今の政権を言い表すならば「富国強兵」内閣とでも言いたくなるような雰囲気です。
経済成長と共に、強い国を目指す。
それのどこが悪いのか、と言われれば冷笑するしかありませんが。
「強い」という概念は相対的なもので、「弱い」ものを作らなければ強くはなれません。
「国」が強いと言うためには、他の国を弱い存在にしなければなりません。
「どちらも強くてよかったね」とはいかないのが国の問題です。
さて、日本ですが、強いのでしょうか、弱いのでしょうか。どの国より。
強くなりたい、と言う限りは弱いと思っているということでしょうか。どの国より。
アメリカより強いとは思っていないでしょうし。かといってアメリカより強くなりたいとも思っていないのではないでしょうか。
だとすれば対象国は。
オリンピックのメダル数、日本は何番目、どの国と比べましたか。
スポーツの強さならいいですよね。大いにがんばってもらいたい。
周辺国にとって、日本は強い国なのでしょうか、弱い国なのでしょうか。
日本の周辺国は多く過去に日本の支配下にありました。
支配されたのは弱いからで、支配した国は強い国だったのでしょう。
支配した側とされた側、された国民はした国民をどう見ているのでしょうか。
「強い国」は、「怖い国」「恐ろしい国民」と映っても仕方ないことだと思われます。
さらに、過去に支配した側は、された側によってその記憶が喚起され、喧伝や教育によってその行状が未来に引き継がれていきます。
誇張されたり、捏造されたりするようなことであれば、それは事実をはっきりしなければならないと思います。
しかし、支配した側はされた側に対して、あくまでも謙虚であるべきだと思います。
「謙虚」を「自虐」と解釈してはなりません。
いじめを、受ける側の問題としてはいけないように、国も支配した側の問題として考える必要があると思われます。
なのに今の日本は、富国強兵論のイメージを国民に浸透させ、以前の他を支配していた時の感覚を取り戻そうとしているかのような流れに見えます。
「強さ」の主張によって平和を保とうとする考えは、20世紀までの古く間違った考えと気づきたいと思います。
どこの国の民族も、その「人」に会えば、「人間はみな同じ」と実感するに違いありません。カンボジアでもアフガニスタンでもそう思いました。
親、兄弟、家族がいて、同じく赤い血が流れ、傷つけば血が吹き出し、悲しみには胸が張り裂け、体を震わせて涙を流す。全く同じ「人」なのだと気づきます。
なのになぜ「国」という塊になると顔が見えなくなり、人という感覚が鈍り、見下したり、恐れたり、傷つけることにも抵抗を感じなくなってしまうのでしょうか。
中島みゆきは歌います。
「見知らぬ人の痛みも 見知らぬ人の祈りも 気がかりにはならないだろう 見知らぬ人のことならば」
それは、人の顔を見ようとしないからだ、と。
「ならば見知れ」
自ら見ようとしなさい。顔を思い浮かべなさい。想像しなさい。と歌うのです。
富国強兵の心になることを非常に危惧します。
強さよりも謙虚さを望みます。
疑惑よりも信頼を望みます。
冷たさよりも暖かさを望みます。
悲しみよりも楽しさを望みます。
涙よりも笑いを望みます。
軍隊よりも家族を大切に思います。