なあむ

やどかり和尚の考えたこと

あぶらっこ

2014年04月26日 21時26分13秒 | ふと、考えた

子どものころ「あぶらっこ」という言葉がありました。

子どもが遊ぶのは屋外であり、誰かと集団で遊ぶのが遊びというものだと思っていました。

遊び場には同年代ばかりでなく、大きな人も小さな人もいて、それらがまざって遊ぶものでした。反対にいうと、まざらなければ遊べないものでした。

小さいころ、大きな人と遊ぶのは怖いことであり、怒られないように、いじめられないように気を遣いながら遊んだと思います。もうそれは、社会でした。

そこで、年齢差のある子どもたちが同じ遊びをする場合、どうしてもまだ一人前(子どもとして)の仲間になれない小さな者は、「あぶらっこ」と呼ばれ、あぶらっこのルールが適用されるという決まりでした。

たとえば、野球の一塁ベースが少し近かったり、缶蹴りの鬼にはさせない、というような特別扱いをされるのがあぶらっこの存在でした。

それは子どもにとってうれしいことではなく、まだ一人前の子ども扱いされない惨めさを感じるものでした。

それでも、まぜてもらえなければ遊べないので、泣きながらでもついていくのでした。

ここで言いたいのは、あぶらっこ側の問題ではなく、どんな小さなものでも仲間はずれしないで一緒に遊ぶことになっていた「大人の」子ども社会のことです。

ルールを変えて特別扱いしても一緒に遊ぶ、という許容量の大きさが子ども社会にもありました。

もう少し以前には、福祉もましてやボランティアもありませんでした。

村社会は、村の仲間を社会の一員として仲間はずれしないで生きてきたので、福祉という隔離政策や、ボランティアのような「善行」が必要のない、「当たり前」のことでした。

「ボランティア」という言葉が日本語になりにくいのは、そういう概念すらこの国には必要なかったということだと思います。

もちろん、障がいや老人に対する対応が、必ずしも優しい社会ではなかったと思います。

でも、隔離せずに一緒に暮らしていれば、そういう人も社会にはいるのだということを知って育ったことは間違いありません。

福祉やボランティアという行為が声高に言われるのは、仲間はずれしない社会が崩壊した現れなのかもしれません。

SVAシャンティ国際ボランティア会の初代会長、松永然道現名誉会長が初期のころよく口にしていたのは、「我々は我々の団体が必要なくなるためにやっているんだ」という言葉でした。

けだし名言だと思います。

元々(本来の意味は若干違いますが)いわゆるボランティア活動は、非日常の状況での活動であり、日常的には、特別な人が特別な行為をしなくても、みんなが助け合って支え合っていける社会が本来であり、その社会の実現のために我々は行動しているのだ、という思いであったでしょう。

この地に、いつからあぶらっこがいなくなったのでしょうか。

この国に、ボランティアが必要のない社会をとりもどすのはもう無理なのでしょうね。


禅譲

2014年04月20日 17時24分23秒 | ふと、考えた

「譲る」    吉野弘

春の気配を感じると

雪は あっさり

退位に同意し

白い領分をどんどんへらしてゆく。

陽当たりのいいところなどでは

急いで縮まろうとして

美しい肌に

しわをつくったりするほどだ。

昔の中国に

「禅譲」というしきたりがあった。

帝王がその位を有徳の人に譲ること

と物の本に書いてある。

冬の帝王から

春の帝王への禅譲は

急速に

親しみをこめて行われる。

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もう間もなく、完全に禅譲されます。

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吉野弘「生命は」

2014年04月14日 20時58分25秒 | ふと、考えた

4月1日の山形新聞に吉野弘さんの詩が載りました。

吉野弘は酒田市生まれで、今年1月に87歳で他界されました。

「祝婚歌」が有名ですね。

新聞に載ったのは「生命は」と題された詩。

自分が以前からボンヤリ感じてきた思いを、そのまま表現してくれたようでうれしく読みました。

全ては縁によって成り立っている、とは釈尊の教えですが、それと通じる真理を、こんなにも平易な言葉で簡潔に表現してくれた詩に感動を覚えます。

以下です。

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分

他者の総和

しかし

互いに欠如を満たすなどとは

知りもせず

知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに

うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように

世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない


福島に届ける仏法

2014年04月08日 22時48分02秒 | ふと、考えた

曹洞宗は今年度、昨年度に引き続き布施行を布教方針の柱にあげています。

一般的に考えれば、布施とは施しのことで、与えることの意味になりますが、道元禅師は「布施とは不貪なり」と教示しています。貪らないことが布施だという教えです。

だから、貪りの心がなければ、たとえ父母妻子に施すのも、自分のために使うのも布施になると展開をしているのです。花が咲くのも鳥が鳴くのも布施だと。

今この国で、最も苦しい状況に置かれているのは原発事故の被災者の方でしょう。

もちろん、苦しみは個人個人の問題であり、誰かと比べて1番2番と優劣をつける事柄ではないことは承知です。

しかし、突然襲ってきた地震、津波により家を失い家族を失い、原発事故で故郷を追われ、仕事を失いコミュニティが破壊され、更にその上に、事故の補償の問題で金銭的に差別感を生み、疑心暗鬼になり、親戚、友人関係まで精神的にバラバラにされてしまっている状況は、これまでにこの国の国民が経験したことのない数重苦と言わなければならないでしょう。

事故前まで、それぞれの生活の違いがありながら、お互い認め合って穏やかな社会を形成していたところへ、襲いかかってきた金銭による差別感、不公平感は、人工の津波のような被害ではないでしょうか。

金銭的な問題は、簡単に人の心と人間関係を変えてしまう大きな力をもっていると思います。恐ろしい力です。

人間が生きていくのにお金は必要です。しかし、人間は金銭によってのみ幸せを享受できるものではありません。

むしろ、金銭をはじめとする欲は、最も簡単に人間を破壊し、精神的に貧しくしてしまう毒なのです。

仏教が「三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)」と示す、人間にとって害ある煩悩の筆頭に貪欲を挙げているのはそれ故でしょう。

そういう意味で、福島の原発被災の方々とその周辺の方々の精神的な苦しみは、人間の根本の煩悩を煽ってしまったところにあるのではないかと思っています。

その苦しみの中にいる人々に、仏教は何が説けるのか。

法ー仏の教えが、苦しむ人々を救う薬なのだとすれば、福島の方々へ届ける薬は何か。

何を伝えればいいのか。それを考えます。

簡単なことではないことは分かっています。

ですが、仮にも僧侶であるならば、ギリギリと頭を使い、歯ぎしりをしながら考える産みの苦しみを味わう責務があるのではないか。

誰も経験したことのない苦しみにも、仏教は全く役に立たないはずはない、と思っています。


第9回松林寺集中講座

2014年04月08日 21時45分24秒 | 集中講座

第9回を迎えた松林寺集中講座、本日の実行委員会で事実上のスタートです。

昨年より6月第1日曜の開催となっています。

今年は6月1日(日)開催。

毎回、講演と音楽、そしてお笑いの三本柱でプログラムを組んでいますが、今回の講師陣は、

講座1,南相馬市、北屋形の神楽。

講座2,エッセイスト 朴慶南さんの講演。

講座3,入船亭扇遊師匠の落語。

の三講座です。

併せて、女川町出身の写真家齋藤伸さんの写真展を同時開催いたします。

更に、毎年好評の地産品即売もあります。

半径500メートルにミニFMの生中継もいたします。

入場料1500円、前売り1000円。電話・FAX・メールでの予約受付もいたします。

必要な方には、近くの赤倉温泉の宿の手配もいたします。

山菜のおいしい、最上地方最高の季節、命の洗たくに、是非お越しください。

お問い合わせは、0233-45-2833松林寺まで。

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