三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第337回。10月31日、日曜日。
先週は日曜日の夜から金曜日まで東京でした。
東京はいつ以来ぶりだろう。新幹線も駅も人であふれていました。
曹洞宗の布教師養成所という年3回の研修期間があり、その講師を務めていました。
コロナ下のことで、6月の研修は法話の原稿のみでの研修でしたが、今回は参集して実施されました。
曹洞宗の本部、宗務庁は東京グランドホテルの中にあり、厳重な防疫対策の下、研修道場とホテルの個室との往復で、一切外に出ることもなく、いわゆる缶詰め状態の5日間でした。
朝は5時半の坐禅に始まり、夜は9時まで、畳に座っての研修は講師も受講生もきついものがありました。
足は痛いし、もう体全体はバキバキです。
しかし、布教の研鑽を志した若い僧侶たちは、その姿勢も言動もまことに丁寧で規律正しく、修行道場のようでもあり、美しささえ感じました。
私もかつては受講生でしたが、我々の頃はいい意味でもっと自由で、言ってみれば乱雑でした。
これまでの講師陣の指導のためか、当世の若者気質か、基本的にまじめでマニュアルチックです。
そんな受講生50名と一緒に正法眼蔵を学ばせていただき、ありがたい修行期間でした。
今回の課題の講本は『正法眼蔵 行持の巻』でした。
道元禅師が、お釈迦様から師である如浄禅師までの代々の祖師方の行状をまとめた巻です。
現代社会とはかけ離れた難行苦行の数々の中から一節を抜き出して説くわけですが、そのギャップが大き過ぎて、それを聞法者がわが身に引き当てて聴いてもらうためにどう説くか、みな苦労していました。
そのために、眼蔵をじっくり読みこまなくてはならないので、その分大変勉強になったと思います。
恥ずかしながら、私自身この巻をじっくり読んだのは初めてで、勉強させられました。
たまにこういう刺激はいいですね。
普段の怠惰な生活に喝を入れて、灰色の脳細胞を刺激する心地よい疲れとなりました。
行持の巻には「不離叢林」という言葉が出てきます。
叢林の「叢」とは草むらのことで、草が一本で生えていれば踏まれればすぐにつぶれてしまうけれど、群がることによって踏まれてもまた立ち上がることができる。木は野に一本だけで立っていると、風や日当たりによって曲がってしまうが、林になることで他と支え合い、牽制し合いながら曲がらず真っすぐに伸びることができる。つまり叢林とは、苦しみに耐え学び合う修行仲間のいることを表す言葉なのです。
不離叢林は、その道場を離れないという意味になります。
文字通り、出家した祖師方は生涯道場で修行を続けることがほとんどでした。行持の巻に30年40年と修行し続けた逸話がいくつも出てきます。
また、「不離叢林」を別の意味でとらえると、道場を出てからも修行生活を続けるという意味も含めることができます。
それぞれがそれぞれの場所で、道場で身についた行を怠らず行じていく時そこが道場となる。自分自身を道場とせよ、という意味です。
また、今回受講生とともに研修道場といういわば叢林に身を置いてみて、もう一つの意味を見出しました。
ここにいる修行仲間は終わればそれぞれの寺に帰っていく、次の研修会まで会うことはない。しかしその間、「あいつは今頃どうしているだろう。勉強しているのではないだろうか。眼蔵と格闘してウンウン唸っているのではないだろうか。あるいは坐禅を行しているか。自分もうかうかしておれない。怠け心を起こしてはいけない」と、自らを叱咤し激励して研鑽に励むとき、距離は離れていても互いに励まし合い学び合う仲間がいる、それも叢林と呼んでもいいのではないかということです。
おまえとわたしは たとえば二隻の舟
暗い海を渡ってゆく ひとつひとつの舟
互いの姿は波に隔てられても
同じ歌を歌いながらゆく 二隻の舟 (中島みゆき『二隻の舟』
同じ方向を向いて頑張る仲間は、どこにいてもその存在が意識されるものです。
あの人がいるから頑張れる。それは叢林の仲間です。
話はお寺に限ったことではありません。
あなたにも気になる人がいませんか。敬愛する友。ライバルともちょっと違います。
共に高め合いたいと思う人。その人が認められれば自分のことのように素直に喜べる人。
そういう人のいる人は幸せだと思います。
私は今回その人と一緒に講師を努めました。尊敬する友、それは福島の渡辺祥文さんです。
彼とは40年来の友ですが、こんなに濃密に過ごしたことはありませんでした。幸せな5日間でした。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
先週は日曜日の夜から金曜日まで東京でした。
東京はいつ以来ぶりだろう。新幹線も駅も人であふれていました。
曹洞宗の布教師養成所という年3回の研修期間があり、その講師を務めていました。
コロナ下のことで、6月の研修は法話の原稿のみでの研修でしたが、今回は参集して実施されました。
曹洞宗の本部、宗務庁は東京グランドホテルの中にあり、厳重な防疫対策の下、研修道場とホテルの個室との往復で、一切外に出ることもなく、いわゆる缶詰め状態の5日間でした。
朝は5時半の坐禅に始まり、夜は9時まで、畳に座っての研修は講師も受講生もきついものがありました。
足は痛いし、もう体全体はバキバキです。
しかし、布教の研鑽を志した若い僧侶たちは、その姿勢も言動もまことに丁寧で規律正しく、修行道場のようでもあり、美しささえ感じました。
私もかつては受講生でしたが、我々の頃はいい意味でもっと自由で、言ってみれば乱雑でした。
これまでの講師陣の指導のためか、当世の若者気質か、基本的にまじめでマニュアルチックです。
そんな受講生50名と一緒に正法眼蔵を学ばせていただき、ありがたい修行期間でした。
今回の課題の講本は『正法眼蔵 行持の巻』でした。
道元禅師が、お釈迦様から師である如浄禅師までの代々の祖師方の行状をまとめた巻です。
現代社会とはかけ離れた難行苦行の数々の中から一節を抜き出して説くわけですが、そのギャップが大き過ぎて、それを聞法者がわが身に引き当てて聴いてもらうためにどう説くか、みな苦労していました。
そのために、眼蔵をじっくり読みこまなくてはならないので、その分大変勉強になったと思います。
恥ずかしながら、私自身この巻をじっくり読んだのは初めてで、勉強させられました。
たまにこういう刺激はいいですね。
普段の怠惰な生活に喝を入れて、灰色の脳細胞を刺激する心地よい疲れとなりました。
行持の巻には「不離叢林」という言葉が出てきます。
叢林の「叢」とは草むらのことで、草が一本で生えていれば踏まれればすぐにつぶれてしまうけれど、群がることによって踏まれてもまた立ち上がることができる。木は野に一本だけで立っていると、風や日当たりによって曲がってしまうが、林になることで他と支え合い、牽制し合いながら曲がらず真っすぐに伸びることができる。つまり叢林とは、苦しみに耐え学び合う修行仲間のいることを表す言葉なのです。
不離叢林は、その道場を離れないという意味になります。
文字通り、出家した祖師方は生涯道場で修行を続けることがほとんどでした。行持の巻に30年40年と修行し続けた逸話がいくつも出てきます。
また、「不離叢林」を別の意味でとらえると、道場を出てからも修行生活を続けるという意味も含めることができます。
それぞれがそれぞれの場所で、道場で身についた行を怠らず行じていく時そこが道場となる。自分自身を道場とせよ、という意味です。
また、今回受講生とともに研修道場といういわば叢林に身を置いてみて、もう一つの意味を見出しました。
ここにいる修行仲間は終わればそれぞれの寺に帰っていく、次の研修会まで会うことはない。しかしその間、「あいつは今頃どうしているだろう。勉強しているのではないだろうか。眼蔵と格闘してウンウン唸っているのではないだろうか。あるいは坐禅を行しているか。自分もうかうかしておれない。怠け心を起こしてはいけない」と、自らを叱咤し激励して研鑽に励むとき、距離は離れていても互いに励まし合い学び合う仲間がいる、それも叢林と呼んでもいいのではないかということです。
おまえとわたしは たとえば二隻の舟
暗い海を渡ってゆく ひとつひとつの舟
互いの姿は波に隔てられても
同じ歌を歌いながらゆく 二隻の舟 (中島みゆき『二隻の舟』
同じ方向を向いて頑張る仲間は、どこにいてもその存在が意識されるものです。
あの人がいるから頑張れる。それは叢林の仲間です。
話はお寺に限ったことではありません。
あなたにも気になる人がいませんか。敬愛する友。ライバルともちょっと違います。
共に高め合いたいと思う人。その人が認められれば自分のことのように素直に喜べる人。
そういう人のいる人は幸せだと思います。
私は今回その人と一緒に講師を努めました。尊敬する友、それは福島の渡辺祥文さんです。
彼とは40年来の友ですが、こんなに濃密に過ごしたことはありませんでした。幸せな5日間でした。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。