父が、亡くなるどれくらい前のことだったろうか。
もう既に言葉は失っていたものの、ゆっくりと歩くことはでき、毎食海苔巻きにしたご飯を右手に握って食べていた頃だと思う。
母親が出かけていて、寺でのお勤めが一件入っていた。
読経が終わり、茶の間でお茶を出して、帰るのを玄関で見送って茶の間に戻ると、父が飲み終わった湯飲みを茶盆に載せようとしていた。
おそらく、母親はいないし、息子一人で大変だろうから、何かできることを手伝おうかと思ったのだろう、と思った。
だから、たどたどしく、危なっかしく、心配だったけど、「ありがとね、手伝ってくれるの、水屋に持っていくだけでいいからね」と言って、手を出さずに任せることにした。
着替えをしていると、水屋から「ガチャン」と大きな音がした。
「あー、やっちゃった」と思って行ってみると、父の足下は砕け散った湯飲みのかけらとお茶でビチャビチャになっていた。
その時の父の顔が忘れられない。
空になった茶盆を手に持ったまま、泣きそうな顔、いや、泣いていた。
涙を流してはいなかったが、心の中では間違いなく泣いていたのだろう。
あんな悲しそうな父の顔を見たことはなかった。
「何の役にも立てない」
そんな自分が、歯がゆくて、惨めで、情けなく、悔しかった。
ダラリと斜めになった茶盆が父の気持ちを表わしているようで忘れられない。
茶盆を受け取り、足下を拭くと、父はとぼとぼと水屋を出て行った。
片付けを終えて行ってみると、父はベッドに潜り込んで丸い背中を見せていた。
人間が自尊心を失う時、その瞬間に立ち会ったのかも知れない、と今思う。
人間は悲しい生きものだ。老いるということは苦しみに違いない。
その悲しみは、残念ながら若い者に実感することはできない。
でも誰でもいつかは実感することになる。
誰かの役に立てる内、役に立っておかないと。悔しくなるんじゃないかな。