三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第265回。5月3日、日曜日。
今週もこれといって大きな動きはありませんでした。
「カメムシの逆襲」シリーズはあまり評価がよろしくなかったことが「いいね」の数から推測されましたが、気を取り直して通常モードでお送りします。
自粛ムードから啓蟄のようにモゾモゾと這い出して様子を見ているという感じでしょうか。
ただ、各種イベントやら行事、あちこちの例会など、休んでしまえば休むことに慣れてしまい、もうこのままやめてしまってもいいような気分になります。
3か月も休むと休みグセがついてしまってモチベーションが下がりますね。
オンラインのミーティングなども、慣れてしまえばこれもいいんじゃないか楽だし、みたいな受け止め方で、顔を合わせることの煩わしささえ感じているかもしれません。
このままだと集団引きこもりみたいな、感動のない社会になってしまいます。やはり、会いたくない人とも顔を合わせながら悲喜交々交わっていくのが人生というものでしょう。そこにこそ、生きている実感と喜びが生まれると思いたいですね。
朝の散歩は線路の脇の道を歩くのですが、ちょうど同じ時間に陸羽東線上下の列車が通過します。
どちらの車窓にも客の姿はなく、空気を運んでいるだけの空しさを感じ胸の痛い思いをしていました。
先週からようやく通学の高校生の姿が見え始め、どんな話をしているのだろうかとこちらまでワクワクしていました。
誰もいなくてもワンマンカーのアナウンスは流れていたと思われ、「次は立小路です。次の駅では一番前のドアしか開きません…」というような声を運転士はどんな思いで聞いていたのか、まあ、コロナ前も時間と区間によっては空気だけを運んでいたのも珍しくなかったので慣れていたかもしれませんが。
でもやっぱり、一人でも客が乗っていた方が仕事に張り合いはあるよねと思います。
「ステイホーム」といって家に居られる人はいいけれど、国民全員が家に居てしまえば社会が成り立たず、家にいて飢えなければならないでしょう。
多くの人が家に居ても生きられるのは、その裏に動いている人がいたからです。
家に居ながら買い物したり、お取り寄せしたり、3密を避けながらもスーパーでは買い物ができました。
そのためには物流は動いていたわけで、きっと普段よりむしろ仕事量は多かった人々もあったでしょう。さらにはその関連の業種、その関連と、普段通りに動いていたはずです。
もちろん、医療従事者、保健所などの行政、警察関係などなど、休めない、ステイホームできない人々がいます。家でテレワークできる人をうらやましく思っていたのではないですか。
それらの方々に心から感謝を申し上げます。のんびり過ごさせていただき申し訳ありません。
一方、観光業、飲食店関係、いわゆる接客業の皆さんは一番被害が大きかったでしょう。他にも文化芸能関係者、スポーツ関係、学校関連の皆さんも大変でした。この度は業種によってその被害に大きく差が出たと思います。
一律10万円で本当によかったのか。マスクの不満を黙らせるためだったのか。濡れ手に粟で喜んだ人もいれば歯噛みをしている人もいたと思います。
全員を満足させることは無理だとしても、せめて思いつきではなく、じっくり考えてしかもスピーディに優先順位をつけて救済していくのが政治の役割だといえるでしょう。そういう意味では、ベトナムや台湾など、政治の力で上手に乗り越えた優等生もありました。
コロナ後の「新たな生活様式」という話題も出てきました。
この災禍を教訓に生活をどう見直していくのか、という話題です。
悲観的にいえば、まあ残念ながらおそらく変わらないでしょうね。
震災被害がありました。原発事故がありました。あれほどの災禍に見舞われながら、生き方、価値観が変わったかといえばそうは思えません。喉元過ぎればというのがこの国の人々の罪深いところです。
もちろん当事者は違います。
しかし、それ以外のいわゆる一般大衆は、あくまでも他人事として傍観者に堕してしまいます。だから政治が変わらないのです。「国民はそのうち忘れる」などとはなから見下げられているのです。
怒りは我が身を焦がし、自他ともに傷つける元で、仏教では三毒の一つとして戒めています。しかし「慈悲の怒り」はその限りではありません。
人権が侵害され、故なく虐げられる事実を、見て見ぬふりするのは慈悲の立場からは「悪」です。
慈悲心をもって怒りを持続していかなければなりません。
原発事故以来私は、ふつふつと泡立つ怒りを消し去ることができません。
何がオリンピックですか。ごまかしは許されません。
オリンピックゲームは好きですよ。だけど、「復興五輪」などと言葉でごまかして忘れさせる免罪符にされることには怒りを感じます。
コロナで命を落とし、倒産し、仕事と住むところを失い、虐待され、塗炭の苦しみを受けた人のことも、まとめてオリンピックで忘れさせるのではないですか。
命のために経済が必要なのです。経済のために命が犠牲されるようなことは本末転倒です。
いけません。怒りが燃え上がってきます。これぐらいにしておきましょう。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
今週もこれといって大きな動きはありませんでした。
「カメムシの逆襲」シリーズはあまり評価がよろしくなかったことが「いいね」の数から推測されましたが、気を取り直して通常モードでお送りします。
自粛ムードから啓蟄のようにモゾモゾと這い出して様子を見ているという感じでしょうか。
ただ、各種イベントやら行事、あちこちの例会など、休んでしまえば休むことに慣れてしまい、もうこのままやめてしまってもいいような気分になります。
3か月も休むと休みグセがついてしまってモチベーションが下がりますね。
オンラインのミーティングなども、慣れてしまえばこれもいいんじゃないか楽だし、みたいな受け止め方で、顔を合わせることの煩わしささえ感じているかもしれません。
このままだと集団引きこもりみたいな、感動のない社会になってしまいます。やはり、会いたくない人とも顔を合わせながら悲喜交々交わっていくのが人生というものでしょう。そこにこそ、生きている実感と喜びが生まれると思いたいですね。
朝の散歩は線路の脇の道を歩くのですが、ちょうど同じ時間に陸羽東線上下の列車が通過します。
どちらの車窓にも客の姿はなく、空気を運んでいるだけの空しさを感じ胸の痛い思いをしていました。
先週からようやく通学の高校生の姿が見え始め、どんな話をしているのだろうかとこちらまでワクワクしていました。
誰もいなくてもワンマンカーのアナウンスは流れていたと思われ、「次は立小路です。次の駅では一番前のドアしか開きません…」というような声を運転士はどんな思いで聞いていたのか、まあ、コロナ前も時間と区間によっては空気だけを運んでいたのも珍しくなかったので慣れていたかもしれませんが。
でもやっぱり、一人でも客が乗っていた方が仕事に張り合いはあるよねと思います。
「ステイホーム」といって家に居られる人はいいけれど、国民全員が家に居てしまえば社会が成り立たず、家にいて飢えなければならないでしょう。
多くの人が家に居ても生きられるのは、その裏に動いている人がいたからです。
家に居ながら買い物したり、お取り寄せしたり、3密を避けながらもスーパーでは買い物ができました。
そのためには物流は動いていたわけで、きっと普段よりむしろ仕事量は多かった人々もあったでしょう。さらにはその関連の業種、その関連と、普段通りに動いていたはずです。
もちろん、医療従事者、保健所などの行政、警察関係などなど、休めない、ステイホームできない人々がいます。家でテレワークできる人をうらやましく思っていたのではないですか。
それらの方々に心から感謝を申し上げます。のんびり過ごさせていただき申し訳ありません。
一方、観光業、飲食店関係、いわゆる接客業の皆さんは一番被害が大きかったでしょう。他にも文化芸能関係者、スポーツ関係、学校関連の皆さんも大変でした。この度は業種によってその被害に大きく差が出たと思います。
一律10万円で本当によかったのか。マスクの不満を黙らせるためだったのか。濡れ手に粟で喜んだ人もいれば歯噛みをしている人もいたと思います。
全員を満足させることは無理だとしても、せめて思いつきではなく、じっくり考えてしかもスピーディに優先順位をつけて救済していくのが政治の役割だといえるでしょう。そういう意味では、ベトナムや台湾など、政治の力で上手に乗り越えた優等生もありました。
コロナ後の「新たな生活様式」という話題も出てきました。
この災禍を教訓に生活をどう見直していくのか、という話題です。
悲観的にいえば、まあ残念ながらおそらく変わらないでしょうね。
震災被害がありました。原発事故がありました。あれほどの災禍に見舞われながら、生き方、価値観が変わったかといえばそうは思えません。喉元過ぎればというのがこの国の人々の罪深いところです。
もちろん当事者は違います。
しかし、それ以外のいわゆる一般大衆は、あくまでも他人事として傍観者に堕してしまいます。だから政治が変わらないのです。「国民はそのうち忘れる」などとはなから見下げられているのです。
怒りは我が身を焦がし、自他ともに傷つける元で、仏教では三毒の一つとして戒めています。しかし「慈悲の怒り」はその限りではありません。
人権が侵害され、故なく虐げられる事実を、見て見ぬふりするのは慈悲の立場からは「悪」です。
慈悲心をもって怒りを持続していかなければなりません。
原発事故以来私は、ふつふつと泡立つ怒りを消し去ることができません。
何がオリンピックですか。ごまかしは許されません。
オリンピックゲームは好きですよ。だけど、「復興五輪」などと言葉でごまかして忘れさせる免罪符にされることには怒りを感じます。
コロナで命を落とし、倒産し、仕事と住むところを失い、虐待され、塗炭の苦しみを受けた人のことも、まとめてオリンピックで忘れさせるのではないですか。
命のために経済が必要なのです。経済のために命が犠牲されるようなことは本末転倒です。
いけません。怒りが燃え上がってきます。これぐらいにしておきましょう。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。