なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ431 やらないけどね

2023年08月27日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第431回。令和5年8月27日、日曜日。

高校野球、仙台育英の連覇はなりませんでした。
今回は間違いないと思われましたがなかなか厳しいですね。
坊主頭でなくても勝てるんだ、と、ちょっと残念。
ヘルメットをかぶっている時は分からないのですが、とるとその下から現れるフサフサした髪に違和感を覚えたのは私だけ?
昭和人は、高校野球に勝手なイメージを固定化して押し付けて勝手に期待してしまっていたのでしょうか。
純粋さやひたむきさ、真っ黒なユニフォーム、大声、汗、笑顔、涙。
スマートさよりもありのまま、イケメンよりもニキビ面、その象徴として坊主頭に感情を託していたように思います。
昭和人は、『巨人の星』の花形満にいだいた違和感を今も引きずっているのかもしれません。
監督が優勝インタビューで語っていたように、「変わる」ことに意義を見出しているのが平成以降のオーディエンスなのでしょう。
フサフサでも勝てるならば、と他の高校もこぞって脱坊主になるかもしれません。昭和は遠くになっていくのです。
考えてみれば、「坊主頭」はその名のとおり和尚の髪型?なのです。
和尚が頭を丸めるのは、「あれは和尚だ」と周囲に認知されるためです。
その周囲の目を意識して、和尚らしく振舞うことを自らに規制する助けとしました。
高校野球に置き換えれば、色恋よりも野球に打ち込むための自制としていたものでしょう。
しかしそれも、時代によって、自主性を重んじ、形ではなく、あくまでも自律を信じて任せることで、のびのびと野球ができ、結果もついてくるのであれば、昭和人の期待のために坊主にする必要はありません。残念ですが。

気になっていた裏庭の草むしりをしました。
気にはなっていましたが、暑いのでためらって、陽が陰った午後を見計らって外に出ました。
お盆前に、横着をして草刈機で表面を刈ったのですが、バリカンで頭を刈ったようなもので毛根が残っているのですぐに伸びてしまったのです。
やはり根っこからむしり取らないとダメだということがよく分かりました。
私は、膝にニーパッドをつけて四つん這いになり、道具も使わず手でむしるのですが、目の前の草に集中しているといつの間にか最後まで到達しています。
その時、ふと父親の言葉が甦りました。
「いろんなことを考えるから草むしりはいい」。
若い頃、と言っても、学生の頃までは父親の側に近づくことはあり得なかったので、永平寺の修行から帰ってきた頃だと思います。草をむしりながら語る父親の言葉を側で聞いたのを思い出したのです。
父親にとって草むしりは、思索の時間だったのでしょう。
色んなことを思い出したり、今後のことを考えたり、人間関係や言葉のやりとり、這いつくばって手を動かしながら自分の考えをまとめていく、そんな時間だったのだろうと思い至りました。
そんなことを考えた私の草むしりの時間は、父親と同じ時間だったかもしれません。
時を隔て、場所を隔ててはいても、言葉を頼りに父親と同じ時間を過ごすことができる。行為とはそういうものかと感じました。
きっと、父親が側で「なあ、んだべ」と笑顔で頷いていたような気がします。
伝えたその時にその言葉を受け止めることはできなくても、時間が経って頷けることもある。
だから、言うべきことは言っておかなければならないと思ったことです。
同じ行為を通して、言葉が浮き上がってくる。行為が言葉を釣り上げ、しっかりと腹落ちしていく。

 潜行密用は愚の如く魯の如し。只能く相続するを主中の主と名づく(『宝鏡三昧』)

先週のこの記事で、カミさんに万が一のことがあればと書きましたが、その朝のこと、熱があるというのでコロナ検査キットで試検の結果、陽性反応が出ました。
正式には次の日の病院の検査を待つことになりますが、その結果も「間違いない」とのことでした。
以来カミさんは寝室に籠りっきりなので、早速に家事を担うこととなりました。
洗濯物を干したり、三度の食事を準備したり、スーパーに買い物に行ったり。銀行の記帳や預け入れ、振り込みなどなど、結構やることはあります。
こんなことを毎日何十年もやって来ていたんだなと体感したところです。
食事の準備などは、やってみると楽しみを感じるところもない訳ではありません。ナスも漬けました。
やればできる子なんですよ。やらないけどね。
お蔭をもちまして、6日目に陰性に転じましたので他事ながらご休心を。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ430 みんな死ぬんだなあ

2023年08月20日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第430回。令和5年8月20日、日曜日。

夜明けの時間が急に遅くなったっように感じます。
酷暑の中でも季節は確実に動いています。
農作物にもこの暑さと雨不足は影響を及ぼしているようですが、何とか持ちこたえてくれればと願っています。
そんな矢先、金曜日夕方、最上町に記録的短時間大雨情報が出ました。
1時間に100ミリの雨が降ったということでしたが、幸い心配された被害もなく安堵しました。
雨が欲しいといっても、こんなにまとまって降らなくても思います。
とにかく今年の夏は高温と降雨不足で農家は悩まされました。
生育の悪いアスパラに頭を抱えながらそれでもヘッドライトをつけて夜明け前から働く畑のそばで、ただ坐ったり散歩したりの和尚は肩身の狭い思いをしていました。申し訳けないとも思います。
和尚にできることと言えば、朝の読経で「風雨順調」を祈ることぐらいです。
和尚は檀家のお布施で生きています。
和尚の収入は労働の対価ではなく、いわば「いただきもの」に依っているのです。
いただきものは、施主の「お気持ち」ですから、檀家の浮沈は和尚の浮沈と一如です。
お寺のために檀家があるではありません。そう勘違いしているだろう和尚もいますがそれは間違いです。
お寺の以前に衆生はあり、衆生の救いのためにお寺がつくられ、やがて檀家となりました。
お寺がなくなっても衆生は生きていけますが、檀家がなくなってお寺が生き残るのは難しいでしょう。
檀家に頼らないお寺の在り方もありますが、それができるのは極わずかなお寺です。
なので、ひでりの時はおろおろ歩くのが和尚の姿なのだと心得ています。

今机に向かって手を動かしていることは、色々ありますが、物置の二階に増築、が頭に浮かびその図面を描くことに没頭していました。
元々設計が好きなので、方眼紙に線を引き始めるととめどなく構想が浮かび、他の用事はそっちのけで時間が経つのも忘れます。
始まりは、屋根の構造を変えて雪の落ちる場所を見なおそうと考えたのですが、それならば物置に二階を上げて客間を作ったらどうかと構想が広がったのでした。
趣味のつもりですが、図面が出来上がってくると実際に形にしてみたくなるから困ります。
カミさんに話をすると、「趣味ね、趣味ならどうぞ好きなだけ描いてください」と予想通りのお答え。
おもしろいと思うんだけど、実際にはそう簡単ではありません。
趣味のままで終わってしまう公算が高いです。

今年新盆を迎えた精霊はいつになく多く、その中には同級生の親がたくさん含まれます。わが母もその一人です。
そういう年代を迎えたのだということですが、たまたまこの一年で続いてしまったのでした。
そして、改めて「みんな死ぬんだなあ」と、当たり前のことをしみじみと感じる一年となりました。
身近な人の死に触れて別れを実感することがありますね。
その流れで、カミさんが死んだら、と想像してみました。
もちろん、間違いなく自分が先に逝くと想定していますが、こればかりは絶対とは言えないので、万が一のことを想像してみることがあってもいいでしょう。
新聞を読んでいてもご飯が出てくる。脱いだものを洗面所に置いておけば洗われて畳まれて所定の場所に収まっている。定期的に寝床のシーツが替えられている。出かける前には財布に適当なお金が入っている。
生活面のほとんどは彼女に依存してしまっています。
有り難いと思いながら、習慣になるとそれが当たり前のことと受け止めている節があります。甘やかされてきたのですね。
もし、その当たり前が失われてしまうとしたら、かなり困難な状況になることは想像に難くありません。
万が一そうなれば、その中で生きていくほかはないのですが、どっぷりと当たり前に甘えてしまっていることに少しく思い至ったことでした。
暑さに弱い彼女がこの夏とても体力を消耗して辛そうだったことで、自分のあり様を顧みることとなりました。
「みんな死ぬ」。自分から遠い人のことは「みんな」でくくられますが、最も大切な人は「みんな」には含まれませんね、きっと。
誰が何人死のうが、たった一人の死と比べようもありませんし、みんな死ぬのだからといって慰められることでもありません。
自分の死より辛い別れ、それを想定して今を生きていかなければなりません。
結局自分のためのカミさんという視点でしかないではないか、というご批判は、この際置いておきます。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンデーサンライズ429 まだ要らない

2023年08月13日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第429回。令和5年8月13日、日曜日。

お盆に突入しました。
先週も暑かったですね。
先週も温暖化の話をしましたが、寒い時期に温暖化と言っても「それは結構なことだ」ぐらいにしか受け止められず、深刻には考えられないので、この酷暑の季節にこそ真剣に考えたいものです。
これから毎年こんな状況なら、いや、毎年どんどんこれ以上になるとしたなら、どうします?
50年前の暮らしを思い返してみると、田舎のほとんどの家にはエアコンというものがありませんでした。
家を開け放し、自然の風を取り入れ、良くても扇風機、なければ団扇で過ごしていました。
 寝ていても 団扇の動く 親心
冷蔵庫の中身は生鮮食品、肉や魚だけで、冷凍食品もありませんでした。
野菜や果物は流水で冷やして、それでも冷たいと感じて食べていました。
以来、どんどん電化が進み、二酸化炭素を排出して温暖化を招きました。
クーラーのある部屋から外に出ると余計に暑く感じるのと同じように、昔我慢できた暑さもどんどん我慢できなくなります。
実際にエアコンの使用により外は暑くなっているのですから、悪循環というか、雪だるま式というか、暑さは倍増するばかりです。
山形の夏の食べ物と言えば「みずかげまま」があります。
主に昼のメニューでしたが、朝の残りご飯に水をかけて、漬物でお茶漬けのようにして食べるという代物です。
京都で言えば「ぶぶづけ」なのでしょうが、山形の夏はただの水です。
食欲のない暑さの中でも、ササッと食べられ、漬物で塩分も摂れるので理にかなっていたかもしれません。

常夏のタイやカンボジアの田舎に行くと、昼寝をしている人が多く、訪れた日本人の中には「昼寝などしているから貧しいんだ」と揶揄する人もいましたが、それは実態を知らないからでした。
暑い日中は寝ている人も、朝晩は働いています。
カンボジアの電気のない村のお寺に泊まった夜、「説法に行くから行かないか」と言うので、住職についていきました。
夜なので慌てて懐中電灯を持ち出しましたが、外に出ると月が煌々と大地を照らしています。
木の影が黒々と映えるほどに明るいのでした。
「夜は暗い」と思い込んでいた日本人には驚きの光景でした。
懐中電灯を消して、田んぼの畦道を何の苦もなく歩いて行くと、遠くから賑やかな音楽が聞こえてきます。
近づいてみると、大勢の村人、老若男女がラジカセの音楽に合わせて賑やかに歌ったり踊ったりしています。
祭りか何かかと見ると、雨季の間に壊れた道を直しているんだとのこと。
月のうちの半分は、つまり満月の前後は、こうして村人みんなで道普請をするのだと。
それがまるで祭りのように、働く者がいれば踊るのもいて、子どもが楽しそうにはしゃいでいるのを目を細めて眺める老人。
みんなが集まるそのものが楽しみなのだと理解されました。
その村人の多くが、昼に寝ていた人たちでした。
決して怠惰なのではありませんでした。
物を持たないから貧しいのだろうと思ったことも違っていました。
誰一人取り残さず、みんなで集まることに意味を感じ、働く人も踊る人も眺める人も、それぞれに役割を果たしていたのだと思います。
その心は決して貧しいとは言えないでしょう。
近くの町まで電気は来ています。
「この村に電気は必要ないですか」と尋ねると村人は、「まだ要らない」と答えました。
そこにも豊かさを感じました。

我々は、何を求め何を失って来たのか、と考えます。
便利な道具は一旦手にしてしまうと、なくてはならないものになります。
便利なものは次々と開発されて留まることを知りません。
便利なものを手にする幸せ感は手にした一瞬だけで、次の瞬間から色褪せていきます。当たり前になるからです。
なので、一瞬の幸せを求めて限りない物欲に駆られるのです。
我々がなくしてはならなかったのは、「まだ要らない」という哲学だったのではないか、と思います。
かといって、今さらまだ要らないはあり得ないでしょう。
きっと、本当に痛い目に遭わない限り、もっと欲しい煩悩は変えられないのだと、残念ながら思います。
なので、戦争も核戦争もいいのかもしれません。
やるだけやって気がつけばそれでもいいし、気がついた時には遅いということでも仕方がありません。
21世紀に入った時に、もう人類は叡智を結集して平和で穏やかな時代へと進んで行くんだと勝手に思い込んでいましたが、とんでもなかったですね。
智慧も進歩もないんだと呆れています。なんかもう。
今週も暴言を吐いてしましました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンデーサンライズ428 燃える家の中で兄弟げんか

2023年08月06日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第428回。令和5年8月5日、日曜日。

8月に入っても暑い日が続いています。
亡くなる人もいますので、冗談ではありません。
ただ、朝坐禅の時、ガラス戸を開け放つと涼気が流れ込んでさわやかです。
この暑さが今後も続いて、益々ひどくなっていくのだとしたら、地球上の生命に危機をもたらすでしょう。
いや、危機はもう始まっているのだと受け止めなければなりません。
金曜日、地球温暖化防止活動推進員のフォローアップ研修がありました。
アメリカのデスバレーでは7月、摂氏56℃を記録。
国連の事務局長が、温暖化ではなく「沸騰化だ」と発言。
ミネラルウォーターで有名なフランスのボルヴィックで、水資源が枯渇の危機。
危機的な現状の情報を耳にしました。
気温の変化についていけず絶滅を迎えている生命も少なからずあるように思います。
もう遅いのかも知れませんが、それでも今すぐに行動を起こさなければ救える生命も救えなくなるでしょう。
戦争している場合ではありません。
どちらの国が勝とうが負けようが、地球に住めなくなればどちらも絶滅するのです。
戦争は持続可能性の対極にあるものです。

SDGsは17の目標を色別に表現していますが、その中に黒はありません。
黒色は強いので、混ぜてしまうと全てが黒に塗りつぶされてしまいます。
黒は戦争です。SDGsの対極にあるものです。
実際に、戦争が起こり、その目標達成は大きく遅れることになるでしょう。
温暖化防止の運動もどこかに行ってしまいそうです。
更に環境は悪化していくに違いありません。
まだ戦争状態ではないけれど、それをあおるかのような情報が飛び交っています。
まるで戦争をしたがっているかのようです。
軍備増強のための資金があるのなら、それは地球の危機を救うために使われなくてはなりません。
まるで、燃えている家の中で兄弟げんかをしているかの如くです。
早く力を合わせて火を消さないと、どちらも焼け死んでしまいます。
何でそんな単純なことが分からないのか、人間はバカなのか。
もしかして、それが地球そのものの意志で、地球上のがん細胞である人間を死滅させるための免疫作用であるならば、それが自然というものでしょうから、無駄な抵抗をせずに従ってみるのも手かもしれません。
恐竜の時代に隕石が落下し、巻き上げられた噴煙が地球上を覆い、急に気温が下がって恐竜は絶滅した。
今隕石は落ちませんが、獅子身中の虫のように、人間という虫が互いに殺し合い、環境そのものを変化させ、全ての生命を絶滅させる。
それでもきっと、植物は再生し、生き残ったわずかな生命が、その後の地球上で新たな進化を遂げるのでしょう。
人類はその姿を見ることはできませんが、新たな知的生命が、人間という生命の絶滅を教訓として活かしてくれるかもしれません。
バカは死ななきゃ治らない。と、思ってみる。

今年3月末に、「もがみ地産地消エネルギー合同会社(略称もっち~)」を立ち上げ、先日設立総会を開きました。
2015年から、地域新電力会社を作りたいと勉強会を行ってきましたが、ようやく法人化を遂げるところまで来ました。
先日、その主要メンバーが急逝し、戦力ダウンは否めませんが遺志は継いでいかなければなりません。
新電力会社設立まではまだ越えなければならないハードルがいくつかあり、簡単ではありませんが、着実に一歩一歩前に進めて、実現に向けていきたいと考えています。
その合同会社の「代表社員」ということになり、それはいわゆる社長?
ということで、戸惑っていますが、実務はほとんど優秀な業務執行社員がやってくれるので、お任せ状態です。
地域にある資源をエネルギーに替え、自分たちのエネルギーは自分たちで創るということを目的にしています。
更に、人材も智慧もエネルギーととらえ、地域の人間を地域で活かす、そんな活動をしていきたいと考えています。

今日は、最上町議会議員選挙の投票日です。
この5日間の気温はその熱もあったかもしれません。
温暖化防止は官民一体となって取り組まなければならない問題ですから、当選した議員を見極め、共に活動していきたいと思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。