なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ126

2017年09月24日 04時57分07秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

9月24日日曜日。

お彼岸です。
松林寺では、中日に、ほとんどの檀家が寺にお参りをします。
墓には行きません。
お盆には墓参りなので、寺の境内に墓地のある檀家は寺にもお参りしますが、集落墓地の檀家は寺には来ません。
どうしてこうなったのかというと、春の彼岸の時はまだ雪があって墓参りができないので寺の位牌堂をお参りするようになり、そこから「お盆は墓、彼岸は寺」となったのだと思われます。
秋彼岸は墓参りできるのですが、そのようになってしまいました。
そう考えてみると、全国的に、寺に立派な位牌堂があるのは雪国が多いように思います。
雪国において位牌堂は、墓の代わりを果たしてきたのかもしれません。

以前、掲示板に
 過去はどんなに重くとも
 かたつむりのように
 背負って歩く以外にない
 いつか その過去に
 守られる時が きっと来る
と書きました。
過去は変えられません。
どんなに悔いても、自分の犯した事実は消えてなくなりません。
過去はどんなに重くても、自ら背負って歩く以外にありません。
しかし、その過去を、隠すことなく捨てることなく、覚悟をもって背負って歩くことによって、やがてその過去は我が身を守ることになるだろうと思います。
かたつむり(蝸牛)の姿にそれを学びます。

禅はいつも「今」を見つめます。
経過があってその後に結果が出るように見えるのは、過去を振り返って結果からそれ以前を見た時です。
結果はあくまでも結果であり、結果のために経過を過ごすのではありません。
一日一日、一歩一歩が結果であり、経過はありません。
大相撲を見ていると本当にそう思います。
力士は「一番一番」とよく口にしますが、全くその通りです。
一番一番が結果であり、その積み重ねの結果として勝ち越しや昇進があります。
途中、優勝や昇進などが頭にちらついてくると、目の前の一番を落としてしまうことにもなります。
まさに、一番を経過にせずに結果として向かうことが大事です。
百歳まで生きた人は、百年生きたのではなく、一年一日を生きた結果百歳になったのでしょう。

正岡子規は、脊椎カリエスの痛みに耐えながら布団の上で『病牀六尺』を書きました。
その中で子規は、
 余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。
 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、
 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
と書いています。

「今」という現実を顔を背けずに真っすぐに見つめ、一歩に一歩の価値をもつように歩を進める生き方を「禅の生き方」と言ってもいいでしょう。
過去はどんなに重くとも、それを背負っていく覚悟があれば、いや、覚悟をもって前を向く以外にないのです。
「腹に一物、背に荷物」などと言いますが、腹には一物もない方がいいです。
腹に何かあると思いっきり深呼吸ができません。
腹にある「何」かは、嘘であったり、ごまかしであったり、人を欺く心でしょう。
逆に、荷物は背負ってしまえば自分の目には見えません。抱えずに背負ってしまえばいいのです。
過去を背負って腹は空っぽに。
かたつむりの前進を一歩と言うかどうかは別にして、前に進んだだけの結果はあります。
 歩歩清風起こる
一歩前に進めれば、一歩分の風が起きます
しっかり前をむいて風を感じましょう。さわやかな秋風です。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ125

2017年09月17日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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9月17日日曜日。
先週に引き続き、今朝も東京からお送りします。
いえいえ、1週間ずっと東京にいたわけではありません。
先週の日曜日に米子に飛び、島根県松江、安来を回り、昨日の夜米子空港から東京に戻ったところです。
昨日のうちに山形まで帰れなかったので東京泊まりとなりました。
相変わらずバタバタしています。

藤沢周平の「一茶」を読みました。
当時の俳句詠み、俳諧師というものは、方々旅して暮らしたもののようです。
大きな商家や医者、武家、お寺の坊さんなどが俳諧師となって名をあげるということがあったようで、その場合はしっかりした経済的基盤があって、道楽のように俳句を詠んでいたのですが、一茶のように百姓の倅が喰うために俳句の道に入ったような場合は、経済的な基盤のある宗匠を訪ね歩き、そこで喰わせてもらいながら生きていくということだったようです。
例えば西国に旅するような時は足掛け7年という時間をかけて回ったようでした。
もちろん、歩きの旅ですから、移動するのにも日数がかかりますし、1か所に何日あるいは何カ月と逗留しながら移動していくわけです。
『奥の細道』ではありませんが、まさに、旅そのものが人生のようなことだったでしょう。

ひるがえってみて現代、高速移動の時代。
江戸時代から考えればワープをするようなものでしょう。
移動は旅ではなく、単なる移動手段になりました。
つまり、移動することが人生ではなく、その部分が人生から切りとられたような感じです。
ということは、高速移動によって色々なことができる半面、移動の時間だけ人生が短くなるようなものかもしれません。
移動が高速であればあるほどそんな気がします。
飛行機や新幹線より、鈍行列車の移動の方がまだ旅らしく感じます。
自分の足で歩くことが人生で、歩かない旅は人生ではないということでしょうか。
人間の思考は歩くリズムと調和しているのではないかと思うことがあります。
それは、心臓の心拍速度と関係しているかもしれません。
永平寺から歩いて帰って来た時、そんなことを思いました。
歩きながら、考えがよくまとまる、ものごとがよく見えるという感じでした。

しかし今、全て歩いて移動するというようなことは到底できません。
郵便局に手紙を出すのでさえ車を使います。
ましてや島根まで歩いて行くというようなことは無理です。
いや、無理なわけではないですね。
それが人生だと思えば、その移動時間を旅として生きればいいことです。
果たしてどちらが価値があることなのか。微妙です。
せめて、と思います。
高速移動中、スマフォをいじったり、週刊誌に目を落として周囲の人や景色を見過ごすようなことはもったいないことなのではないか。
移動中、目に映る人々を観察するのも面白いことです。あの人はどんな人生を送ってきたのか、着ている物、動き、顔の表情、声や言葉から、その人の喜びや苦しみを想像してみることも自分の人生の参考になるかもしれません。
高速であっても、移動を単なる手段にしないで旅としての目的ととらえることはできるはずです。
同じように、生活のすべての時間を手段ではなく目的にすること、それが禅的な生き方、生活禅となります。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ124

2017年09月10日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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9月10日日曜日。

今朝は東京からお送りしています。
昨日は高尾のお寺で法話を一座務めまして、今日から16日まで島根の特派巡回です。
8月は島根県の隠岐の島でしたが、今回は本土、松江周辺を回ります。
松江周辺は過去に二度巡回しましたが、とてもいいところです。
松江城、出雲大社、小泉八雲記念館、足立美術館、宍道湖から見る夕焼け。
名所も数々あります。
教場の寺院さんからは「また同じ顔か」と嫌がられるのかもしれません。
巡回地を私が選べるわけでもなく、日程の組み合わせによるご縁としか言いようがありません。
以前の法話を覚えておられる方がいたら「少し成長したな」と受け止めてもらえるよう頑張って努めます。

さて、演劇『焼け跡』のチラシとポスターが出来上がりました。
8日に第3回目の実行委員会があり、これから本格始動です。
11月14日、最上町中央公民館に400名の観客を目標にしています。
町にはホールのような立派な施設はありませんが、スペースはちょうどいい感じだと希望舞台の制作スタッフが言ってくれました。
元々希望舞台は、固定の劇場を持たず、地方を回る手作り演劇をその理念にしていて、役者はマイクを一切使わず生の声だけで演技します。
役者の人々は、プロでありながら、普段はアルバイトなどをして、6月と11月だけ地方巡業のツアーに出るという生活です。
だからこそ、希望舞台の前身である統一劇場の活動が、山田洋二監督の映画『同朋(はらから)』のモデルになった所以です。
映画『同胞』は、倍賞千恵子が扮する主人公の秀子が、まさに最上町のような地方の田舎を回り、青年団の若者を中心に演劇を作り上げていくという物語です。
はじめは、「そんなことして何になるんだ」「金はどうすんだ」「会場は」「人が来るのか」と喧々諤々の議論、時にはケンカ腰の激論になりながら、その意義を少しづつ浸透させていき、最後はみんな力を合わせて大成功、涙を流して喜び合うというストーリーだったと記憶しています。
そして、主人公は、鼻歌を歌ながら次の村に向かうというラストシーンが目に残っています。

戦後の成長期、昭和40年から50年代であれば、まさにこの映画のように地方の若者を元気づけるような活動がウケた思いますが、平成の時代になって、それが受け入れられるとは考えにくいところです。
でも、この劇団は一貫してこのスタイルでやってきたのです。
並大抵の努力ではないでしょう。
続けてこられたのは、この劇団の願いが希望に満ちているからだと、制作部玉井徳子さんと話してみてよく分かります。
『同胞』の映画以来、秀子はずーっと歩き続けているのです。
希望と情熱をもって地方を回り、一人また一人と関係を築き、熱く語りながら仲間を増やし、いつの間にかみんなをその気にさせていく。そこにこそ希望を見出しているのです。
ひとをその気にさせるのは、社会情勢や流行には関係なく、偏に「希望を語る」ことだと教えられます。
演劇を見るだけよりも、こういう人たちと一緒に、作り上げていくという過程を楽しみたいと思います。
今回の最上町公演は実行委員会を組織して実施します。実行委員としてお手伝いいただける方はご連絡ください。同胞を募集します。
今回前売り券は2500円にしました。
通常他の会場では3000円になっていますが、なるべく多くの方に観ていただきたいという思いからです。
足りない分は寄付を募ることにしました。こちらのご支援も受付けています。
力を合わせて生の演劇を楽しみましょう。
「奪い合えば足りない、分け合えばあまる。」


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



三ちゃんのサンデーサンサンラジオ123

2017年09月03日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

9月3日日曜日。
9月に入りました。
当地の8月は本当に涼しい、夏とは思えないような天気が続き、農作物への影響が心配されます。
夏は暑く、冬は寒く雪が降るからこその農作物があり、それに合わせた商品や仕事があるわけで、単純に今日の過ごしやすさだけに喜びを求めてはならないでしょう。
便利さも同じです。
「便利」あるいは「煩わしくない」という価値観だけで選択をしてしまうと、何百年もかけて築き上げてきたことも簡単に失われ、二度と元に戻らないものもあるはずです。
それが将来どのような結果を招くのか、そう考えると恐ろしくもあります。

9月の新学期が始まるときが一年で一番子供たちの自殺が多いのだとか。
学校内のいじめ、仲間外れなど、子どもにとっては何よりも重要な問題が原因であることはハッキリしています。
その手段として、ラインやツイッターなどのSNSが使われ、面と向かっての態度と機械の言葉とのギャップに苦しむこともあるのだろうと想像されます。
SNSは使い方によってはとても便利な道具です。
一方使い方によってはとても危険な道具であるともいえます。
面と向かっては言えないことを、遠慮なく、その時の感情でぶつけてしまうことができます。
子どもにとっては武器にもなるでしょう。
実際その使い方によって死に追いやられることもあるわけですから、果たして、便利さの価値観を野放しにしていいものかと思うところです。
もちろん、問題なのは道具ではなく使う側の人間だという論理は分かります。
しかし、人間は道具に左右されてしまうことも事実です。

究極の道具と言えば、それはお金でしょう。
生活を楽にし、人間の信頼関係を明確にするために、なくてはならない、人間と切っても切れないと言っていいぐらいの道具です。
しかし、それはあくまでも道具であって目的ではありません。
なのに、その道具に振り回され、金の為に人を殺したり殺されたりということが起こるのは、道具を目的と勘違いしているからでしょう。
お金が悪いのではなくそれを使う人間が悪いのだ、と分かっていても、お金に左右されてしまっています。

世に安売りというものがありますが、それは果たしていいことなのかと思います。
同じ商品を他より安く売るためにはどこかに無理がかかっているということではないのか。
労働賃金だったり労働時間だったり。
誰かの犠牲の上に安売りがあるのだとすれば、それは結局買う側、社会全体に悪い影響を及ぼすのではないか。
例えば以前は、近所の商店同士がお互いに商品を売ったり買ったりして、値段は多少高くてもその利益をやり取りすることで互いが豊かに暮らしてこれたのではなかったか。
また、安くてすぐ捨てられるものではなく、世代を超えて使い続けるような「本物」も伝えられてきたのではなかったか。
安売りをすることで豊かになっているのは消費者ではなくて、ごく一部の人間だけではないのか。
むしろ、安売りによって生活も心も貧しくなってしまったのではないか、と思うところです。
目先のことではなく、未来にわたっての社会の豊かさ、幸福を見据えて選択をしていかなければならないと思います。

最近、朝のルーティーンにルームウォーカーでの歩きが加わりました。
ずいぶん前に買って、ちょっとしてしばらく放っておいたものを使い始めたところです。
ただ歩くのは退屈なのでタブレットでyoutubeを見ながら歩くのですが、昨日は「100分で名著『正法眼蔵』」を見ました。
「なるほどそういうことか」と、なかなか勉強になります。
価値観を見誤らないで選択できるように、宗教の教えに触れておくことはいいことだと思います。
そういう意味では便利な道具があります。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


©遠藤浩信エンドーフォト