三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第380回。8月28日、日曜日。
22日の夜中、突然のどが痛み始めました。
この春に交換した新型のCPAP(睡眠時無呼吸症候群治療器)を使用してから喉の渇きがひどかったので、そのためかと思いました。
また、半年ほど前から耳鳴りがし出して、テレビのボリュームもカミさんとレベルが違うし、いつか診てもらおうかと思っていたので、23日耳鼻咽喉科に行きました。
耳鳴りの方は、病気ではないし治療方法はない、忘れるか慣れるしかないと。聴力検査もしましたが、片方の聴力が悪い場合は突発性難聴の可能性があり急を要するが、両方の耳が同じような聴力なので、つまりは年齢によるものだと。
「それぐらいの年齢であれば仕方ないですよ」と、高齢者であることの自覚を嫌というほど迫られたのでした。
目は霞町、耳は十日町、腰板橋、膝は下板橋、頭は思い出横丁、身体全部が小姓町、気持ちだけが若葉町。てなもんです。
で、のどですが、「乾燥の場合は朝だけで、飲んだり食べたりすれば午前中には収まる」とのことで、抗生剤と痛み止めの薬を出してもらいました。
ところが、痛みが治まるどころか日増しにひどくなってきて、つばを飲み込むたびに激痛が走ります。
水を飲むのも、食事を摂るのも躊躇します。
おかゆを煮てもらったり、ヨーグルトを試したり、ゼリー状の栄養剤を飲んでみたりしましたが、いずれものどを通るので激痛は変わりません。
午前中どころか夜になっても夜中でも痛みは増すばかり。乾燥のためではなかったのでしょう。
薬が効かないので、イソジンでうがいをしたり、のどヌールスプレーをしたり、喉(首)にモーラステープを貼ったりして対処してみましたが、特に効果はありませんでした。南天のど飴を舐めてみましたが、飴を舐めるとつばが出るのでかえって苦しい思いをしました。
25日もう一度診てもらおうと同じ耳鼻科に行きましたが、新庄まつりのためか臨時休業で、町のかかりつけ医院に行きました。
事情を話して診てもらい、扁桃腺が赤くなっているということで点滴となりました。
それでも簡単に痛みは治まらず、昨日あたりからようやく軽減されてきたという感じです。
たかがのどの痛みですが、身体のどこかに不具合があると体全体、気持ちにも不調をきたし、常の行動にも影響があります。
坐禅をしていても心が収まらず、朝のお勤めもまともに読経できません。散歩に行く気にもなれません。頭もどことなくぼんやりしています。
幸いにこの間お経を読む仕事がなかったのはありがたかったです。
一つ一つの痛みや衰えを感じて、命の無常を観じなければなりません。
昨日と今日とは違うし、今日と明日も違います。
時が無常であれば存在も無常なのです。
留めなく流れる時間とともに存在も流れています。
それは誰しも承知でありながら、健康であれば、この状態がいつまでも続くのではないかと錯覚してもしまいます。
些細な痛みや不具合は、その錯覚から目を覚まさせてくれる刺激なのだと受け止めたいと思います。
痛い、目を覚ませ、痛い、目を覚ませ。
いずれは全ての命がこの世を去っていきます。
過去に触れ合った大切な命も、今はこの世にいません。
涙は枯れ果て、悲しみは少しずつ少しずつ思い出として整理されていきます。
今出会っている命もやがて同じように仕舞われていくでしょう。
その中に自分という命も含まれます。
それは自然の運行であり、抗うべきことでもなく、それ自体は幸でも不幸でもありません。
それでも、出会いは楽しく、別れは悲しいことです。それを否定することもありません。
人生のある時を境に出会いよりも別れが多くなるでしょう。
それを不幸が多くなると思ってはなりません。
別れから学べることも、別れによる出会いもあるのです。
それを「大人の出会い」と言ってもいいかもしれません。
別れによって開かれる目。ものの見方。受け止め方の重さ。
それらは、若い頃とは違うものと思われます。歳を重ねないと感じることのできない出会いがあるでしょう。
出会いの数よりも、出会いの深度。それが高齢者の出会い方ではないかとふと感じます。
若いころと違って行動範囲も狭くなり、自由な時間が多くなるのですから、一人の人、一つのこととじっくりとつき合ってみる、無駄な話も何度も繰り返して、思い出話に懐かしむ。そんな時間を過ごしてもいいのではないか。
若い者には分かることのできない、その時々の楽しみがあるはずです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
22日の夜中、突然のどが痛み始めました。
この春に交換した新型のCPAP(睡眠時無呼吸症候群治療器)を使用してから喉の渇きがひどかったので、そのためかと思いました。
また、半年ほど前から耳鳴りがし出して、テレビのボリュームもカミさんとレベルが違うし、いつか診てもらおうかと思っていたので、23日耳鼻咽喉科に行きました。
耳鳴りの方は、病気ではないし治療方法はない、忘れるか慣れるしかないと。聴力検査もしましたが、片方の聴力が悪い場合は突発性難聴の可能性があり急を要するが、両方の耳が同じような聴力なので、つまりは年齢によるものだと。
「それぐらいの年齢であれば仕方ないですよ」と、高齢者であることの自覚を嫌というほど迫られたのでした。
目は霞町、耳は十日町、腰板橋、膝は下板橋、頭は思い出横丁、身体全部が小姓町、気持ちだけが若葉町。てなもんです。
で、のどですが、「乾燥の場合は朝だけで、飲んだり食べたりすれば午前中には収まる」とのことで、抗生剤と痛み止めの薬を出してもらいました。
ところが、痛みが治まるどころか日増しにひどくなってきて、つばを飲み込むたびに激痛が走ります。
水を飲むのも、食事を摂るのも躊躇します。
おかゆを煮てもらったり、ヨーグルトを試したり、ゼリー状の栄養剤を飲んでみたりしましたが、いずれものどを通るので激痛は変わりません。
午前中どころか夜になっても夜中でも痛みは増すばかり。乾燥のためではなかったのでしょう。
薬が効かないので、イソジンでうがいをしたり、のどヌールスプレーをしたり、喉(首)にモーラステープを貼ったりして対処してみましたが、特に効果はありませんでした。南天のど飴を舐めてみましたが、飴を舐めるとつばが出るのでかえって苦しい思いをしました。
25日もう一度診てもらおうと同じ耳鼻科に行きましたが、新庄まつりのためか臨時休業で、町のかかりつけ医院に行きました。
事情を話して診てもらい、扁桃腺が赤くなっているということで点滴となりました。
それでも簡単に痛みは治まらず、昨日あたりからようやく軽減されてきたという感じです。
たかがのどの痛みですが、身体のどこかに不具合があると体全体、気持ちにも不調をきたし、常の行動にも影響があります。
坐禅をしていても心が収まらず、朝のお勤めもまともに読経できません。散歩に行く気にもなれません。頭もどことなくぼんやりしています。
幸いにこの間お経を読む仕事がなかったのはありがたかったです。
一つ一つの痛みや衰えを感じて、命の無常を観じなければなりません。
昨日と今日とは違うし、今日と明日も違います。
時が無常であれば存在も無常なのです。
留めなく流れる時間とともに存在も流れています。
それは誰しも承知でありながら、健康であれば、この状態がいつまでも続くのではないかと錯覚してもしまいます。
些細な痛みや不具合は、その錯覚から目を覚まさせてくれる刺激なのだと受け止めたいと思います。
痛い、目を覚ませ、痛い、目を覚ませ。
いずれは全ての命がこの世を去っていきます。
過去に触れ合った大切な命も、今はこの世にいません。
涙は枯れ果て、悲しみは少しずつ少しずつ思い出として整理されていきます。
今出会っている命もやがて同じように仕舞われていくでしょう。
その中に自分という命も含まれます。
それは自然の運行であり、抗うべきことでもなく、それ自体は幸でも不幸でもありません。
それでも、出会いは楽しく、別れは悲しいことです。それを否定することもありません。
人生のある時を境に出会いよりも別れが多くなるでしょう。
それを不幸が多くなると思ってはなりません。
別れから学べることも、別れによる出会いもあるのです。
それを「大人の出会い」と言ってもいいかもしれません。
別れによって開かれる目。ものの見方。受け止め方の重さ。
それらは、若い頃とは違うものと思われます。歳を重ねないと感じることのできない出会いがあるでしょう。
出会いの数よりも、出会いの深度。それが高齢者の出会い方ではないかとふと感じます。
若いころと違って行動範囲も狭くなり、自由な時間が多くなるのですから、一人の人、一つのこととじっくりとつき合ってみる、無駄な話も何度も繰り返して、思い出話に懐かしむ。そんな時間を過ごしてもいいのではないか。
若い者には分かることのできない、その時々の楽しみがあるはずです。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。