なあむ

やどかり和尚の考えたこと

コロナを越えて 当に願わくは衆生と共に

2020年12月30日 05時26分25秒 | 布教活動
北海道えりも町の佐野俊也師からの呼びかけで7名の布教師が寄稿した『コロナを越えて 慈しみの中に光を』が刊行されました。
私も一文寄せましたのでここに転載いたします。

慈悲の社会化
 公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)は、1980年のカンボジア難民キャンプの支援活動に端を発し、以来四十年、慈悲の社会化を目指し、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマー難民キャンプ、アフガニスタン、ミャンマー国内、ネパールへと活動地を広げてまいりました。また国内では、阪神淡路大震災をはじめとして各地の自然災害において緊急救援活動を行ってきました。
 今般、新型コロナの世界的な感染拡大に伴い、支援国の現場から緊急支援の要請を受け、ネパール、アフガニスタン、ミャンマー難民キャンプで支援を行いました。これらの地域には、手を洗うきれいな水もなく、石鹸の存在も知らない人々がいます。さらには文字を読めない大人たちも大勢います。医療体制が脆弱なネパールでは、病院や保健所に消毒液や防護服、石鹸やマスクなどの衛生用品を支援しました。アフガニスタンでは文字が読めない人々のために、感染予防の対策をイラストの看板にしたり、パンフレットにして配布しました。また、オンラインやビデオでの絵本の読み聞かせの形を試行しています。また、日本国内で十分な教育が受けられない外国人由来の子どもたちに絵本と文具の支援を行いました。
 自然災害にしろ、戦争や内紛、そして感染症においても、真っ先に深刻な被害を受けるのはほとんどの場合社会的弱者です。難民、外国人、障害者、貧困層、老人、子供、女性、非正規雇用者、一人親世帯などなど。平生の暮らしでも厳しい状況にある人々が、いざという時にさらに厳しい状況に追い込まれるというのが常です。健常で強い者が優先され、弱者が後回しにされる、あるいは置き去りにされる社会は、健全で成熟した社会とは言えません。
また、今回問題となった「自粛警察」という一般市民による監視と攻撃のように、非常事態時には誰かを踏みにじっても自らを守ろうとする利己的な行動が起こりやすいものです。
いざという時に本性が現れるという光景は、これまでの被災現場で何度も目にしてきました。僧侶も、いざという時の行動に本性が明らかになると言えるでしょう。
東日本大震災の津波で家を失った人々が高台に避難してそのまま避難所になったお寺と、避難先とならなかったお寺があります。立地条件にもよるでしょうが、そればかりでなく、常平生から行きやすいお寺とそうでないお寺、もっと言えば、信頼度と親和性があるかないかがいざという時に現れたのではないかと思いました。
被災地ではそのほかに、遺骨の安置、支援物資の集積、ボランティアの宿泊所として開放されたお寺もありました。また、読経による慰霊や傾聴活動など、行動による支援を行った僧侶もたくさんいました。
 一方、行持綿密の中で被災者に心を寄せられた僧侶もいらっしゃったでしょう。
 「守るとも思わずながら小山田のいたずらならぬかかしなりけり」と高祖様(道元禅師)が詠まれているように、只管打坐こそが人々の救いになるという姿勢も当然否定しません。被災地に思いを寄せ、歯を食いしばりながら坐禅を行じられた方、祈りを込めて朝課を勤められた方もいらっしゃったに違いありません。そういう僧侶の言葉や態度にはきっと周囲の人々を安心させる力と、生き方の示唆があっただろうと思います。
 ボランティア活動などの社会活動を、行持を綿密に行じない言い訳にしたり、自分が目立つためのパフォーマンスにしたりすることは厳に慎むべきです。
 「他を利すること多かるとも、このことのゆえに己のつとめに怠るなかれ。己の本分を覚り、そのつとめにこそ専心なれ」。(法句経166)
 私がボランティア活動にかかわっていることを知る方から尋ねられたことがあります。「三部さん、高祖様の教えとボランティア活動に矛盾を感じないのですか」。つまり、只管打坐の高祖道とボランティア活動は相容れないものではないのか、という問いだったでしょう。私も同じ思いを感じなかった訳ではありませんでした。しかし、果たしてそうなのか、高祖道というのは、深山幽谷に住して紅塵に交わらないこと、社会の苦悩から超越した世界にのみベクトルが向けられているのでしょうか。私はそうは思いません。
 ボランティアと菩薩行についてはこう思います。「ボランティア」の語源は「自発性」を意味し、徴兵(ドラフト)に対して志願兵をそう呼びました。現在では民間が共助の形で奉仕活動を行う災害などの非日常の活動をボランティアと呼ぶことが多いと思います。
 SVAの初代会長松永然道師(1935~2017)は「我々の活動は、我々のような団体がなくなるためにやっているんだ」と、よく語っておられました。つまりそれは、どんな非常事態にでもお互いが助け合い、支え合って生きていくことが当たり前の社会、ボランティアなどという特別な存在が必要のない社会になることを目指すという意味でした。
 一方菩薩行は、仏教徒としての日常の生き方で、場所や時期が限定される「特別な」行為ではありません。大乗において戒律を「菩薩戒」と呼ぶ所以です。
 しかし、人の苦しむ姿に苦悶し痛みに共感する慈悲心の発露、止むに止まれぬ思いを行動の原点とするという意味では、菩薩行もボランティア活動も同じだと言えます。

二人の先達
衆生の苦悩と共に生きた二方の先達の話をさせていただきます。
 その一人は、1979~80年を中心に、カンボジア難民キャンプで救援活動を行ったカンボジア僧侶マハ・ゴサナンダ師(1929~2007)です。
師は、カンボジア側からタイ側に逃れようとジャングルをさまよい飢えや病で倒れた人々を、トラックに乗せ難民キャンプまで運ぶという活動を行っていました。それを遠巻きに見ていた上座部の僧侶たちから「難民には男性もいるが女性もいるだろう。あなたはトラックに乗せる時女性に触れたのか。それは破戒ではないのか」と問われました。
ゴサナンダ師は微笑みをもってこう答えます「確かに女性にも触れました。それは破戒に違いありません。しかし、ここに釈尊がいらっしゃったらきっと同じことをされたのではないでしょうか。少なくとも目をつぶってくれたに違いないと思います」と。
師は、カンボジアの平和と復興のために「ダンマヤトラ(法の行進)」などの活動を続け、開発僧のリーダーとして後進を育て、ノーベル平和賞の候補ともなりました。
師は語っています「多くのカンボジア人が、僧侶は寺に属するものだというのです。しかし私たちは、自分たちの寺を出て、苦しみに満ちた現実という寺の中に入ってゆく勇気を持たなければなりません。自らが寺となるのです」と。(マハ・ゴサナンダ著『微笑みの祈り』)
 もう一人、道元禅師と同じ時代に生きた真言律宗の僧侶に叡尊上人(1201~1290)がいます。叡尊上人はその弟子忍性(1217~1303)などと共に、ハンセン病の患者を救済する「北山十八軒戸」という療養施設を建て、風呂に入れ、施食を行うなど様々な社会救済活動を行ってきました。
 その行動の原点となったのは『文殊経』で、その中にあるのは「生きた文殊菩薩に会おうとするならば慈悲心を起こせ、何故なら文殊菩薩がこの世に現れる時は貧窮孤独の身となって現れるからだ」という教えです。そこで、弟子たちに「さあ、文殊菩薩の背中を流してさしあげよう」と呼びかけ、ハンセン病患者を入浴させたといわれています。それが叡尊であり忍性の活動でした。それは釈尊に帰れという運動でもありました。
 叡尊のスローガンは「興法利生」で、すなわち、当時遵守されなくなっていた戒律を重視し釈尊本来の仏教に立ち戻ろうとした戒律復興の活動であり、そして、当時と呼ばれ社会的に疎外された階層の人々を中心に救済の手を差しのべてゆく救貧施療の活動でした。叡尊にとって「興法」と「利生」は別ものではなく「戒律を復興し本来の仏教を追求することは民衆救済に直結する課題」だというのが叡尊の主張でした。(西大寺HP)
 SVAの活動をスタートから導いてきた先達、有馬実成師(1936~2000)は、その行動の拠り所を叡尊に見出していました。

 マハ・ゴサナンダ師や叡尊上人の心は道元禅師にも通底していると私は受け止めています。『随聞記』に、「故僧正建仁寺に御せし時」として次のような逸話があります。
 栄西禅師が建仁寺に居た時、一人の貧窮の人がやってきて「家が貧しくここ数日ご飯を食べていません。家族が飢え死にしそうになっています。お慈悲をもってお救いください」と頼みました。その時寺には与えるべき食料も衣類も財物もありませんでしたが、ちょうど薬師如来像の光背を造るための打ちのべた銅が少しありました。栄西禅師はそれを自ら打ち折り、束ねまるめて貧者に与えました「これで食料と交換して飢えをしのぎなさい」と。
それを見ていた弟子たちは「仏様の光背を俗人に与えるのは仏物己用の罪ではないですか」と非難します。それに対して栄西禅師は「その通りである。しかし、目の前に飢え死にしそうな人があれば自分の肉や手足を割いても与えるのが仏の心であろう。たとえ私がその罪で地獄に堕ちようとも生あるものの飢えを救うべきである」と答えました。
 この故事を紹介して道元禅師は、「先達の心中のたけ、今の学人も思うべし、忘るる事なかれ」と述べておられます。(随聞記3―2)
 また別のところでは、人が来て一通の書状を頼まれたとき「私は俗世を捨てた人間であるから」と断るのは世間の評判を気にしているのである。仏菩薩は人が来て頼むときは自分の身の肉でも手足でも切って与えるのである。わずかな世間の評判を気にしてその頼みを聞かないのは、自分のことばかり考えている間違いである、と示しています。(同2―16)
高祖様は、深山幽谷に坐して自己究明の上求菩提のみを目指していたわけではない、釈尊を慕う他の祖師方と同じく、釈尊の心を我が心として、衆生の苦悩に向き合い、救いの道を歩まれたのだと私は信じます。「愚なる我は佛にならすとも衆生を渡す僧の身ならん」の御歌にその御心を受け止めます。

自らが寺となる
 さて、コロナ後の社会ですが、これを契機に生活様式や価値観はどのように変わるでしょうか。
 パソコンのオンライン、リモートを利用した働き方が定着すればいろんなことが変革していくと思われます。
 ある大学の先生がこう言いました「コロナ以前からテレビ電話いわゆるリモートを活用しようという提案はあったが、あまり普及しなかった。それが、そうせざるを得なくなって利用してみると意外に活用できることに気づいた。そればかりか、これまで積極的な学生と消極的な学生に対応するのに差を感じていたが、リモートだとそれが平等にできることも分かった。リモートの授業はなんと出席率が100%だ。大学は校舎や場所を指すのではなく学びの提供だから、今後キャンパスの存在意義が問われることにもなるだろう」と。
 その気づきはコロナ過の状況の中、多方面にわたる業種で起こっていると思われます。そしてそれは、場所の意味の問い直しと必要なものの優先順位をつけることを迫られているのだと思います。なぜそこでなければならないのか、なぜそれが必要なのか、の問いです。
 職場を都会に求める意味が問われるでしょうし、職業の淘汰も起こるように思います。
 お寺であれば、なぜお寺に行かなければならないのか、その意味は何かがこれまで以上に厳しく問われるように思います。その疑問に答えていかないとお寺の未来はないのではないでしょうか。大学がキャンパスの存在意義を問われるだろうというのと同じく、仏教は必要であってもお寺の必要性はあるのかと問われるのではないかと思うところです。
 そこで心に迫ってくるのはゴサナンダ師の「私たちは、自分たちの寺を出て、苦しみに満ちた現実という寺の中に入ってゆく勇気を持たなければなりません。自らが寺となるのです。」という言葉です。
 「自らが寺となる」とはどういうことか。
 「大学は場所ではなく学びの提供だ」という言葉を借りれば、「お寺は場所ではなく救いの提供だ」ということになるでしょう。さらには、お寺に居てお袈裟をかけた人を僧侶と呼ぶのではなく、人々の救いになる人を僧侶と呼ぶのだ、ということになるでしょうか。
 瑩山禅師初開の道場、阿波の城満寺四世大槻哲哉老師が城満寺復興の勧募で全国を行脚されていた折り小寺にも訪ねてこられ、お願いして寺に泊まっていただいたことがありました。そのお話その姿勢から示される教えはたくさんありました。その時私は、「城満寺はすでに歩いている」と感じたものでした。僧侶のはたらきにより、寺は動きもし歩きもするものだと思います。
 寺の存在には何の意味があるのか、それは僧侶がどう生きるのかが問われることであり、その問いは今後さらに厳しく突き付けられてくると思われるのです。
 仏の教えにより目の前の苦悩を救おうとするのが僧侶であるならば、自らが苦しみの中に入っていかなければなりません。自分は安全な場所に身を置いてこちらに来たら助けるというような傍観者であってはならないでしょう。自らがお寺となって苦しみの世界に身を投じなければ、お寺そのものが救いから遠い存在になってしまいます。

利行は一法なり
 ボランティア活動にかかわって学んだことはたくさんあります。その一つは、慈悲心があるからボランティア活動をするのではないということです。ボランティア活動を通して自らの慈悲心に気づき、開発し養っていくのです。仏の行為をもって仏となり、菩薩の行いによって菩薩が出現します。
 次に「利行は一法なり、普く自他を利するなり」の教えが腹落ちしました。三輪空寂の利他行はそのまま自利となり、三輪空寂の自利行はそのまま利他となります。利行に自他の区別はありません。「自らが所作なりというともしずかに随喜すべきなり」です。ボランティア活動で救われるのは自他共です。
 そして「衆生を利益すというは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり」の教えも目の当たりにしました。阪神淡路大震災の現場で、被災者が積極的にボランティア活動にかかわっている姿を目にしました。心のケアの専門家から「自分を救う最も早い方法は他人を救うことである」ということを学びました。苦しい状況にある時にこそ、人の幸せを願い行動を起こすことを勧めたいと思います。逆に言うと、常に人の幸せを願える人はどんな状況においても救われているのだと思います。
 「当に願わくは衆生と共に」。僧侶は衆生の苦しみと共に歩むことを願わなければなりません。衆生の苦しみの中にこそ僧侶の存在意義は見出されるのですから。

サンサンラジオ294 死ぬ権利

2020年12月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第294回。12月27日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。

22日火曜日、屋根の雪下ろし、ニラ小屋飲み会
23日水曜日、BPキャピタル、オンライン懇親会
その他法事が2件。
というような1週間でした。

今週は雪も落ち着き楽な1週間でした。一昨日から少し降りましたが。

お寺の年末には新年を迎えるための準備が色々あります。
その一つに年回正当簿の作成があります。
来年の年回忌を過去帳から拾う作業ですが、それは現在パソコンでできるのでとても楽です。
それを本堂に張り出すために一枚一枚の札に書き出す作業は手書きでやっています。
で、それを書きながら色々と思いを巡らすのです。
「この人はとても丈夫で死ぬようではなかったのにな」
「あんなに強がっていた人もやっぱり死んでしまうんだな」
「若くして突然亡くなった時は家族は大変だったな」
等々、その人の顔とその時の様子を思い出しながら書いていきます。
そして思うのです。
当たり前のことではあるけれど、みんな死ぬんだな、と。
年賀状は、宛名が一人ずつ減っていくけれど、過去帳は増えるばかりです。
あなたも私も、そう遠くないときに鬼籍に入り、名前ではなく戒名で呼ばれるときが来るのです。
それは万人に平等のことですから、憂うることも恐れることもなく、安心と言ってもいいことです。

最近「死ぬ権利」ということを考えます。
と言っても、自死やその幇助、あるいはいわゆる安楽死のことを言っているのはありません。
「権利」というと誤解があるかもしれません。
命は、自分の意思とは関係のないところで生まれ、自分の意思の及ばないところで死んでいきます。お任せする以外にない命です。
なので、権利で生まれたわけでも権利で死ぬわけでもありません。
ところが、「おまかせ」とは言えないような死があることも事実です。
本人の意思とは関係なく、もっと言えば、変な言い方ですが「命の意思」とも反するところで「強制的に」生かされている命もあると思われます。
ですから、正確には「自然に死ぬ権利」と言った方がいいかもしれません。「自然に」という定義も難しいですが。

父親がまだ自分の意思を伝えられる状態の時、「もう生きていたくない」と漏らしたことがありました。
そう言葉で伝えられる状態ですから、周囲は「何言ってんだ」と打ち消していました。
その後どんどん状態が悪くなり、言葉が出なくなり、表情で訴えることもできなくなり、病院のベッドで点滴を打ちながら常に眠っているような状態となりました。
毎日病室を訪ねていましたが、ある日突然、鼻に管が挿され栄養剤が注入されていました。
いつからそのような処置をするという説明もなく、いつの間にか「こんなことになってしまった」という感じでした。
しかし、それをどう受け止めていいか分からず、それが必要なことなのか必要でないのか、病院に任せていいのか任せる以外にないのか。ぼんやり眺めることしかできませんでした。
看護師の話では、朝と晩の決まった時間に栄養剤を流し込むということでした。
注入されている時、見ていると苦しそうに顔をゆがめることもありました。
その時の父は、意思を伝えられないだけで意識がなかったのではないと思われます。
もし意識があり意思があったのだとすれば、それはどんな思いだったのか。
後から思えば、「静かに死なせてくれ」と願っていたのではなかったか。
結局父は、その栄養剤が喉に詰まって窒息して誰もいない病室で亡くなりました。12年前のことです。
苦しんだに違いないと思います。
「お願いして早く抜いてもらえばよかった」と後悔しました。
本人が意思を伝えられる状態の時はなかなか終末治療のことについては触れられず、意識が混濁してからは病院にお任せする以外にないというのが医療の現状ではないでしょうか。
家族が病院にお任せする以外の選択肢と方法を持ち合わせていないということも現実だと思われます。
現代の医療が、どんな状態でも命を長らえることを唯一の使命だとしているのだとすれば、もっと限定的に言うと、恢復の見込みのない老人患者を命を長らえさせるためだけに苦しみを伴う医療行為を行うことは、もしかしたらそれは「自然に死ぬ権利」を奪っているのではないかと思うところです。
私が最近の医療の実情を知らないのかもしれませんし、誤解があるのかもしれません。ご批判を待ちます。
現代の我々には「自然な死」を迎えるということは難しいのでしょうか。
医療関係者だけでなく、宗教者や学者、一般市民も巻き込んで、死をどう迎えるのか、その多様性についても議論する必要があるように思います。

今年最後のサンサンラジオとなりました。
どうぞよいお年をお迎えください。また来年もお立ち寄りいただけたら嬉しいです。


サンサンラジオ293 いまのきもち

2020年12月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第293回。12月20日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。

15日火曜日、もっちい、山形新電力の勉強会
19日土曜日、下小路部落役員会
その他法事が3件。
というような1週間でした。

天気予報通り、月曜日から雪が降りました。
平地ではほとんど初雪ですが、それにしてはどっさり降りました。もう根雪でしょうね。
屋根から落ちた雪が通路をふさぐので多いときは一日に3回も除雪しました。除雪機ですが。
暇なので、暇つぶしにはなるし体を動かすし、さほど困ったことはありません。
もう少し降れば屋根の雪下ろしをしなければならないのでそれは大変です。

昨日たまたまEテレで「心の時代」の再放送を観たら、カトリック吉祥寺教会の後藤神父を取り上げたものでした。
神父は、新潟長岡のお寺の生まれでクリスチャンになった人で、カンボジア難民の子どもたちを里子として受け入れ育て、カンボジアに学校を19棟建てられた人です。
私も何度か教会に訪ねたことがあります。
放送では、難民キャンプで知り合った私の「家族」も全員、当時の写真で出てきてました。
懐かしくなって思わず電話しました。携帯に番号が残っていたのです。
現在91歳ですが、お元気でお話をされ、曹洞宗ボランティア会の会員第1号になっていただいたことを覚えていらっしゃいました。
番組はとてもいい内容で、心が温かくなりました。

友人から本が送られてきました。プレゼントとのこと。
『中島みゆき 第二詩集 四十行のひとりごと』です。
この本が出版されたのはもちろん知っていましたが、中島みゆきのよさはやっぱり”歌”だと思っていて、詩と曲と歌い方と声で完成していると思っているので、詩だけにはそれほど関心はなくスルーしていました。
でも、いただいて、開封して、ページを開いて、立ったまま最後まで読んでしまいました。
詩だけでも彼女の世界と人間性が匂い立つようです。
詩は18編収録されており、それぞれがきっちり40行に収められています。彼女にとっては長い歌なのでしょう。
その内容は、歌と同じように(ある意味当然ですが)、弱い人にさりげなく寄り添い、「それもあるよね」と優しく語りかけます。
たとえばこんな感じ

 たまには膝をくずして どうぞ
 たまには心砕けて どうぞ
 お茶碗で てのひら温めて
 今日は お立場はお休みしましょう
 私はお寺の線香みたいに
 ずうっと ゆれゆれ聞いておりますから
 何んの役にも立たない線香ですけど
 ずうっと あなたに添うて流れておりますから (「おこわさんでも」)

そして、視野はまことに広く深い。
一人ひとりの悲しみに心を寄せながら、人間の根源的な混迷にも迫ります。

 「ありがとう」と感謝してもらいたいわけじゃないよね
 「偉かった」と誉めてもらいたいわけじゃないよね
 そんなこと聞く前に そそくさと去ってしまいたいよね
 でも少しは役に立てたかなと 心で思うだけで
 どうしてこんなに嬉しいのだろう 
 不思議な生き物だね 人間は  (「我々の宿題」)

基本的な「人間というもの」と「個別の苦悩」の問題がどちらが先かではなく、慈愛の目で見ればどちらも同じレベルでいとおしむことができるのでしょう。

 うぶすなは 何処ですか
 共通の敵がある時にだけ 人間は協力して闘って来た
 共通の敵がない時には 互いを敵と見做して闘って来た
 共喰いで絶滅した動物を 人間は嗤えない
 遠い星の架空の生物の話ではない
 同じ血から分かれた人類の話だ  (「産土(うぶすな)」)

今年はラストツアーが山形でも4月に開催される予定でチケットを確保していましたが、中止となってしまいました。
コロナが収まったら再開されるのかどうか、全く分かりません。
一部報道では、買い物カートを引いて歩く隠し撮り写真とともに「このまま引退か」などという不穏な情報も流れました。
でも、年5回発行されるファンクラブ会報「なみふく」の最新号も来ましたので、このまま引退ということはないと思われます。
今回の記事は、これまで彼女のジャケットの写真撮影を担当してきたカメラマン田村仁氏のインタビュー記事で、撮影秘話が明かされます。
この田村氏、『蕎麦屋』に出てくる「おまえ」その人だと言われています。

この詩集に触発されて、オリジナルCDを新しい方から順に聴いています。
それでも、何と言っても43枚ありますからね、全部聴くには相当時間がかかります。
今流れているのは32枚目のアルバム「いまのきもち」です。ジャケットもきれいです。
私の心の何割か、3割?、は中島みゆきでできています。
同じ時代に生きていることを心から嬉しく思います。
大雪も見ようによっては「美雪」です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンサンラジオ292 けものみち

2020年12月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第292回。12月13日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。

10日木曜日、シャンティリモート理事会、教化センターリモート委員会
12日土曜日、シャンティ40周年オンラインイベント
その他法事が4件。
というような1週間でした。

10日、同日同時間のリモート会議が2件入っていて、場所は東京と仙台ですから本来ならどちらかは必ず欠席しなければなりません。でも、もしかしたらリモートだとどちらも出席できるのではないかと思いやってみました。
パソコン2台を前にして、イヤホンを別々の耳にして2つの画面を見ながら臨みました。頭が割れそうでした。
当然どちらかはおろそかになります。というか両方がおろそかだったかもしれません。それでも画面上は両方出席できたことになります。
リモートだとそんなこともできることが分かりましたが、頭が痛くなるのでお勧めはしません。

12日は、シャンティ40周年記念という大きなイベントでしたが結局オンライン開催となりました。計画段階ではもちろん、一堂に会してという予定でした、なかなかコロナが収まらず、途中から会場とオンラインと併用のハイブリットという形式でとなりました。私も東京会場に出席という計画でしたが、感染者数は増加するばかりで、とても今上京する状況ではないと判断しました。
内容は、NHKキャスターの有馬嘉男さんと当会のタイ在住八木沢克昌さんの対談、その後当会海外事務所を結んでのトークというオンラインならではの内容でした。
現在シャンティの海外事務所は、カンボジア、ラオス、アフガニスタン、ミャンマー、ネパール、それにミャンマー難民キャンプの6か所です。それぞれに日本人所長と現地スタッフが勤務して、図書館活動を中心に教育支援活動を行っています。ただし、アフガニスタンとミャンマー所長は、治安とコロナの問題で日本在住となっています。
民族も言葉も文化も宗教も違う人々が、同じ目的に向かって活動を続けている姿を見るのは感動を覚えます。
毎年この時期に「シャンティの日」が開催され、私が「シャンティ宣言」を読むことになっています。今回も読み上げました。
それにはこうあります。

NGOの道は「けものみち」を行くのに似ているー。
シャンティ発展の礎となり、中心となった先達、故有馬実成師はこう語った。
インドシナ難民の支援活動から始まった我々の道程は、文字通り、道なき道を行くに等しかった。
お金も知識も技術もない、すぶの素人集団による手探りの歩みだった。
「苦しむ人を座視できない」「子どもの笑顔こそ未来の希望」-。
そんな思いで活動を続けてきた我々は、むしろ、数多くの人々に支えられ、助けられ、学んだのは我々自身だったことに気づかされた。
<シャンティ>ー平和・寂静ー。
我々の願いがここに込められている。
あらゆる民族や文化や立場の違いを超え、一人ひとりの人間の尊厳が尊重され、一人ひとりが主人公となり、心の平安のうちに生きる。
それこそ世界の平和の基である。
時あたかも、テロの恐怖や民族間の対立などによって、混迷を深める現代世界。
しかし、憎しみに対し、憎しみで応ずることによって決して平和が訪れることはない。
心の平安に根差した社会の平和ーシャンティが今こそ求められている。
12月10日。この日は、1981年、シャンティが設立総会を開催した日。
すなわち、我々がその志と願いを高らかに宣言し、お互いの連帯と協働を誓い合った日である。
この日を、我々シャンティの原点回帰の時としよう。
そして、我々の志と願いを高め合い、お互いの絆をさらに強く結び、さらなる道程へと新たな一歩を踏み出そうではないか。
<自らを変え、社会を変える><共に生き、共に学ぶ>-。
一人の傑出した覚者や為政者が世界を導く時代は終わった。
一人ひとりの平凡な市民が覚醒し、立ち上がり、手をつなぎ、世界を動かす時が来た。

イベントにはオンラインとYouTubeの視聴も含めて200名以上の皆さんの参加があったようです。けものみちが大道になりました。
通常のイベントにはそれほどの人数が集まりませんので、オンラインでのいいところではあると思います。
ただ、手を握ったり抱き合ったり、いわば触れ合いのない会合は、スマートすぎて味気ない感じは否めません。
酔うほどに口角泡を飛ばし、何度も何度も握手したり、肩を組んで歌ったり、濃厚すぎるほどの接触が恋しいこの頃です。
終わってからオンラインの懇親会があって、飲みながら10時を回っても続きましたが眠くて途中で退出しました。

今、自伝的なものを書いています。
父親の生涯をまとめて『千代亀』に書きましたが、自分の分も書いておこうと思いました。暇だし。
間もなく完成しますので、もう少ししたら、少しづつブログにUPしていきたいと思っています。
人生は、誰しもたった一人、道なき道「けものみち」を行くようなものです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

有馬実成師ご遷化から 20 年、シャンティ設立 40 周年への思い

2020年12月08日 12時48分48秒 | シャンティ国際ボランティア会
 2000年9月18日、有馬実成師は遷化した。享年65歳だった。
 その日私は山口赤十字病院を訪ねた。もう長くはないと分かっていた。最後にその煖皮肉に触れたいと思った。緩和ケアの病室は和風の設えで自宅の部屋にいるような雰囲気を醸し出す工夫が施されていた。ご家族が見守る中、ベッドに横たわり大きな呼吸をされていた。
ご子息が「三部さんが来てくれたよ」と耳元で呼びかけると口元をゆがめ微笑んだように見えた。「すごいよ親父!笑ったよ」と叫んでいた。
 その後まもなく主治医から「ご家族だけにしてあげてください」と告げられ、角直彦師の寺で休ませてもらっていた。2時間ぐらい経ったろうか、息を引き取られたという連絡が入り、病室に戻った。ご家族はご遺体を囲んで荷物の整理をされていた。高校野球の敗戦チームがベンチの整理をしているような敗北感を感じた。「有馬さん、負けちゃったね」。
 師は、智慧と慈悲を兼ね備えた人だった。
 師の知識は余人の及ばない膨大な量で、仏教はもちろん、歴史、文学、民俗学、音楽、美術、陶芸、どの分野においても深い造詣を有していた。
 「知識と智慧は違う」とはよく言われることだが、師の場合、知識を栄養として智慧を増長させていたのではないかと思う。
 慈悲を車のエンジンに例えるならば、ハンドルやアクセル・ブレーキを駆使して目的地に向かっていく技術が智慧と言ってもいいだろう。エンジンがなければ前には進まないが、運転技術がなければ暴走してしまう。その両方を備えていたのが有馬師だったと思う。
 師の思想の発火点となったのは、父親が出征して帰らなかったこと、そして戦後目の当たりにした朝鮮民族への差別事例の体験だったかもしれない。人の悲しみを源として、その慈悲心の発露が生涯を通じて行動の原点となったのではないかと思われる。
 師はよく「慈悲の社会化」と口にされていた。私ははじめ、それは論理的におかしいのではないかと思った。慈悲は一人一人の心の問題であって、社会に結びつけるものではないと思ったからだ。しかし、それは私の浅慮だったと気づくようになった。
 世界各地で止まない戦争や紛争、人権差別、自殺、障がい者、老人問題などなど、諸問題に向かいその解決方法を考える時、その答えは仏教の中にあるのではないか、それは、一人一人の慈悲心を開発し広げていく、あるいは結んでいくことで成し遂げられる、平和な社会の実現ではないか、それを「慈悲の社会化」と呼んだのに違いないと思えるようになった。
 こんなことも言っておられた。「国際化というのは都会のインテリが議論していただけではダメだ。地方の親父たちが野良仕事の帰りに土手に腰掛けて煙草など吹かしながら『ところで難民問題どう思う』などと言うような状況になって初めて国際化を果たしたと言える。それができるのは我々僧侶だ」と。師がシャンティボランティア会に目指した目標はそういうことだったように思う。
 「ボランティアなんて海底でうごめくヒラメみたいなものだよ」とも言っておられた。当に衆生と共に、社会の底辺からこの国を、世界を変えていく、そんなダイナミックな挑戦をしてみたかったのではないか、と思う。
 以来40年、師の遷化から20年、その遺志を継ごうとした者たちが、果たしてどれだけその理想に近づけたかと自問するに忸怩たるものがある。
しかし、遅々たる歩みではあるが、経行のごとく半歩ずつ前に進んでいることは感じている。師のように智慧と慈悲を兼備する人は稀かもしれない、であるならば、それぞれが持ち寄り足りないところを補い合いながら「慈悲の社会化」に向けてこれからも蝸牛の歩みを進めて行かなければならない。(曹洞宗報 令和2年12月号)
公益社団法人シャンティ国際ボランティア会
副会長 三部義道


サンサンラジオ291 子孫のための学び

2020年12月06日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第291回。12月6日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
30日月曜日、梅花講役員会
3日水曜日、もっちい例会
その他法事が4件。
というような1週間でした。

11月30日は、今日に予定していた梅花講総会のための役員会でしたが、結果として総会は中止としました。
総会よりもその後のにぎやかな懇親会が楽しみなのですが、このご時世ですから仕方ありません。
しかし矛盾してますよね。色んな集まりイベント、修学旅行や成人式も中止、親の葬式にも参列できないというのに、GoToではどんどん出かけろと言っているわけですから。
経済のためには矛盾にも目をつぶるというか、国民もうまい汁が吸えることには口をつぐんで、それはそれこれはこれと使い分けをしているようです。
矛盾に慣れるうちに、知らぬ間にモラルの崩壊とならなければいいのですが。崩壊と言えばその前に医療の崩壊が心配ですね。
医療関係者の負担軽減のためにも、それぞれが体調管理してケガなどもしないように気をつけなければなりません。ただ、そのせいで病院の経営が厳しくなっているとも聞きます。
社会の保証をするなら、まず真っ先に医療関係者への補償を優先すべきと思います。
大衆に目くらましのような飴玉を与えるために最も大切な基盤を崩壊させないように願うばかりです。

今年もあと1か月。今年はコロナで明け暮れた一年でしたね。来年収まるという約束もありませんが。
100年前もパンデミック、感染症の世界的大流行があったそうですが、グローバル社会の現代、世界のどこでどれほど流行しているかを毎日知ることができます。
国によって抑え込みが成功している国とそうでない国があることも分かり、それぞれの国の性格が分かるような気がします。
我々の先祖は、これまで何度も、過酷な状況を乗り越えて生きてきました。その生き残りの子孫が我々です。
だとするならば、現代の我々も、何とかこの試練を乗り越えて、我々の子孫に生き残って見せなければなりません。
戦後の日本社会を「平和ボケ」などと揶揄されたこともありましたが、戦争がなくとも、現実はなかなか厳しい社会の中にあります。
ボケるほどの平和はありがたいと思いますが、そう長続きするものではないのかもしれません。残念ながら。

ハチドリは、世界最小の鳥で、その中でもキューバに生息するマメハチドリは最も小さく体長6㎝、体重2gしかありません。
ノドアカハチドリは、越冬のためメキシコ湾800㎞をノンストップで渡ることができます。そのために、渡りの前には脂肪を蓄えて体重が2倍になると言われています。
とても不思議に思います。
ハチドリは、海を渡った800㎞先に餌となる花があるとどうやって知ったのだろうか。800㎞渡るために体重を2倍にまで脂肪を蓄えなければならないとどうやって分かったのだろうか。その渡りを成功させるまでに数知れない失敗があったわけで、失敗して死んでしまった学びをどうやって子孫に伝えたのだろうか。
それで考えました。その答えはきっとこうです。
たまたま成功した個体の子孫だけが生き残ったのだと。
同じようなことは別の例でもあります。
今「山菜」と呼ばれているものはいわゆる野草で、その種類は数えきれないほどあるはず。なのに何故この種類だけが選ばれたのか。
その答えはきっとこうです。
おそらくは縄文の時代から、我々の祖先は全ての植物を食べてみたのだと。その中で、毒のないもの、腹をこわさないもの、繰り返し食べたいものだけが残ってきたのだと。
生で食べられないものは、煮たり焼いたり漬けたり干したりして、食べられるものだけが後世まで残ったのでしょう。
そうでなければ、例えばゼンマイなど、乾燥させて水で戻してからでなければ食べられないものを食べるようになるはずがありません。
毒キノコが毒だと分かるまでにはかなりの犠牲もあったはずで、その命も含めて今いただいているのです。

コロナで困難な状況にあるのは、子孫のための学びだと受け止めたいと思います。
犠牲があったとしてもそれが学びとして活かされるならば後世のためになることです。
だからこそ、過ちを繰り返してはなりません。犠牲を無駄にしてはなりません。過去から学ばないのは愚です。
祖先の苦労や試練や冒険、犠牲も含めて、それをありがたく頂戴する気持ちがあれば、自らが未来の礎になることを厭う必要もないでしょう。
今の、自分の利益だけを追求して、未来の、全体の幸福を潰してしまうことがあってはなりません。
歴史的に見て、強い者だけが生き残ってきたのではないと思います。
時代や環境に適用し、順応できた柔軟さこそが生き残る力ではないかと考えます。
もっとも、順応できない頑なさにも魅力を感じますが。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。