三ちゃんのサンデーサンライズ。第427回。令和5年7月30日、日曜日。
酷暑が続いています。
危険な暑さと注意喚起される通り、命にかかわる気温のようです。
年々暑くなっているように感じます。自然災害の多発と無関係ではないでしょう。
やはり温暖化を止めていかない限り、快適な夏はなくなっていくのでしょうね。
それでも東北の山の端はまだ、朝晩が涼しいだけ過ごしやすいと思います。いずれ、夏の涼しい所を目指して移住が進むかもしれません。
受け入れの準備をしておきましょう。
朝の散歩のお伴はNHKのらじるらじるです。
「朗読の世界」の野坂昭如著『火垂るの墓』を聴いていましたが、月曜日で全6回が完結しました。
この作品はアニメ映画が有名で、何度もテレビ放映されました。
海軍中尉だった父親は戦争から帰らず、病弱の母は14歳の清太と4歳の節子を遺して空襲で亡くなります。
家を焼かれ、遠縁にあたる未亡人の家に身を寄せますが、次第に邪険にされ、居られなくなり、池のそばの横穴に身を隠します。
清太は幼い節子を守るために必死に生きようとします。
母の形見の着物を米や野菜に替え、それがなくなると畑の野菜を盗み、見つかっては殴られます。
空襲で皆が防空壕に逃げ込むと、稼ぎ時とばかりに留守宅に入っては食べ物や着物を盗みます。
それでも食べ物は足りず、節子はどんどん痩せていきます。
池の水に映る自分とジャンケンを繰り返して遊ぶ節子。ドロップの缶に水を入れて味わう節子。ドロップの代わりにおはじきを舐める節子。
蛍と遊び、蛍の墓を作る節子。
栄養失調で下痢が止まらない節子。衰弱したまま動かなくなる節子。
やがて清太も、ガード下で幼い命を終えました。
あまりにも不憫で、どうしようもなく不憫で。
思い出しただけで胸が痛くなります。
私は以前、節子に戒名をつけました。
「蛍節童女」。
山寺や高野山や永平寺や、供養してくれるお寺に行く度、私は節子の戒名を書いて供養を申し込んできました。
この度、清太にも戒名をつけたいと思いました。
「夏星清光童児」。二人の冥福を祈ります。
この国に戦争がありました。
清太や節子のような子どもがたくさんいたはずです。
二度と戦争をしてはならないと誓って78年が経ちました。
この間、平和を享受しながら、経済発展し、便利な生活を手にしてきました。
それなのに。
なぜ、多くの国民が生きづらさを感じているのでしょうか。
子どもの貧困、虐待、多くの自殺者、無差別の暴力、殺人、老人の財布をねらう詐欺。
平和であることが全てにおいての基盤であり、幸せな生活を送れる基であるはずなのに。
この平和な国において、何が不満なのか、何が足りないのか。
戦後の復興を経済の力に委ね、幸せを経済の価値に置き換えて来てしまったこの国。
祭りや葬儀、いわゆる葬祭という行事は、自然や神や亡き先祖という見えない存在に心の拠り所を見出す、経済とは別の価値でした。
そういう場にめぐり会う機会がどんどん削除され、経済的価値のみに判断基準が置き換わることでもたらされる心の拠り所の喪失。
今後この国は一体どんな国になるのでしょうか。酷暑の中に肌寒ささえ感じます。
親を思う人は子どもを大切にするでしょう。子どもを思う人は親を大切にするでしょう。
親子の情は、一方方向ではなく両方向に亘るものだと思います。
そんな人間の根本的な感情を喪失してしまっては、幸せを感じることなどできないと言わざるを得ません。
8月が近くなると、この国では戦争のエピソード、原爆の話題が多く報道されます。
悲惨な時代、悲惨な出来事、人々の悲しみから目をそらしてはなりません。
そこから学ばなければ、悲惨な思いをした人々を捨て石に、見殺しにすることになるでしょう。
その死を無駄にせず、平和で幸せな時代をありがたいと受け止めることで生かしていく以外にありません。
清太、節子の命を思いながら8月を迎えます。
せめて、お盆にお墓に手を合わせることで、日本人の心の拠り所を継承していきたいと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
酷暑が続いています。
危険な暑さと注意喚起される通り、命にかかわる気温のようです。
年々暑くなっているように感じます。自然災害の多発と無関係ではないでしょう。
やはり温暖化を止めていかない限り、快適な夏はなくなっていくのでしょうね。
それでも東北の山の端はまだ、朝晩が涼しいだけ過ごしやすいと思います。いずれ、夏の涼しい所を目指して移住が進むかもしれません。
受け入れの準備をしておきましょう。
朝の散歩のお伴はNHKのらじるらじるです。
「朗読の世界」の野坂昭如著『火垂るの墓』を聴いていましたが、月曜日で全6回が完結しました。
この作品はアニメ映画が有名で、何度もテレビ放映されました。
海軍中尉だった父親は戦争から帰らず、病弱の母は14歳の清太と4歳の節子を遺して空襲で亡くなります。
家を焼かれ、遠縁にあたる未亡人の家に身を寄せますが、次第に邪険にされ、居られなくなり、池のそばの横穴に身を隠します。
清太は幼い節子を守るために必死に生きようとします。
母の形見の着物を米や野菜に替え、それがなくなると畑の野菜を盗み、見つかっては殴られます。
空襲で皆が防空壕に逃げ込むと、稼ぎ時とばかりに留守宅に入っては食べ物や着物を盗みます。
それでも食べ物は足りず、節子はどんどん痩せていきます。
池の水に映る自分とジャンケンを繰り返して遊ぶ節子。ドロップの缶に水を入れて味わう節子。ドロップの代わりにおはじきを舐める節子。
蛍と遊び、蛍の墓を作る節子。
栄養失調で下痢が止まらない節子。衰弱したまま動かなくなる節子。
やがて清太も、ガード下で幼い命を終えました。
あまりにも不憫で、どうしようもなく不憫で。
思い出しただけで胸が痛くなります。
私は以前、節子に戒名をつけました。
「蛍節童女」。
山寺や高野山や永平寺や、供養してくれるお寺に行く度、私は節子の戒名を書いて供養を申し込んできました。
この度、清太にも戒名をつけたいと思いました。
「夏星清光童児」。二人の冥福を祈ります。
この国に戦争がありました。
清太や節子のような子どもがたくさんいたはずです。
二度と戦争をしてはならないと誓って78年が経ちました。
この間、平和を享受しながら、経済発展し、便利な生活を手にしてきました。
それなのに。
なぜ、多くの国民が生きづらさを感じているのでしょうか。
子どもの貧困、虐待、多くの自殺者、無差別の暴力、殺人、老人の財布をねらう詐欺。
平和であることが全てにおいての基盤であり、幸せな生活を送れる基であるはずなのに。
この平和な国において、何が不満なのか、何が足りないのか。
戦後の復興を経済の力に委ね、幸せを経済の価値に置き換えて来てしまったこの国。
祭りや葬儀、いわゆる葬祭という行事は、自然や神や亡き先祖という見えない存在に心の拠り所を見出す、経済とは別の価値でした。
そういう場にめぐり会う機会がどんどん削除され、経済的価値のみに判断基準が置き換わることでもたらされる心の拠り所の喪失。
今後この国は一体どんな国になるのでしょうか。酷暑の中に肌寒ささえ感じます。
親を思う人は子どもを大切にするでしょう。子どもを思う人は親を大切にするでしょう。
親子の情は、一方方向ではなく両方向に亘るものだと思います。
そんな人間の根本的な感情を喪失してしまっては、幸せを感じることなどできないと言わざるを得ません。
8月が近くなると、この国では戦争のエピソード、原爆の話題が多く報道されます。
悲惨な時代、悲惨な出来事、人々の悲しみから目をそらしてはなりません。
そこから学ばなければ、悲惨な思いをした人々を捨て石に、見殺しにすることになるでしょう。
その死を無駄にせず、平和で幸せな時代をありがたいと受け止めることで生かしていく以外にありません。
清太、節子の命を思いながら8月を迎えます。
せめて、お盆にお墓に手を合わせることで、日本人の心の拠り所を継承していきたいと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。