なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災98 「支縁」

2011年10月29日 20時55分27秒 | 東日本大震災

先日のNHKラジオ第2、「宗教の時間」に出演されたやなせななさんが語っていた言葉。

「支援」の「援」という字は、援助するということで、上から目線のようであまり好きではありません。私は「しえん」の「えん」は「縁」という字にしたいと思います。

というような内容でした。

さすが!うまい!と頷きました。

そして、これはいただき!と思いました。

「援助」という響きには、どうしても「助けてやる」というような上から目線を感じないわけではありません。

そんな態度で辞任した大臣もいました。

「支縁」、縁を支えるという言葉には、もちろんそんな熟語は今までありませんでしたが、いろんなご縁をつないでいくことで「人はひとりではないんだ」という希望を見いだす意味がありそうです。

人が不幸を感じてしまうのは、自分がひとりぼっちだと思ってしまうところから始まるように思います。

どんなに困難な状況にあっても、「ひとりじゃなかったんだ」と感じたとき、人は、闇の中に一筋の光明を見いだすはずです。

物やお金の援助も大事、しかし、被災地の人々が生きていく上でもっと大事なことは、「生きていこうとする意志」ではないでしょうか。

家族を全て失い、たったひとり生き残った人が、「もう生きていく希望がない」と思ってしまう気持ちは想像できなくもありません。

その時に必要なのは、「あなたはひとりじゃない」というご縁をつなげることだと思うのです。

その活動は、まさに「支縁」と呼ぶべきものでしょう。

これは大きな言葉になりそうです。

これからも、みんながつながっていく「支縁活動」を続けていきましょう。


大震災97 飯舘村

2011年10月28日 19時26分48秒 | 東日本大震災

昨日菅野村長の話を聴きました。

飯舘村は人口6000人。

公共施設をじゃんじゃん造るような箱物行政はできない。

牛が3000頭いる自然豊かな村で、スローライフを目指そう、と思った。

「スロー」というと、経済的に後退するようなイメージがあって反発があったので、「までい」という方言に注目して「までいライフ」にした。

「までい」とは「真手」からの派生語で、「両手で」「丁寧に」「大切に」「心を込めて」などの意味が含まれている。

までいライフ提唱から7年目だった今年まで、色々な事業を展開してきた。

「までいピンポン大会」。相手の取りにくい球を返して勝ち負けを競うのではなく、相手の取りやすい球を返して、どれだけ長く続けられるかを競う卓球。

「ハーフチケット」制度。文化ホールなどを建設する資金はないが、東京などでの文化施設を利用した時の半券を持参すると、入場料の半額を補助するという制度。施設が無くても文化は養える。

「までい子育てクーポン」。お金そのものを配るのではなく、村内で買い物してもらうことと子育てをセットにした。

などなど、「ないものねだり」から「あるもの探し、あるもの生かし」を目指す事業を行なってきた。それは、大量生産、大量消費の足し算の生き方から、本当に大切なものは何か、を考える引き算の生き方への転換でもあった。

そんな中で原発事故は起きた。

全村避難。避難生活はとてつもなく大変。

知らない土地で痴呆症の進んだ老人。何もすることがないのでパチンコに耽る者。住宅・食事が与えられ、補償金をもらい、働く意欲を失っていく。

避難のストレスの方が放射能汚染より怖いとさえ思える。

でも、国の責任や東電の責任ばかりを追求していても、何も改善されない。

自分たちのことは自分たちで何とかしていかなければならない。

除染で出た土は、自分たちの村内で保管しようと決めた。

そして、最後に、「今回の大事故がきっかけで、日本人が価値観の転換を図り、次の世代の人たちから、あの時の福島の人々の苦しみがあったからこそ、日本は世界から尊敬される国になった、と評価されなければ、今の我々の苦しみはあまりにもつらい」と結びました。

村長と言葉を交わし、「まけないタオル」を飯舘村全世帯、避難している2700軒に配ってもらえるようになりました。

今後の支援活動を模索しています。


みんぱくからキャンドルナイト

2011年10月26日 23時07分47秒 | 今日のありがとう

滋賀の巡回から無事に帰り着きながらぼんやりしていました。

23日最後の教場を終えて、大阪に向かいました。久しぶりにみんぱく(国立民族学博物館)を観るためです。

大阪に1泊し、10時の開門少し過ぎに到着しました。

みんぱくは万博記念公園の中にあります。

太陽の塔がでーんと迎えてくれます。20111024_102103

アイヌの生活の特別展をやっているので、まずはこちらから。でも、期待したほどの内容はありませんでした。

間もなく本館へ突入。

懐かしい雰囲気。何年ぶりだろう。

とにかく、ここは蒐集数量が半端じゃない。一つ一つ見ていたらきりがない。

それでも、オセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、西アジアと、大陸ごとの展示を丁寧に見て回れば時間はあっという間に過ぎてしまいます。

特に、アジアの展示はすごいです。

南アジア、東南アジア、中央・北アジア、東アジア、最後に日本。

日本の途中まで来て時計を見たら、何と午後2時を回っていました。

まずい、帰りの時間がなくなる!

最後の部分は駆け足になってしまいました。

4時間あってもまだ足りない。アジアをじっくり観るなら時間配分を考えないといけません。

とにかく足が痛くなり、お腹は空いてくる。

またの機会にチャレンジしたいと思います。

ということで、24日に戻ってきたのですが、留守中にたまっていた用事を片付けなくてはなりません。

ぼんやりしながら、せっせと片付けて、今晩は環境を考える会の例会でした。

11月5日開催の「100万人のキャンドルナイトin河北」の打ち合わせ。

この時に、山形国際映画祭に出品された、震災支援関連の映画、芸工大生が作った「まけないタオル 復興コンサート」を放映することになりました。

15分の短い映画ですが、8月21日最上町で開催されたコンサートを中心にまとめた作品です。

メインは中村ブン「心の歌」コンサートです。是非ご来場ください。

「candle_night.pdf」をダウンロード

明日は、仙台国際ホテルで、曹洞宗教化センター主催、飯舘村菅野村長の講演があります。その前に、名取と仙台市の被災寺院に立ち寄ろうと思っています。


滋賀巡回3 朽木、高島

2011年10月22日 20時25分53秒 | 布教活動

今日の教場は、旧朽木村。

教場主曰く、「30年住職してきましたが、最初は17軒あった檀家が現在13軒です。とてもお寺だけでは暮らしていけません。寺を離れて暮らしています。寺にはお盆とか正月とか、このような行事がある時以外きません。檀家さんに手伝ってもらって3日かけて畳を拭いて掃除しました。カメムシがビッチリで、やはり住んでいないとだめですね。申し訳ないことです。」

そう言いながら、老人ホームに勤めている住職さんはきれいに剃り上げた頭を深々と下げるのでした。

ひとつの集落にひとつずつ寺院と神社があるという地域、しかし山林以外に産業のない山間地域は、過疎化が進んで集落自体が限界状態。

それでも、住民は何とか寺院を護持してきました。

寺に住職がいないのはあきらめています。

帰りがけに寄らせていただいた寺院は曹洞宗でも屈指の名刹寺院、この地域では珍しい専業住職。兼務を含めて15ヶ寺を預かっています。それでも檀家の合計は360軒。

こちらにお邪魔して、同じ宗派の中でも、地域によって大きな違いがある現実を知りました。

明日は最終日、明日の教場に立ち寄ってお邪魔してきましたが、檀家さんとともに準備万端整えておられました。特派布教は、何年に一度の大行事としてお迎えしてくださるのです。こちらもキッチリと勤めなければなりません。

何もなければと思っていましたが、急用もないようなので、明日は大阪に1泊して、久しぶりにみんぱく(国立民族博物館)に行きたいと思います。

ちょうど、アイヌの特別展をやっています。それにここは、何と水曜日が休館日なのです。


滋賀巡回3 葛川、朽木

2011年10月21日 16時19分10秒 | 布教活動
昨日、今日とインターネットの環境がないので、PCが使えません。スマホからなので短く。
滋賀県第1教区に曹洞宗寺院は9ヶ寺ありますが、内7ヶ寺は兼務住職(別の寺の住職が兼務で住職を勤める)で、あとの2ヶ寺も住職は別の土地に住んでいる。つまりはこの教区にはお坊さんが一人も住んでいない。
この地区自体が、9集落あって、人口が329人とのこと。この数字の後交通事故で二人が死んだらしい。
昨日泊めていただいた宿の女将が60歳で、集落の最年少だと。
昔鯖街道で賑わった村は、限界集落となりました。
フー。


滋賀巡回2 大津

2011年10月20日 06時45分06秒 | 布教活動

今朝は起きがけにベッドの上で坐禅をしてみました。

柔らかすぎて座りにくくはありましたが、これはいい!

旅に出ると、他に用事がないので、余裕で座ることができます。

今日が3教場目で、今日終わって中日です。

一昨日の毎日新聞に、飯舘村菅野村長の言葉が載っていました。

少し長いですが後半部分を引用します。

「飯舘村では、事故前から『までいライフ』に取り組んできました。までいとは『丁寧』『思いやりを持って』『心を込めて』を意味する方言です。

戦後日本経済は大量生産、大量消費、大量廃棄で動いてきました。モノの豊かさを追求し、自分さえよければよいという考え方を見直し、さまざまな人の意見に耳を傾け、相手を思いやりながら、物事を決めていくということです。

お互いが気遣い合う社会の実現は、小さな自治体の生き残り策として取り組んできましたが、いざ原発事故に遭うと、30年、50年先に目指す日本の姿だと思うようになりました。

次世代の人たちが振り返ったときに、『東北の、福島の人たちのあの苦しみがあったからこそ、日本が世界から尊敬される国になった』という転換点にしてほしいものです。

そうでなければ、今の我々のつらさはあまりにもむなしい。」

最後の言葉は胸に突き刺さります。

これほどの苦しみを、未来への教訓として活かしてくれなければ、捨石として忘れ去られてしまうならば、今生きていることがとても耐えられない、という思いだと受け止めました。

菅野村長とは二度お会いしています。今月27日には仙台で講演もあります。是非お話を聞いてみたいと思います。


滋賀巡回1 彦根、日野

2011年10月18日 21時43分01秒 | 布教活動

特派布教で滋賀県巡回中。

今日第1日目を終了。滋賀県の6割を占める琵琶湖。というよりは、琵琶湖の周りに土地があるというような県です。

そこを1週間で半周します。

昨日はひこにゃんの彦根城堀端の宿に泊まり、今日の教場は、彦根藩主井伊家の菩提寺のひとつ天寧寺様でした。

五百羅漢が収まった見事な羅漢堂があり、拝観させていただきました。

今日は近江商人発祥の地である日野町泊。ご接待も無事に終わり、眠くなったところ。

ご接待いただいた中に、昭和39年の宿用院授戒会の際に、永平寺熊沢禅師について宿用院にいらしたことのある方丈様もお見えになって、話が弾みました。ご縁を感じました。

檀家さんに不幸がないようにと祈っていましたが、願いむなしく、今朝早く亡くなったという連絡がありました。7月以降なかったので、もしや留守中にと懸念いていましたが、心配の通りになってしまいました。ご遺族の皆様には大変申し訳なく思います。

できればこれ以後はないようにと祈ります。


滋賀特派

2011年10月15日 15時21分42秒 | 布教活動

♪カメは降る あなたは来ない~

どこかで聴いたことのあるフレーズですが、本当に今年はカメムシが多くてボタボタ降ってきます。

このあたり、どこも同じようで、今年は雪が早いとか、多いとか、心配の噂になっています。

でも、考えてみたら、雪の前にこのカメが降るのを何とかしなければならないように思うのだが。

集中講座のさん喬師匠の上に降ってきたときには、どうしようかと思いました。

♪カメカメ降れ降れもっと降れ~

だから降っちゃだめなんだって。

気を取り直して。

明後日17日より1週間、特派布教の旅に出ます。

今回は滋賀県です。

どんな出会いがあるか楽しみです。

今回もお葬式がないことだけ祈ります。

檀家の皆さんにお願いです。どうか死なないで。


歌い狂い、踊り狂い、笑い狂い

2011年10月12日 17時02分46秒 | 集中講座

いやあ楽しかった。

楽しすぎてブログ更新するの忘れてました。

松林寺集中講座、今年は今まで以上に盛り上がり、楽しかった。

オープニングの「気仙沼大漁唄い込み」は、すごい迫力で、来場者の絶賛の嵐でした。みんなが元気をもらいました。

やなせななさんは、トークと歌で涙を誘いました。最後はななさん自身も感極まっていました。

「黒澤餅搗き唄」、餅搗き、餅切りの妙技と振る舞われたきなこ餅の旨さに、まさに舌鼓を打ちました。

そして、さん喬師匠の落語。今回は「長短」「湯屋番」「井戸の茶碗」の三題でした。

しかし、途中にわか雨は降るは、パトカーは通り過ぎるは、カメムシは舞うはで、師匠にはまことに申し訳ない環境になってしまいました。

特にカメムシは、今年は異常に早く、また大量発生で、落語中の師匠の上の蛍光灯に集まり、グルグル回り出し、あろう事か師匠の着物にも落ちてしまいました。

さすが師匠!

着物に落ちたカメを何食わぬ顔でさっと手に取り、何と!着物の袖の中に!

みんな心配顔で注目する中、何事もなかったように平然と落語を語り続けました。

さすがプロ!

そして、そして、その後の打ち上げは、全員総立ちで、歌い狂い、踊り狂い、本堂が割れんばかりの大騒ぎとなりました。こういう感動があるからやめられません。

そんな中、気仙沼から来た一人のお父さんが、一曲歌った後、語り始めました。

「津波で息子を亡くしました。三人の息子の内二人を亡くしてしまいました。ありったけ泣きました。今日はここに来るバスの中で初めて笑いました」と嗚咽しながら語ってくれました。

それを聴いていた周りの漁師さんたちも涙をこらえています。多かれ少なかれ、みんな誰かを失っているのです。

被災地を離れた者たちは、ややもするとすぐに被災を忘れてしまって、何事もなかったかのように錯覚してしまいますが、当事者の皆さんは、まだまだ被災中です。中には今も母親を捜し続けている人もいたのです。

そんな人々が、腹の底から歌い、笑い、踊ってくれたことに、心からうれしく思いました。

写真は後日UPします。


楽しい日々

2011年10月08日 23時01分38秒 | 今日のありがとう

昨日の新井英一のライブ、生「48番」は魂が震えました。

久々に心の底から感動し、涙が出ました。

自分は半島の血を引く人間なのかと思うほど、心が騒ぎました。

CDにサインしてもらって握手して、「今度はお寺でやりましょう」「是非」ということまで話してしまいました。どうしよう。

今日と明日の昼まで晋山式。明日の夜から明後日が集中講座。

楽しいなあ。