なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大丈夫か中学生

2015年02月16日 21時43分08秒 | ふと、考えた
1年生と3年生の違いなのか、あるいは学校全体の違いなのか、たまたまその学年のことなのか。
今日話をさせてもらった中学1年生91名の様子は、あまりにも幼稚だった。
先日の中学3年生の感想文に感動して、瑞々しい中学生にもっともっと話したいと思って意気込んで臨んだ。
1年間総合学習で環境問題を学んできた学年だというので、環境の問題に触れながら、世界の厳しい環境に生きる子どもたちのこと、豊かさとは何か、自分の時間、などについて自分なりに力を入れて語ったつもりだった。
しかし、目の前で最初から最後まで隣の子とふざけている生徒、話が始まってもザワザワと騒々しい小学生のような雰囲気。これで中学生として1年間過ごしてきた結果なんだろうか。
3クラスで、クラスによっても違うとのことだったが、こんな様子で毎日授業が進んでいるのだろうか。それは先生は大変だろう。しかし、先生方に問題はないのだろうか。
生徒に自主性をもたせるということか進行や前後の挨拶も生徒が行っていたが、外部の講師を招いての講義にもう少し緊張感をもたせたらどうなのだろうか。
到着時間がギリギリになってしまい急いで玄関に入っていったが、迎えてくれる人がいるわけでもなく、スリッパが用意されているわけでもなく、どこに行っていいのやら、事務員に尋ねると職員室にどうぞと、職員室がどこかもわからない。
職員室から校長室に通され、時間が過ぎたのに「迎えが来るので待ってください」と。
限られた時間で精一杯伝えたいと思っているのに出鼻がくじかれた。
そのあたりから、これはちょっとおかしいなと予感があった。
わざわざ外来の講師を呼んで、子どもたちに何を聴かせようと思っているのか。
先生方の向き合い方がそのまま生徒の態度に表れていると思わざるを得なかった。
中学2年になろうとする年頃は、将来の生き方を方向付ける決定的な出会いがあるような柔軟な時代だろう。
そんな子どもたちをどう導いていこうとしているのか。他人事のように傍観しているような様子では子どもたちがかわいそうではないか。
最後に主任の先生が「講師の先生がみなさんの態度をどのように見られたのかとても心配です」と怒りを抑えて語ってくれて、少し救われたような気がしたが、それでも、そうならば始まりの時からそのような緊張感で進めればよかったのではないか。

いずれにせよ、これが現実だとすれば、この国の未来はどうなってしまうのだろうか。こんなに子どもっぽい13歳は世界中どこを探してもいないのではないだろうか。心から不安になってしまった。

中学生の感想文

2015年02月12日 17時38分54秒 | ふと、考えた
昨年12月に、河北中学校3年生対象の「進路講話」というのに呼ばれて話をしてきたことは先に触れました。
その感想文をいただきながら、ある忘年会で受け取ったため、そのまま人に「読んでみて」と預けていました。
ようやく手元に返ってきて、読み返してみました。酔った頭で読んだ時にはいたく感動して人に貸したわけだが、冷めた頭で読んでみれば、感動というほどでもないか、という感じです。
ただ、話をよく聴いてくれたんだということは伝わる内容ばかりでした(そういう感想文を選んで渡してくれたのだと思いますが)。
その中から一人の感想文を紹介します。

私は三部義道さんのお話を聞いて、自分の命がとても大事なことが改めてわかしました。
「命の所有権はないが、使用権はある」という言葉にとても感動しました。
自分の時間をどのように使い、どのように考えるかで人生は変わっていくのだと思いました。
また、子どもを売っている国があると聞いてとてもびっくりしたし、悲しくなりました。
1年間で約10万人の子どもが売買されているのはとてもおどろきました。
日本はとても幸せな国だと実感しました。
私たちは、勉強もでき、ご飯も食べることができ、住む家もあることが、どれだけ幸せなことか改めてわかりました。
自分の命を大事にして、周りのことも考えて生活していきたいと思います。
また、朝起きたらすぐに顔を洗う習慣もつけていきたいです。
三部さんのお話を聞くことができて本当によかったです。

こういう感想をいただくと、話してよかったなと思います。
どんな大人になるのかの方向が少し見えてきたら、まさに進路講話だったかもしれません。
来週には新庄の中学校で講話の時間をいただいています。


赤目のかど

2015年02月06日 14時38分06秒 | ふと、考えた
「かど売っでだげど、目が赤ぐないがら買うのやめだ」と母親が言った。
「かど」はニシンのこと、新鮮なニシンは目が赤いそうで、「目が赤いのはうまそう」なのだそうだ。
東北ではニシンを古くから「かど」と呼んできた。
昔はずいぶん穫れて、2月~3月に新かどが出回ると、箱買いをして軒先に吊していた。川原などで炭火で焼いて食べる「かどやき」は春を迎えた喜びとして風物詩ともなっていた。らしい。
その時に、新鮮なものを選ぼうと目の赤さを見たというわけだ。
その後、余市の熊さんではないが、乱獲のせいかニシンは激減していった。ニシン御殿もさびれて「石狩挽歌」の歌詞となった。
「かど」は和名、「ニシン」はアイヌ語。
元々東北、北海道でよく穫れて、それぞれ呼び名が違っていた。
それがなぜ日本の多くの地域で「かど」ではなく「ニシン」と呼ばれているのか。
北海道で大量に穫れたニシンは、はらわたを取って脂を搾った後、俵に詰めて肥料として北前船で近畿に運ばれた。
その肥料で瀬戸内を中心に綿花栽培が盛んに行われ、木綿が生産され着物が織られた。
それまでの日本人の着物は、貴族・豪族の絹かそれ以外は麻がほとんどで、冬の寒さを凌ぐのが難儀だった。
一般人にも手が届く木綿の着物で冬を越すことが容易になったことから、人口が爆発的に増えていった、という話を読んだことがある。
近畿に運ばれたニシンの中には、肥料ばかりでなく、はらわたを取って乾燥した状態で運ばれてくるものもあった、それが「身欠きニシン」だ。これが食べ物として、京ではニシン蕎麦などとして広まっていった。
近畿から西へ、そして関東へと北上して全国的に「ニシン」が通称となり、「かど」が残ったのは東北だけということになった。
しかし、その一部分によって「かど」の名は全国的にかろうじて広まり残ることになった。
それは「数の子」。つまり「かどの子」なのだ。
なぜニシンの子は「かどの子」として広まったのか。
これは私の勝手な推測だが、北海道で穫れたニシンはほとんどが肥料として「輸出」されたもので、卵も含めて内臓を食べるという習慣がなかったのではないか(アイヌの人々にもその習慣はなかったのではないか)。あるいは貯蔵技術が確立されておらず、運搬には向かなかったのかもしれない。
陸奥の国では、かどは大事な食料で、身はもちろん、内臓まできれいに食べたのではなかったか。特にかどの子は、きれいな色とその食感で、珍味として食べられていたのだと推測する。
それが珍味「かどの子」として独立して江戸まで南下して行ったのではなかったか。
ニシンは船で南へ、数の子は陸で南へ。
運搬方法によって名前の伝搬も違ってきたもののような気がする。

新かどが出回る頃らしい。母親の眼鏡にかなう赤目のかどが見つかるか。