。その意味で、巨大な原発推進システムに土足で踏み込まれた被害者なんですよ」

政府は原発再稼働の理由を「国民の生活を守る」ためと言っているようです。

福島の人々の生活は守ってくれているのでしょうか。

絶望から自殺まで追い込まれる人々の苦しみを見て見ぬふりすることが、生活を守ることなのでしょうか。

それとも、もう、福島の人々は国民から除外されているのでしょうか。

「国民」とは誰のことなのか、「生活」とは生きる以外のことなのか。

事故によって、生きることさえも困難な状況に追い込んでしまう原発を、せっかく停まっているものを、無理に動かすことが「生活を守ること」だと言える神経が信じられません。

「安全が確認できた」とか。

この度ほど「安全」という言葉の「危険」さを味わったことがないでしょう。

なのに今更「安全」と言われて「安心」すると思う人々の神経が信じられません。

私は日本国民が大好きです。しかし、この国の政治家は狂っているとしか思えません。

国民がかわいそうです。

まじめに働いて、荒れ地を開墾し、わずかな土地から努力一つで食糧を生産し、お上に文句も言わず、正直に税金も払い、地域の人々と力を合わせて生き抜いてきた。政治家は生活をよくしてくれる先生だと信じて選挙にも投票してきた。

そんなまじめな国民を「生活を守る」だの「安全」だのという言葉でだますことは、本当に罪です。許し難い。

次の選挙には、甘い言葉にだまされず正しい判断をしましょう。

それぞれ黙っていないで声を上げましょう。

再稼働まではまだ少し時間がかかるようです。あきらめず最後まで反対していきましょう。

熱くなって長文になってしまいました。


大震災129 「風化」徳本寺テレホン法話より

2012年06月07日 11時25分44秒 | 東日本大震災

チーム21世紀文明の同志であり、「まけないタオル」の作詞者であり、私の尊敬する師である早坂文明さんのHPには、10日に一度更新されるテレホン法話「3分間心のティータイム」の原稿が掲載されています。

これまでも、震災後たくさんの心を打つ法話が掲載されてきましたが、今回の「風化」もとてもいいお話でしたので、転載させていただきます。

【第880話】 「風化」 2012(平成24)年6月1日-10日

20120601.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第880話です。

 明るいニュースです。5月21日、月が太陽に重なり、リングのように見える金環日食が観測されました。国内での観測は25年ぶりでした。翌22日は世界一のタワー、東京スカイツリーが開業しました。高さは634メートルです。25日には、放鳥した国の特別天然記念物トキのひなが、一羽巣立ったと発表されました。自然界で巣立ったのは、国内では38年ぶりだそうです。

 こんなことを素直に喜べるようになった今日の日を有り難く感じます。一年前なら、とてもそうは思えなかったでしょう。千年に一度と言われる大震災の前では、同じ自然の営みとは言え、25年ぶりの金環日食も、38年ぶりのトキの巣立ちも、影が薄くなります。世界一高いタワーと言われても、10メートルとも20メートルとも言われる世界一高いかもしれない津波を見てしまえば、高さは恐怖にも思えます。何より、次から次へと報道されるニュースの波に流されて、まだまだ復興途上にある被災地のことが、忘れ去られるような気がしてなりません。

 そんな中で、山元町の横山さんの所有していたハーレーダビッドソン社製のオートバイが、津波で流されたものの、カナダのグレアム島に漂着して、住民に発見されたというニュースも届きました。海岸沿いにあった横山さんの自宅で、トラックの荷台を改造したコンテナに保管していたものでした。それが、自宅とともに津波で流されました。コンテナは流されても、沈むことなく、太平洋を横断したという奇跡のような話です。アメリカにあるハーレーダビッドソン社では、是非修理して所有者に返したいと言っていましたが、横山さんは最初からそれは願っていませんでした。自分以外にも多くの方が被災して、失ったものもたくさんある中で、自分の持ち物だけが返って来ることにためらいがあったようです。

 横山さんは「震災が風化することのないように、そのまま展示して多くの人に見てほしい」と言って、ハーレーダビッドソン社のミュージアムに寄贈しました。実は、横山さんは徳本寺の檀家さんです。住まいしていた中浜という地区は、ほとんどの家屋が流され、跡形も無くなってしまいました。町内でも最も多くの犠牲者が出ました。横山さんも、お父さんとお兄さんと弟さんの3人を喪っています。愛車が海を渡って発見されたと言っても、手放しで喜べるような状況ではありません。

 一年間も震災のニュースを見続けていると、もっと違うニュースはないのかと、思う人がいるでしょう。それは風化の始まりです。今後どんな珍しいニュースがあろうと、それはそれ。震災の現実は、たった一年で消えるようなものでもなく、復興できるような生易しいものでもありません。横山さんの震災を風化させないでという思いを、その愛車は普段なら風を切って走るところ、風化という風を避けて、波に乗って大陸まで伝えてくれたのかもしれません。

 それでは又、6月11日よりお耳にかかりましょう。