なあむ

やどかり和尚の考えたこと

東日本大震災134 支縁の思考

2012年11月29日 11時16分38秒 | 東日本大震災

11191659_50a9e6e7d3491新評論社から「3.11以後生きるヒント」三好亜矢子・生江明編、という書籍が刊行されました。

副題が「普段着の市民による『支縁の思考』」。

私も依頼されて一章書いています。

「大災害に生き合わせた私たち 寺院と災害ボランティア」

関心のある方はお読みいただければ幸いです。

きっかけは、昨年最上町で開催された河北新報社主催「仙山カレッジ」でパネラーを務めたこと。

そこに取材に来ていたのが編者の三好亜矢子さんでした。

もう一人、講師として話をしたのが最上町町長で、その町長が語った「支援から支縁へ」の言葉がこの本の副題に取り上げられたようです。

しかし、解説しておかなければなりませんが、ご存じの人はご存じの通り、この「支縁」という言葉を最初に使ったのは私の知る限りやなせななさんです。

昨年のNHKラジオの中で彼女が語ったもので、私も得心しながら聞いておりました。

同じように、最上の人間も聞いていて、自分たちの集落の活動に「支縁」という文字を使ったのを町長が取り上げた、というのが経過です。

もちろん、いい言葉ですし、やなせさんもそれを独り占めするよな気持ちはないはずですので、どなたが使われてもいいというか、むしろこれからの支援に大事な意味付けをしてくれる言葉として広く広まればいいなと思います。

私も使わせてもらっています。自治体として初めてこの言葉を使ったのが最上町であるとすればそれもうれしいことです。この本によって、さらにこの国にこの心、その意味するところが広がればすばらしいと思います。

ただ、その出所を忘れずにいて欲しいと願うだけです。


ラオス20周年

2012年11月24日 22時22分32秒 | シャンティ国際ボランティア会

昨日ラオスから帰ってきました。

シャンティ国際ボランティア会ラオス事務所20周年式典に出席しました。

昨年のカンボジア事務所に引き続いて、今年はラオス事務所が20周年を迎えました。

カンボジアと同じような時期にラオス・ベトナムからも本国から逃れた人々いて、インドシナ難民と呼ばれました。ラオス難民キャンプはタイ、バンビナイにあり、当会が支援活動を行っていました。

その難民の本国帰還に伴ってラオスに活動地を移したのが20年前の1992年でした。

電気のない村の学校でも使える印刷機として、日本の謄写版を持ち込み、ついには謄写版工場も作って、ラオス国内の全校に配布するという独自の活動を行ってきました。

図書館まではいかないまでも、絵本などを詰めた図書箱をこれも全校配布するなど、ラオス教育省の全面的な理解を得て活動を展開してきました。

その後、公共図書館を建設したり、学校建設を行ったり、子ども文化センターを運営したりと、子どもの教育・文化支援活動を地道に行ってきました。

ですから、式典には、ラオス教育省、国立図書館、JICA、日本大使館などから、出席をいただき、日本からの出席者、元スタッフなどが参列し、賑やかなものとなりました。

ラオスの歌姫アレキサンドラさん、伝統舞踊の子どもたちも花を添えてくれました。

懐かしいスタッフとも再会し、夜遅くまで祝杯を挙げたことは言うまでもありません。

写真1枚目は、ラオスの前に寄ったタイ・バンコクの事務所スタッフとの夕食会。3枚目はラオスでの移動図書館活動の様子です。

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カンボジアのお母さん

2012年11月15日 20時55分02秒 | シャンティ国際ボランティア会

前にもこのタイトルで記事をUPしたと思ったのですが、消えていました。思い違いだったでしょうか。FACEBOOKと混同してるかも。

32年前難民キャンプで出会ったカンボジアのお母さんニャン・サンさんが11月5日埼玉県東松山で亡くなりました。86歳でした。

1980年、ボランティアとして2ヶ月間滞在したサケオ・カンボジア難民キャンプ。

縁あって一家族と知り合いになりになりました。

トン・バンお父さん、ニャン・サンお母さん、ハッチ、ホッチ、マーチ、モッチの子どもたち、それにラ・ブンという里子が、六畳間ぐらいの仮設の建物に暮らしていました。

日本に帰る間際のある晩、夕食に誘われました。

難民の家族に食事をご馳走になる?迷いましたが、友情の証にと言われて断り切れず、4名のボランティアがご馳走になることになりました。

配給の限られた食材で、最大限のもてなしをしてくれたことがありありと分かります。

砂の入り交じったご飯、調味料の足りないスープ。お世辞にもおいしいとは思えませんでした。

でも、お父さんと私たちが食べるのをお母さんと子どもたちは固唾を呑んで見守っています。

「チュガニ(おいしい)」と言うと、子どもたちの顔がパーッと明るくなって喜んでくれます。

私たちは互いに譲り合いながら、何とか冷や汗を流しながら飲み込みました。

食事が終わって、お母さんは、「私には、この子らの他に、一人の兄と二人の姉がいましたが、ポル・ポトの戦争で殺されました、だからおまえは今日から私の息子だよ」と言いました。

それ以来、私は、ニャン・サンのことを「お母さん」と呼んでいます。

実は、このときいただいた食事の材料は、この家族が「この日になったら日本の友だちにご馳走しよう」と、何日か前から少しずつ残してきたものだったことを後から知りました。

そんな貴重な食事をいただいたことを忘れるわけにはいきません。そして、いただいて良かったと心から思いました。

家族は、その後何年かして難民として日本にやってきました。

日本で再会を果たし、以来親戚のつきあいを続けてきました。

この度、お母さんの訃報を聞き、東松山に急行しました。

安らかできれいなままのお顔でした。

日本にやってきてから26年、いろいろな思いがあったでしょう。最期はきっとカンボジアの大地を思い浮かべていたのではないかと想像しました。

熱心な仏教徒だったお母さん、スタイルは違えども、黄色のお袈裟を身にまとって読経しました。

お骨は十数年前に亡くなったお父さんの時と同じく宿用院でお預かりすることにしました。

お父さんのお骨の一部は、今でも宿用院に安置しています。戒名もつけさせていただきました。

「徳実誠信居士霊位」

その隣にお母さんのお骨も安置して、一緒にお参りしました。

「徳風妙薫大姉霊位」

カンボジアには、お父さんも眠る親族のお墓があります。

子どもたちがお金を貯めて納骨に行く日まで、ここにお休みください。

優しく温かかったお母さん。

長い間お疲れ様でした。お世話になりました。おいしい食事ごちそうさまでした。

また会いたいです。

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東日本大震災133 中間報告

2012年11月06日 21時15分55秒 | 東日本大震災

昨年の5月以来、たくさんの方々にご支縁をいただいてきました「まけない!タオル」プロジェクト、10月末時点で中間報告をすることにしました。

本当に多くの皆様に「支縁」の輪が広がり、現在7万枚目を製作しています。

タオルそのものの評価よりも、早坂文明、やなせななのコンビニよるテーマソング「まけないタオル」が大きな広報効果をもたらしていることは間違いありません。

現在も、やなせさんは全国各地を飛び回り、歌と共にタオルの活動を広めてくださっています。

いただいたご支縁金で被災地にタオルを届けていますが、それ以上にいただいた分については、大切に、直接被災地に届く形で支縁をさせていただいています。

特に、故郷を離れバラバラに暮らしている地域の人々が、離れていても心を一つにしていけるような、伝統芸能や祭りの復活等に支縁して行ければと考えています。

ということで、今後もこのプロジェクトは継続して活動を続けていきます。

中間報告のチラシは、これまでご支縁いただきました方々に郵送させていただきますが、住所の分からない皆様には、以下のコピーで報告とさせていただきます。

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