なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ169

2018年07月28日 09時44分59秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月29日、日曜日です。

暇だということもあって、柚木裕子の小説を続けて2本読みました。
「孤狼の血」と「盤上の向日葵」。
どちらも話題になった作品ですが、読み応えがありました。
「孤狼の血」は映画化もされました。まだ観ていませんが、かなりのハードボイルドに仕上がっていることでしょう。
「盤上の向日葵」は柚木の一番新しい小説だと思います。
書名の通り、将棋を扱ったストーリーです。
山形在住の作家ということもあって、テレビ・新聞で大きく取り上げられていました。
二人の将棋指しの最後の勝負が初歩的な反則負けで決まるのですが、小説自体もスッキリ勝負がついた感じがなく、モヤモヤ感が残るラストでした。
それは、将棋の勝負にかけて意図的に「反則負け」のようなストーリーにしたのかどうかは分かりません。
いずれにせよ、「孤狼の血」のような仕掛けもなく、最後にアッと驚くような結末とはなりませんでした。
しかし、息もつかせずに読ませる話の展開の仕方はすごいと思います。
「ページをめくる手が止まらない」という帯のタイトルそのものだと思いました。
かなりの長編ですが、二冊とも一気に読んでしまいました。
しかし小説家というのはすごいですね。
警察内部の事情、慣習、言葉遣い、警察ならまだいいとして、ヤクザ社会の事情まで文字にするのですから、どれほどの資料を読み漁るのだろうかと感心します。
将棋にしても、生半可な取材ではリアリティがなく、その業界の人を納得させることはできないでしょう。
それぞれの社会への踏み込みの深さに驚嘆させられました。
小説家は凄い!
1人の作家に取り掛かると連続して手に取ってしまうのですが、次は「検事の本懐」をめくっています。

今週講演が二つ入っています。
30日に、曹洞宗東北管区教化センターの「教化フォーラム」が仙台であり、5回連続の第1回目が始まります。
タイトルは「生きるための修証義」です。
連続講座にしたいというセンターの意向で修証義になったのですが、きっちりまとまった形で修証義に取り組んだことはこれまでなかったので、始めるにあってはかなりの準備が必要でした。
いくつかの解説本や資料に当たり、どのように説いていくかを考えました。
大学の講義ではないので、文言の説明や解説にとらわれず、「現代社会で生きていくために修証義をどう読むか」という視点で話を進めたいと思っています。
もう一つは8月1日、「宮城県第3教区夏期大学」という講演会で、昨年に引き続いての2回目になります。
こちらは2年連続なので、昨年の話から引き継いでの内容となります。
どちらもずいぶん前から準備してきて、ひと段落が付いたので小説に手を出したというわけです。
でもなあ。
小説にも影響されやすい性格なので、講演の口調がヤクザ言葉にならないか心配です。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ168

2018年07月22日 05時06分43秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月21日、日曜日です。

上山の温泉に来ています。
昨晩は、家内の還暦祝いと娘と孫の誕生日祝いで家族全員集合の一泊でした。
10人中3人が7月の中旬に誕生しています。
孫二人が生まれて娘が結婚してから、母親も含めての全員集合は初めてのことになります。
お蔭で賑やかで楽しい一夜を過ごしました。豪雨災害の被災地の皆様には申し訳ない気持ちです。

いやあー、こんなことがあるものです。
実は今月、先週の土曜日14日から明後日の24日火曜日まで、寺の用事が全くありません。
法事も葬儀も何ひとつ入らず、予定表が真っ白です。
2週続けて土日に予定が入らない経験は今までなかったと思います。
5年ほど過去の予定表を遡って見ましたが、7月の予定表に無地の日は一日もありませんでした。
どうしたことでしょう。
葬儀も二カ月以上ありませんが、法事、寺参りまで皆無というのは今まで経験のないことです。
私は楽だし、しなければならない法話の原稿が進むしいいのですが、生活をキリモリする主婦にとってはなかなか厳しい状況のようです。
しかし、こればかりは営業ができるわけでもありませんし、「待つ」以外にしようがない仕事です。
「お父さん、働いて」と言われても、働く意思がないわけではないのです。
考えてみると、住職は、檀家に養われているということになるのだなあという実感です。
今後少子化で過疎が進み、絶家になる家が次々出てくるだろうことがはっきりしている田舎の町は、当然お寺の収入も減ってくることは明らかで、お寺の生活はそれに見合ったものにしなければならないということだけのことです。
お寺に見切りをつけて、生活の拠点を他所に移すということが簡単にできるものでもありません。
だいたいにして、住職家の生活のために檀家があるわけではないのですから、何が先か何が後かをしっかり考えなければなりません。
ニワトリが先か卵が先かなど、そんなのはニワトリが先に決まっています。
檀家というか、衆生にとって必要があれば住職がそこにいるのでしょうし、必要がなければいなくなるでしょう。お寺だって必要がなければなくなっていく運命です。
住職は、ただ自分の務めを黙々と務めていく以外に考える必要はありません。

とは言いながら、実際は寺に住職だけが住んでいるわけではなく、家族があり、子どもの教育や介護と、一般と変わらない生活があるわけで、本来のあるべきようにはいかないのが現実です。
半僧半俗の、自らに折り合いをつけながら生きていくしかありません。

それから、このたまたま暇な時期に浴室の改修をやりました。もちろん工事は大工さんが請け負ったのですが、目地のコーキングとペンキ塗りの状態が気に入らず、自分で修正を試みました。
楽しかったあ。クリエイティブな作業の何と楽しいことか。
やはり、お坊さんでなかったら建築業界で働きたかったと思ったことでした。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ167

2018年07月15日 05時15分49秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月15日、日曜日です。

西日本豪雨災害、とてつもない規模になりました。
亡くなられた方の安らかなご冥福と、被災された方々、ご家族を亡くされた方々の身心安寧を心から祈ります。

これまで集中豪雨というのは、ある一定の限られた地域に起きるもので、これほど広範囲に起こるとは思ってもいませんでした。
200名を超す死者、現地の惨状は、東日本大震災の津波を思い出させました。
「山津波」という言葉があったことを思い知らされた感じです。
「ここは大丈夫」と、避難をせずに亡くなられた高齢者が多かったことは、津波の教訓が生かされなかったと残念に思います。
それでも東日本方面では何となく平穏で、フェイスブックなどの投稿を見ていても、いつものように飲んだり食べたりの記事があふれています。
そうなのでしょうね。被災地以外には日常があります。
地域というか距離というか。自分から離れている地のことはなかなか日常の思考の中に入って来ないものなのでしょう。
東日本大震災の時も、西日本ではきっと同じように、遠い所の大変なことというぐらいの受け止め方だったのだろうと思います。
震災の後、布教の巡回で各地を回って震災の話をさせていただいても、東北から離れたところでは「またその話か」という冷めた反応であったことを思い出します。
他人を思う時に、その距離というのは大きな要素であることは間違いありません。
しかし、同じような経験をした人にとっては違います。
北海道奥尻島の津波の時、真っ先に支援物資を送ってくれたのは島原雲仙岳噴火による被災地域の人々でした。
熊本地震が起こった時、東北の津波被災地の復興商店街ですぐさま募金活動が始まりました。「他人事じゃないも」と言っていました。
シャンティ気仙沼事務所の事業を引き継いだNPO法人「はまわらす」から今年の寄付のお願い状が届きました。
そのカバーレターに、「寄付のお願いを準備している最中に豪雨災害が起こりました。大震災を経験した私たちにとっては他人事とは思えずどのように対応するか悩みました」と。そして、いただいた寄付の20%を豪雨の被災地に送ることにしました、と。悩んでくれたことがうれしいですね。

距離よりも強いものがあります。
それは共感というつながりでしょう。
カンボジア難民支援が始まったころ、募金のお願いに対して「海外よりも国内にも困っている人がいるだろう」と言われました。
確かにその通りです。日本国内にも困っている人はたくさんいます。
それならその方は、国内の大変な方に何か支援をされているのだろうか、と思いました。
海外だから、遠い所だから、という方は、結局隣の困窮にも手を差し伸べることはないのではないかと思ったことでした。
自分が経験したことがないと、同じような困難の人の気持ちが分からない。それは事実ではありますが、後は想像力ですね。
神通力というのは、どれほど相手を思う力が強いかということだと思っています。
中島みゆきの歌がすごいと思うのは、その歌の主人公になり切れる想像力です。想像力というよりも神通力なのですね。
ジョンレノンのイマジンもそれを歌っているのじゃないでしょうか。
想像してみてください。
一瞬にして家に泥水が押し寄せ、家を失い、家族を失い、炎天下の中、水もない中で、これからどう生きていけばいいのか、と途方に暮れる人々の心を。
想像してみてください。共感は距離を超えます。
経験をしたことがなくても、あなたには想像ができるはず。
痛みを感じようとする心が慈悲心です。

シャンティ国際ボランティア会では、12日より愛媛県と広島・岡山方面に調査に入りました。現地の状況を見極めて支援活動を開始する予定です。
募金の受付も開始しました。想像力を行動につなげていただければと思います。
シャンティの募金はこちらから

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

1年前の思い

2018年07月14日 04時22分22秒 | ふと、考えた
2017年7月9日日曜日。

最近思うこと。

家族を失ったり、あるいは家族のいろいろな問題を抱えて苦しんでいる人がいます。
そうでありながら、無理に笑顔を作って何事もないように振舞っている人がいます。
そういう人を見て周囲で、
「よく平気でいられるものだ、何も考えていないのだろうか」
「こんな時に笑える神経が分からない、鈍感なのか図太いのか」
などと、勝手なことを言う人がいます。

平気なはずがないじゃありませんか。

悲しんで悲しんで、泣いて泣いて、苦しんで苦しんでいるのです。
でも、「悲しいだろう」「苦しいだろう」という目で見られることでさらに苦しみを増す場合もあるのです。
衆目を集めるような状態に陥った時、その目の心が気になってしまいます。
「かわいそうに」と憐れんでいるんだろうか。
「ざまあみろ」と笑っているんだろうか。
空々しい興味半分の視線と、嘲笑とも思える笑い顔、見て見ぬふりをする無視、ひそひそ話。
その視線の充満する中で息をしていかなければならないのです。
どんなに苦しいことか。
何でもなかったように接して欲しいから、何でもなかったように振舞っているのです。
だから、無理に平気な顔をして笑顔になっているのに、それを人間性を疑われるような目で見られたりするとは。

どういう表情をすればいいんですか。
憐れまれるような、いかにもかわいそうな顔をしていれば許してくれるのですか。
かわいそうな人はどこまでもかわいそうでなければだめですか。

差別の構造はそのあたりにあります。
弱っている人を寄ってたかってたたくのです。
それまでは言葉にしていなかったことも、相手が弱いとなると、何を言っても許されるかの如く、過去の小さなことでも重大なことのように証言するのです。
あることないこと、作り話まで交えて噂を大きくしながら広げていくのです。
いじめも同じ、福島の避難者に対しても同じ。

なぜ強い側につくのか。
なぜ弱いものを集団でたたくのか。
なぜ自分より弱い人を作って安心するのか。
それは自分が弱いからではないのか。

そう、みんな弱い。
たたかれれば痛いし、仲間外れは怖い。
相手も自分も弱い。
強そうな集団に入って強くなったような気分になっても、強くはなれません。
徒党を組みたがるのが弱い証拠です。
みんな弱いことを認めてしまえば強がる必要はありません。

もっと想像力を働かせたらいい。
ひとの噂を鵜吞みにせず、自分で考えてみたらいい。
苦しんでいる人が、話ができる相手なら話を聞いてみたらいい。
傍に寄り添って話をするまで待ってみたらいいでしょう。
自分だって同じ苦しみを味わう場合もあるのですから。
自分が寄り添って欲しいと思う人は、きっとその人もあなたに寄り添って欲しいと思う人に違いありません。

世の中には、笑いながら泣いている人もいるのです。
中島みゆきは歌っています。
「たやすく涙を流せるならば  たやすく痛みもわかるだろう  けれども人には  笑顔のままで泣いてる時もある」。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ166

2018年07月08日 04時35分44秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

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お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月8日、日曜日です。

「40過ぎたら自分の顔に責任をもたなくてはならない」とは、第16代アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンの言葉です。
どんな時にこの言葉が発せられたのか、その経緯はこうです。
周囲からある人物を閣僚に取り上げたらどうかと推薦されたリンカーンは、面接した後その人を採用しませんでした。
後日その理由を問われた時リンカーンは「彼は顔がよくない」と。
そして言われたのが、冒頭の「40過ぎたら…」の言葉でした。
人の顔には、その人がどう生きてきたのかが現れているということなのでしょう。
人の顔には表情筋というのがあって、唯一骨格と皮膚をつないでいる筋肉なんだとか。
怒った顔や笑った顔、悲しい顔など、顔の表情は表情筋によって作られます。
筋肉は使えば発達するし、使わなければ衰えてしまいます。
常に怒った顔をしていればその筋肉が発達し、常に笑顔の人は笑顔の筋肉が発達する。
常に無表情のままでいれば、笑顔を作ることさえできなくなってしまうかもしれません。
その人がどんな顔をしているのかは、どんな顔をしてきたのかが現れているのでしょう。
まじめに生きた人はまじめな顔に。強欲に生きた人は強欲な顔に。
そういう意味では、顔は自分の履歴書と言えるのかもしれませんね。

「顔に責任をもてと言われても、この顔は親にもらった顔なんだし、責任は自分ではなく親にあるっしょ」というむきもあるかもしれません。なぜ北海道弁なのかは知りませんが。
そう、確かにこの顔は生まれたときからこの顔でした。自分で選んだわけではありません。
幸か不幸か親に似ました。
「なんでこんな顔に生んだんだ」。
言われた方も黙ってはいません。
「母ちゃんに似たんだから仕方ないべ、文句あんならオレの親さ言ってけろ」。
うーん、親にも責任ないのか。
だけど何で自分に責任があるんだろう。
そこで大事なのは「40過ぎたら」の「40」です。
20歳までは確かに親にもらったこの土台の顔で生きてきました。
しかし、いわゆる大人となってから20年。これはもう親に責任をおしつけることはできないでしょう。
親にもらった土台に、どんな表情をつくってきたのか。自分の責任ですね。ましてや40はもうとっくに過ぎたんだし。

仕事柄、亡くなった方のお顔を拝ませていただく機会があります。
枕経に伺って、白布を外して手を合わせるとき、「きれいな顔だなあ」としみじみ拝むことがしばしばあります。
穏やかないい顔で旅立つことができたなら、生涯が報われたような気持ちになることでしょう。
表情筋の使い方によって旅立ちのお顔も変わってくると思われます。
今からでも遅くはない。美しい旅立ちのために。ある意味終活。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ165

2018年07月01日 07時21分40秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

7月1日、日曜日です。

先週は失礼しました。
今日は日曜日ですがちょっと遅めのスタートです。

このところ、気が緩んでる、忙しい?、やっぱり気が緩んでるのか、曜日の感覚が鈍ってきました。
友人から「最近、ブログおもしろくない」と指摘されました。
そうだと思います。自分でも。
やっつけ仕事になっている感があります。
それが如実に表れるのが、ブログへの訪問者数です。
毎日、毎週の訪問者数が集計されて表示されるのですが、このところ下降線をたどっています。
多い時には、一日300名以上の方が訪問してくれたのですが、最近は100人前後になっています。
週間集計でも、700台から500台に下がっています。
ちょっと手を抜きすぎてですね。
「忙しかった」と言い訳できる6月も過ぎたので、今月から心機一転頑張りましょう。
そうです。7月です。もう1年の半分が過ぎてしまいました。

先日新潟で、「禅」という名前のレストランで、毎朝坐禅と朝粥という会をやっているので行ってみませんかという誘いをいただき、参加させていただきました。
タニタのレシピのレストランのようで、体とともに心も健康でなければいけない、それには坐禅でしょうと、依頼された若い和尚さん方が、昨年の8月に始められたとのことです。
しかし、毎朝というのがすごいですね。
あいにくその日は、一般の方の参加者はありませんでしたが、係の和尚さんと一緒に坐らせていただきました。
坐禅の最後に、若い和尚さんが「布教師さんの前でおこがましいのですが、一般の方にお話をさせていただいているので、そのつもりで少しお聴きください」とことわられて法話をしてくださいました。
「今を生きる」というテーマでした。
その例話として次のようなお話をされました。
「幽霊の姿はたいがい、髪が後ろに長く垂れ、両手を前に垂らし、足がない姿ですね。これが何を表しているかというと、髪が後ろに長いのは過去にとらわれ後ろ髪を引かれているという意味。両手が前に垂れているのはまだ来ない未来に不安を抱いて思い悩んでいるという意味。足がないのは今というこの時に地に足を着けていないという意味。過去にとらわれず、未来に思い悩まず、地に足を着け今を着実に一歩一歩歩んでいきましょう」という内容でした。
法話の世界ではよく使われる話ですが、改めてお聴きすると、一般の方にも分かりやすく、また興味を引かれる題材だと思いました。
蒸し暑いこの季節にはピッタリの例話かもしれません。
幽霊の言葉として思い浮かぶのは「うらめしや」でしょうか。
「うらめしい」は、相手の状況が憎らしいほどうらやましい、自分の過去の行いが残念で情けない、というような意味ですが、やはり、過去を悔やみ他人を羨む、どうにもならないことで苦しむ心の声のようです。

もう過去はいい、未来もその時頑張ろう、他人は他人、自分が今ここで何をするのがベストなのか、それだけを考えて行動しよう。
もう7月なんだし。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。