なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ400 え?400回?!

2023年01月15日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第400回。令和5年1月15日、日曜日。

何と!サンサンラジオが400回目を迎えました!
毎週日曜日の朝5時にUPして、7年8か月が経ったことになります。
我ながらよく続いていると思います。
訪問者数は毎週増減がありますが、ほぼ一定の数で推移しています。
毎回読んでくれている方もいて、「毎週楽しみにしているよ」などと言っていただくとうれしく思います。
意外な場所で、意外な方からそのように言われることもあり、どなたが読んでくれているかがこちらには分からないので、喜んだり緊張したりです。
ブログはfacebookやtwitter、instagramなどのように短文で一瞬で読める分量ではないので、読みたい人しか訪れないという特徴があります。
ながめるだけ、流し読み、が好みの人には向きません。
自然に分類され、どちらかというと固定客のような方向けになって来ています。
それでも、今週は何人が読んでくれたかと気にはなり、増えればうれしいし減ればガッカリします。
読んでみようと思うような工夫は当然必要で、その一番はタイトルだと思っています。
なので、タイトルには少し力を入れます。
名は体を表すで、本文の内容を端的に表すのがタイトルですが、内容とはピッタリではなくとも内容が気になるようなタイトルを心がけています。
たとえば先週の「死のデザイン」とか、少し前の「さめざめと泣く」や「生きながら死んでいる」などは、なんだろうとついつい読んでしまうということがあるのではないかと狙っているとことがあります。
また、理解が難しい話ばかりが続いてしまうと離れてしまうという心配もあるので、時折くすぐるようなユーモアも必要だと気にかけています。
そんな時に頼りになるのがカミさんの発言です。
彼女のど直球の発言は、胸にグサッと刺さりながらも笑えてしまいます。
前にも話しましたが、このブログで週ごとの読まれた記事の集計が見られるのですが、ほとんど毎週10番目以内にランクインするページが「バカ肉」というタイトルの記事なのです。
13年も前に書いたものですが、誰が、どうして、好んでこのページを読むのか不思議で、その理由を知りたいと思っているところです。
それは以下のようなものです。

先日足の爪が剥がれた時、中の肉がまだ完全にできあがっておらず、生のまま盛り上がっていた状態でした。
消毒しておけばそのうち乾くのだろうと思って、家にある消毒薬を塗って包帯を巻いて対処していました。
ところが1週間経っても改善せず、包帯を剥がすたびに血が吹き出るので、このままではだめかと思い、昨日ようやく医者に行ってきました。
医者は診るなり「バカ肉だね」と。
家の包帯は肉にくっついてしまうので、剥がすたびに皮が剥がれてまた肉が出てくる、それを「バカ肉」というようで、素人治療の浅はかさを知りました。
「餅は餅屋だからね」と先生。
しかし、肉にバカなものとそうでないものがあるとは知りませんでした。
その話を家内にすると、「あなたの肉でバカでない肉はあるの?」という厳しいお言葉。金太郎飴の如く、どこを切ってもバカ肉のような言われようでした。
少しぐらいはいい肉もあるんじゃないのと思いましたが、成人病のデパートのような内臓と、脂ぎった肉では、反論もできないとあきらめました。


おもしろいと言えばおもしろい記事ですが、かといって何度も繰り返し読みたいというほどでもないように思います。
なぜ読まれるのか、いつも不思議に思っています。
彼女の直球は日常茶飯事なので、これからも楽しませてくれると思います。
先日も「あなたが死んでも保険金なんかわずかしかないんだから、今のうちに働け」と尻を叩かれました。
働く気はあるのですが御用聞きに回るわけにもいかず…。
まあこれからも、彼女の言葉に刺激されながら続けていきたいと思います。
皆様の訪問が励ましになっています。
コメントや何らかの反応をいただけたらさらにうれしく思います。
めざせ500回!

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ399 死をデザイン

2023年01月08日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第399回。令和5年1月8日、日曜日。

喪中ということで静かな正月を過ごしました。
松林寺、宿用院の新年会もなく、松飾りもなく、供え餅もなく、年賀状もない正月でした。
もちろん、三が日の三朝祈祷、元日の合同祈祷は滞りなく勤めました。
年末に集まった子どもたち家族も、30日にはそれぞれの実家や家に雲散して、初めてのカミさんと二人だけの正月でした。
そのお陰で、三日間じっくり駅伝を観て過ごすことができました。
一日の実業団、二日三日の箱根。
わが母校駒大の活躍もあり、目が離せませんでした。
四日には、地元百軒のお札配り、五日には他地区役員さんへお札配布の依頼、六日は寒念仏を勤め、昨日は七草がゆを食べて一区切りというところでしょうか。

昨年は戦争が始まったり、そのために物価が高騰したり、コロナが長引いたり、各地で災害が発生したりで、なかなか厳しい年となりました。
その影響を受けて苦しい状況が続いている家庭もあるでしょう。何とか耐えて乗り越えて欲しいと願います。
エネルギー供給が制限されて寒さの中で冬を過ごしているウクライナの人々に、使い捨てカイロを送ろうと立ち上がった人がいます。
原発事故で福島から山形へ避難して11年間米沢で過ごしてきた方のようです。
「山形で多くの人に助けられた。今は困っているウクライナを助けたい。支援すべきは武器ではなくカイロだ」と支援を呼びかけています。
自分が苦しい体験をした人は、他の人の苦しみに共感する感受性が敏感になった。
人の暖かさを知った人は、その温もりを他の人にも分けたいと思う自らの慈悲心に気がついた。そういうことなのだろうと思います。

私自身のことを振り返れば、正月早々転んで頭を打ち、一時記憶が飛んだということから始まった一年でした。
4月末にも後ろ向きに倒れ、首と背中の筋肉が硬直してしばらく痛みに耐える日常を余儀なくされました。
二度あることはと三度目を心配しましたが、さすがにそれはなく無事でしたが、8月末には突然に喉が痛み出し、こちらもしばらく苦しむことになりました。
年齢による衰えがじわりじわりと忍び寄ってきていることを自覚させられました。
8月と9月、半月ほどの間に孫が二人誕生しました。
そして、10月、母親が突然他界しました。
命は足し引き出来るものではありませんが、+1の年でした。
正月前に、3組の子ども夫婦5人の孫、と家族が集合したとき、「歳徳大善神」をお迎えする年越し恒例のお参りをして、仏壇にもみんなで手を合わせました。
母の位牌と写真に対峙して、この家族の全員集合を一番喜んでくれているのは母親だなと肌で感じました。写真が微笑んでいるように見えました。
コロナで新しいひ孫二人と対面することは叶いませんでしたが、生まれてくれたこと自体が何よりのひいばあさん孝行であり、喜こばせてくれたことだったと思います。
そんな中、年末に私がコロナに感染しました。流行り物をもらった感じです。
その後遺症でもあるのか、単に加齢のせいか、疲れやすくなり、風邪をひきやすくなった気がします。
飲酒の量もガクンと落ちました。
だいたいにして、飲みたいという気持ちが極端に弱くなりました。
年が改まり、「新酒を楽しむ会」を企画していますが、さほど飲めないと思います。

「枯れ」の季節に入ったことを自覚しています。
これまでに充分楽しく生きてきたので、いつ散っても悔いはありません。
もしもの時のことは既に書き遺しています。
葬儀のやり様や予算案、香典の配分方法、本人の言葉で会葬の謝礼文も書いています。
それが今年中かどうかは分かりません。
ただ、準備を整えておけば、思いを遺す事はありません。
なるべく痛くなく、苦しまないで逝きたいだけです。
それが明日であってもいいように今日を生きるだけです。
死因はおそらく脳内出血か心筋梗塞かでしょう。痛いのでしょうね。
ガンならば準備ができて伝えたい思いを言い遺す事もできるのでありがたいと思います。
禅僧の慣わしとして、書初めに「遺偈」を書くとされていますが、遺偈は遺さないことにしました。
元々漢詩が得意ではないし、ありのままに格好をつけずに逝けばいいと思ってのことです。
代わりに「勧酒」の詩を掲げるように書き遺してあります。
自分の死に様を考えデザインするのは楽しいことでもあります。
何せ、最期のイベントですから。自らプロデュースしたいと思っています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ398 カオスへ向かう世界 

2023年01月01日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第398回。令和5年1月1日、日曜日。

新年を迎えました。
皆様によき出会いがありますことをお祈りいたします。
当家は喪中のため、年賀の挨拶をご遠慮させていただいています。
(この記事は毎週日曜日の朝5時に予約投稿の設定をしています。元旦のこの時間は4時から元朝祈祷を行っている最中で、今本堂にいます。)

先々週は動物と植物の話をしましたが、人間には動物的人間と植物的人間がいるのではないかと考えるところです。
概して言えば、遊牧民族は動物的、農耕民族は植物的と言えるように思います。
移動を基盤とする生き方は動物的、定住を基盤とする生き方は植物的と言えるのではないかと思いますがどうでしょうか。
はるか長い年月に及ぶ生活習性が根っこのような基盤となり、習慣や文化、宗教に至るまでその彼我の違いとして現れていると思われます。
遊牧民族、狩猟民族というのは、獲物や土地を求めて移動しあるいは縄張りを築き、他の群れとの競争や奪い合いの中で生き抜いてきた歴史があります。
なので、他の土地に移動したとしても変わらぬ普遍的な精神的拠り所として、自分たちの創造主である「神」を求めました。
一族は「神のもとで平等」という社会意識が出来上がることとなります。
ただ、「自分たちの神」は他の群れの神とは相いれないこととなり、神の優劣が民族の優劣という意識を生み、民族の争いの定義、旗頭ともなりました。

一方農耕民族は、一つの土地にしがみつき、共同作業を余儀なくされる暮らしの中で、群れの協調を意識するようになったものと思われます。
『鎌倉殿』でもそうでしたが、鎌倉時代の武士たちが何より大事にしていたものは、自らの土地であり、そこに暮らす一族を護ることでした。
そこから、自分の土地に命を懸ける「一所懸命」という概念が生まれました。
天候に直接左右される農耕は、自然をあがめ、人智の及ばない天や山や海、岩や木や水に「神」が宿るとして畏れ、感謝する精神を醸成してきたでしょう。
現代世界では、純粋な遊牧の民もほぼいないものと思われ、また、農耕民族といっても先祖代々の土地を捨てて棄農する人々が珍しくなく、それとこれで大別されるようなこともない状況かと思われます。
血に染みついた生活環境からの文化という分類も、やがて混血していくのではないでしょうか。
それでも宗教は、根ざした生活の基盤が変化しても、その独自性を保ち、意義や解釈を変えながら宗教そのものの存続を目指していくようにも思えます。
動物的宗教も植物的宗教も、性の多様性の如く存在を認め合う寛容の姿勢が求められているように思われます。

また、概して言えば、男は動物的、女は植物的な性質ではないかと感じています。
その行動的特徴として、どちらかといえば、家に居て家族を守ることを得意とする女性は植物に近いと感じ、外に出て生活の糧を得てくることが得意な男性は動物的と感じます。
もちろん、だからといって男らしさや女らしさを主張しようとしているのではありません。
先々週も話したように、動物と植物は果たして別の種類の生物かという疑問に端を発した延長線上の問題提起です。
なので、動かないように見える植物が動物を動かしているという見方をここでも当てはめようとしているのです。
これも鎌倉殿を観ていて感じたことですが、外に出て戦っている武士を戦わせようと仕向けているのはその女房ではないかという見方です。
ドラマはそれを印象的に見せている意図があると思いますが、それだけでなく、性が分化した意図は、まさに、女が自分の分身として男を生んだのであり、それは植物が動物を生んだという構図と重なるのではないかという考え方です。

こんなことを考えてしまうのは、グローバル化と自国ファーストのせめぎ合い、保守的な性の捉え方と多様性を認めようという考え方のせめぎ合いが起こっている現代は、今後、性の分化の意義や、民族・宗教が混沌としてきてカオスとなり、それらの意味の組み換えを強いられる世界の始まりかもしれないと、心のどこかで思っているからかもしれません。
まあ、どうでもいいことであり、正月元旦からそんな面倒くさいことを主張しなくてもよさそうなものです。
まずは皆様の諸縁吉祥を祈ります。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ397 コロナで鎌倉殿

2022年12月25日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第397回。12月25日、日曜日。

流行り病に罹ってしまいました。
20日、熱はありませんが鼻水と咳が出て、いくつか集まりの予定もあるので念のためと思って簡易検査キットを使ってみました。
結果、赤い線が2本出て陽性との表示。かかりつけ医に相談して診察を受けたところ、正式に陽性とのこと。
14・15日は仙台、16日は山形、17日は河北町・東根と出かけていたので、どこでもらって来たかは不明です。
ワクチン接種は5回まで済んでいるし、症状は軽いので体調としては軽い風邪という状態です。
ありがたいことにカミさんには感染していないようなので助かりました。
昨日24日まで、自宅内隔離で誰とも顔を合わせずに、個食で過ごしました。

こういう時だからできること、ということで、NHKオンデマンドを観ていました。
大河ドラマはこれまで全く観たことがありませんでしたが、2か月前だったか、たまたま土曜日の再放送を目にしてついつい観てしまいました。
以来その先が気になって、録画して観ていました。『鎌倉殿の13人』です。
先日その最終回が終わり、はじめからのストーリーが観たくなりました。
隔離中、これはいい機会と思い、1話から連続して観続けました。
一話が約43分で48話完結ですから、2064分34.4時間あります。これを3日間で観たので一日11時間半平均でした。
こんなにまとめて時間がとれることは、まずありません。
いい機会でした。

ドラマを観て思うのは、どうしてこんなに人が殺されるのかということです。
人間模様の部分に脚色があるのは当然ですが、誰が誰に殺されたというのはほぼ史実だと思われ、裏切りや疑心暗鬼、思い込みのままにどんどん人が殺されていく時代。しかも、兄弟や親子、親族同士で繰り返される殺戮。幼い子供までもが殺められる残虐性。
いくら戦乱の世だとは言え、血に塗られた歴史には正直嫌気がさします。
ドラマでも、三代将軍実朝に「政(まつりごと)というのはかくも多くの者の躯(むくろ)を必要とするのか」と嘆じさせています。
時折出てくるフレーズ「戦のない世を作るためじゃ」という言葉のもとに挙行される戦。
天下の安定は戦をもってしないと実現できないものでしょうか。そういう歴史が無かったら現代の平和は訪れなかったのでしょうか。
その当時それが正義だったとしても、その世が長く続くことはありませんでした。
戦によって樹立された安定は必ず戦によって崩壊するというのが、歴史が証明している事実と思います。
戦によってもたらされた安定というのは戦に勝った側からの見解です。負けた側、殺された側からはそれは安定とは呼べません。
いつかはその仇を討ちたいと思うからです。
忠臣蔵が人気なのは、何年も時間をかけて艱難辛苦の末に主君の仇を討つというストーリーです。
それが時代を超えて人々に愛されるゆえんは、「仕返し」をしたいという心が誰にもある証拠です。
現代の世にも戦はあります。
武力によってもたらされる平和などない、その論理自体が矛盾している、と気づかなければなりません。
軍備増強と原発の新増設を推し進めようとしているこの国。
過去に学ぼうとしないから同じ過ちを繰り返すのです。
そんなことをこのドラマを観て考えました。

しかし、役者というのはすごいですね。
主役北条義時役の小栗旬。ストーリーの始めの頃から回を重ねるほどにその表情が次第に変わっていくという様子が一気見することでよく分かりました。
色んな経験や悩み苦しみを重ねることで、人間として良くも悪くも成長していく、その変化が姿や表情で見事に表現されていました。
仏師運慶が義時の顔を見て語るシーンが三度出てきます。
一度目、「真っすぐないい顔をしている、お前に似せて仏像を彫ってやろうか」。
二度目、「悪い顔になったな。しかし、迷っている顔だ、それが救いだ」。
三度目、「迷いのない顔、つまらん顔だ。あんまり悪い時には言わんようにしている。気の毒が先に立ってな」。
運慶が見たら、今のプーチンの顔はどのように評価されるのだろうか。

いずれにせよ、観ごたえのあるドラマでした。
今後も大河を観るかは否定的です。また隔離でもされない限り。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。




サンサンラジオ396 見えないものと共に生きる

2022年12月18日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第396回。12月18日、日曜日。

15日の夜に降り出した雪は、翌朝50センチに達していました。
今期最初の除雪機出動となりました。
ただ、降り始めの雪は湿っていて重く、除雪機も難儀します。
朝の運動にはちょうどいのですが、人間も慣れるまでは少々難儀します。
早く慣れて、雪とつき合っていかなければなりません。

最上の地酒「山と水と、」の仕込みが始まり、昨日は河北町の和田酒造で会員+ゲストによる仕込み体験でした。
1,980㎏の最上産酒米出羽燦燦を50%精米し、最上のおいしい水を加えて、720ml換算で約4000本を作る計画です。
水は4回に分けて1,850ℓ運びました。
今年は生原酒にも挑戦する予定で、どんな味になるかとても楽しみです。
生原酒は先行予約限定で販売することにしています。数に限りがありますが、まだ少しの余裕があります。
ご希望の方は事務局まで、メール(shorin@cup.ocn.ne.jp)でお問い合わせください。

この地球上には大きく分けて「動く命」と「動かない命」があります。
大雑把に分ければ「動物」と「植物」です。
しかし、それは全く別の生き物なのか、と言われればどうでしょうか。
「動く」と「動かない」の違いはありますが、よく見ると、それは互いに依存し合っていると分かります。
たとえば、イチジクとイチジクコバチの関係があります。
イチジクは「無花果」と書くように花のない植物に見えます。
ところが、イチジクの花は、その実の中にあるのです。
その実に卵を産み、幼虫が実の中の栄養を摂り、羽化して花粉をポケットに入れて外に飛び出し、別の実の中に入って受粉するのがイチジクコバチなのです。
イチジクとイチジクコバチのどちらが先かは分かりません。おそらくは同時に進化してきたものでしょう。
念のため、日本のイチジクはコバチがいなくても実がなるように改良されたもので、実の中にハチがいることはありません。
他にも、植物の花の受粉を助けるのはほとんどが昆虫たちです。
実をつける植物も、鳥も含めて動物にご褒美をあげて種を遠くまで運んでもらう仕組みを持っています。
動物を動かしているのはむしろ植物だと言ってもいいほどです。
その二つの種類が別の生きものだとは、思えないのです。
この世から植物がなくなったら、動物は間もなく絶滅するでしょう。
動物が絶滅したら、植物は生き延びそうですが、もしかしたらそうではないかもしれません。
少なくとも、海の中で誕生した地球上の生命が、植物が先に上陸し、それに誘われそれを追いかけるように動物も上陸していったのであり、植物には動物よりはるかに「意志」があると思えます。
植物を「動かない命」と言いましたが、植物全体の進化を考えれば、植物は活発に積極的に「動いてきた」と言えます。
もう一つ、土を作ったのは植物と微生物です。
秋の落ち葉を掃くと、早くもその下にはダンゴムシやミミズが隠れています。枯葉を食べて分解してくれようとしているのです。
さらに目に見えないような微生物が分解を重ねてどんどん積み重なっていきます。
そして土は、植物を育て、微生物や昆虫を育てる土壌となるのです。

今猛威を振るっているウィルスという存在は、今から100年少し前に発見されたようですが、それ以前は当然目に見えない、存在そのものがあるかどうか分からないものだったでしょう。
同じように、目に見えないながら動物の役に立ってきたものがあります。
それは菌です。
菌は、悪さをすることもありながら、一方重要な役割も果たしてきました。
乳酸菌やビフィズス菌、納豆菌などはその一部でしょう。
また、麹菌、酵母菌などはパンや味噌を作るのに欠かせないものです。
そしてもう一つ、酒にも。
酒は、蒸した米にカビの一種である麹菌を振りかけ、さらに酵母菌を加えてデンプンを糖分に変え糖分をアルコールに変える働きを促します。
古い酒蔵には長い間に自然の酵母菌が住み着いていて、それを利用して醸す酒を「生酛造り」と言います。
その場合、発酵の時間を短縮する意味で米を擂りつぶす作業が行われます。これを「山卸(やまおろし)」と言います。
その作業をしないで時間をかけて造るのを「山廃造り」と言います。
いずれにせよ菌がなければ酒はできません。
菌の存在などに気づかない大昔から、人は菌の力を借りて酒を造り、酌み交わし、人生を楽しんできたのです。
目に見えない存在とも共に生きていかなければなりません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ395 明星から見る

2022年12月08日 17時18分48秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第395回。12月11日、日曜日。

東京に来ています。
一昨日はシャンティの理事会。昨日はシャンティの日と、タイのプラティープ先生の祝賀会でした。
プラティープ先生は、タイのスラムに生まれ、16歳の時にスラムの子どもたちの教育「一日1バーツ学校」を始め、アジアのノーベル平和賞と呼ばれるマグサイサイ賞を26歳の時に受賞、その後上院議員も務められた方です。
シャンティの難民支援活動の中で関係ができ、そのスタッフだった秦辰也さん(現近畿大学教授)と結婚されました。
昨年4月、タイ日の関係強化の功績が認められ、旭日中綬章を受章された、その祝賀会でした。
古い関係者も出席され、懐かしいひと時となりました。

12月8日はお釈迦様お悟りの日、成道会でした。
各地の道場では、その故事に倣って1日より集中して坐禅三昧の行持を勤め、8日未明に成道を祝います。
松林寺では、4日の梅花講総会において講員と共に成道会を勤め、住職は毎朝の日課としての坐禅を行ずるにとどめました。
その故事とは、6年の苦行の末、菩提樹の根元に坐り8日目の明けの明星を見て成道されたとされています。
その時の言葉が「明星出現の時、我と大地有情と同時成道す」というものだったと正法眼蔵にはあります。
その意味は、「自分とこの大地とその大地の上に生きるすべての生命が、自分と同時に悟りをひらいた」ということになります。
お釈迦様一人が悟りをひらいた、というのであれば分かりますが、無生物も生物も全て自分と同時に悟りをひらくとはどういうことでしょうか。
私はこのように受け止めています。
「自分」という個の存在として周囲を見れば、色んな命がそれぞれ別々に存在しているように見える。
命と命が、仲良くなったり争ったり、別個の存在として関係を構築していると見える。
それはちょうど、ジグソーパズルの一つ一つのピースのような存在という見方です。
凸ったり凹んだり、足りないように見えたり邪魔に見えたりして、互いにけん制している。
しかし、お釈迦様は、この世界を俯瞰して、全てのピースが完全に収まった完成品だと見えたのではないか。
凸ったところは凹んだところを補うためのものだった。
いや、元々境界線などなかった。命はピースではなかったのだ。

明星を見て、というのは、明星の視点で見えたということではないか。
その当時、この世界が地球という球体であるという認識も自転しているという認識もなかったでしょう。
どこまでも続く平面の大地の上に生命は生きている、と。
そこに明星は昇ってくる。
明星出現、全ての大地有情は同時に明星に照らされる、明星を見る。
その時お釈迦様の視点は、自分から離れ、明星の視点から大地を眺め、全ての命を眺め、自分自身を眺めることができたのではなかったか。
すると、この世界は一枚の絵のように見えた。
しかも静止画ではなく動画として。
全ての命は、この大地の上に見事に調和して、余すことなく欠けることなく存在している。諸法無我。
全ての命は、雲や川の流れのように、一瞬たりとも留まることなく流れ明滅している。諸行無常。
そのように見えた時、全ての苦しみから解放されて心の静けさが得られる。涅槃寂静。
お釈迦様がそのように見えた時、それはお釈迦様一人の姿ではなく、大地有情全体が悟りの絵となる。
お釈迦様が明星を見る、明星が大地有情を見る、大地有情がお釈迦様と一体となる。見ているものと見られているものが一つになる。
お釈迦様と、大地有情と、明星と、三つの視点が一体となって悟りの言葉は生まれたのではないか。
ただ、動画であるだけに、悟りの絵も一瞬の瞬きであり、固定されたものではない。次の瞬間、争いの修羅の絵に変わることもある。
だからこそ、たった一人の坐禅が悟りとなり、たった一人の悟りが大地有情の悟りとなる。
お釈迦様が見た成道の絵に倣い、行じなければならない。この世を悟りの世界にし続けなければならない。
怠らず坐禅弁道せよ、という道元禅師の説示になるのでしょう。

「シャンティと坐禅」ということを考えています。
それについてはまた今度。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ394 さめざめと泣く

2022年12月04日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第394回。12月4日、日曜日。

2日金曜日、ついに初雪が降りました。本格的な冬の始まりです。
同じ日の朝、日本がスペインに勝ち、予選1位通過となりました。
ワールドカップは何が起こるか分かりません。だから面白いのでしょう。
日本が強いというよりも、いい試合をした選手たちに拍手を送りたいと思います。

先月29日火曜日は母の49日忌で、納骨も勤めました。
母は「生まれた時から体が弱かった」が口癖で、そのために健康には人一倍気をつけていました。
子どもの頃、薬だと言って親に飲まされていた酒は実はマムシ酒だったと知りゾッとしたと。
その割には、ハブ酒を取り寄せて私に「飲め」と勧めていました。
本人が言うほど病弱ではなかったと思いますが、その親は、農家に嫁にやっても務まらないと思っていたようで、その当時当地では珍しく女学校に入れて農家以外に嫁がせようとしていたようです。
結局その親の思いで寺に来るようになりました。

私が子どもの頃、雪道で転んで頭を打った後遺症が出て、保育所の勤めから帰ってくるとすぐに横になっていた姿を悲しく見ていました。
病院に入院して、首にコルセットをはめて帰ってきた時には驚きました。
その後は、整体や光線療法、酸素吸入や自然療法のようなものなどなど、いいと言われるものは何でも試し、いわば健康オタクになっていました。
胃がんが発見されて4分の3を切除して、それからは更に気をつけるようになっていました。
いいというものをいったん始めるとまじめに継続する性格で、朝起きると南部せんべいを一枚食べてコーヒーを飲むというのが近年のルーティンでした。
テレビ体操も欠かさずやっていました。
そんな本人の努力もあり、体が弱かった子どもは満88歳まで生きることができました。

当然ですが、思い出はたくさんあります。
私が生まれて間もなくの頃、よく泣いて泣き止まず、痩せてきていました。
病院に連れて行って診てもらうと、「栄養失調だ、母乳が出ていないんじゃないか?」と言われて初めて気づき、「帰りに薬屋に寄ってヨーグルトを食べさせたら2瓶ペロッと食べた」という話は何度も聞かされました。
その頃、姑との関係が悪く、そのストレスが原因で母乳が出ていなかったのだろう、乳が出ていないことにも気づかないなんて、なんてバカな親だと悔やみ、泣きながらヨーグルトを口に運んだ。
「そのためにお前は体が弱く、背も大きくなれなかった」と、自分を責めながら何度も語るのでした。
確かに子どもの頃、病弱で何度か入院もしましたが、身長が伸びないのはそのせいではないでしょう。たぶん。

こんなこともありました。
大学に入学したての頃、親のハンコが必要な書類があって実家に送り、それが着いたか、速く送り返してほしいという意味で公衆電話から電話をかけました。
「はいはい」と出た母親に、「オレだ」と言うと、「お前かあー」と言ったきり涙声になりました。
「手紙よこすならなんで何か一言書いてこないんだ、紙っぺら一枚いれて、父ちゃんは封筒の表と裏と何度もながめていたぞ!」と責められました。
東京に出てから初めての便り、元気でいるのか、ちゃんと食べているのか、大学には行っているのか、日々心配しながら連絡を待っていた、手紙が来たと思ったら書類だけで一言も書いていない。仕方なく封筒を何度も裏返し、なぐり書きの字をながめていた。
そんな親の気持ちを慮る心が、自分にはありませんでした。実に子どもでした。

永平寺から帰り、あるお寺の留守役をしていた頃、母親を乗せて出かけた車の中で、「お寺のお布施をごまかしているんじゃないだろうな」と言ってきました。
留守居役の寺で法事を務めると、そのお布施はまとめて住職に渡してそこから何割かをいただくというやり方でした。それを「ピンハネ」していないだろうなという懸念でした。
私は烈火のごとく怒り、「自分の子どもを泥棒扱いするのか!」と必要以上に責め立てました。
母は、「親なんてバカなもんだな、子どものことを心配するばっかりに余計なことを言って…」と、さめざめと泣きました。

 一番苦手なのは おふくろの涙です
 何もいわず こっちを見ている
 涙です  (サトウハチロー『おかあさん』)


今頭に浮かんでくるのは母親が泣いていることばかりです。
つくづく親不孝でした。辛い思い、悲しい思いをいっぱいさせてきました。
甘えていたのだと思います。
親の年齢に追いつけないと同じように、いくつになっても人は、親の気持ちを分かることはできないのだろう。
たとえ、死んだ親の年齢になったとしても、そこから親は仏さまとして成長し続けているのだから。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ393 この国の希望

2022年11月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
 三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第393回。11月27日、日曜日。

サッカー好きの私にとって、楽しみなシーズンがやってきました。
日本の初戦の前は、みんな強がったことは言っていても心の中では「せめて引き分け」を願っていたのではなかっただろうか。
実際に前半の試合の様子では、やはりドイツはすごいと諦めムードが私の中で漂っていました。
ところが後半は一転、超攻撃的な布陣が功を奏し、逆転勝利という劇的な結末となりました。
日本国内の報道の過熱ぶりを見ると、なんだみんな勝てないと思っていたのじゃないか、と思いました。
「蚊子の鉄牛を噛む」ような、番狂わせであったことは間違いありません。
その勝利にスポットライトが当たれば当たるほど、陰の闇は濃くなります。
開催国の人権問題は日本ではほとんど報道されません。扱ってもコラムのような話題の一つ程度です。
その点、ヨーロッパの国や選手は敏感で、明確に意思表示してきます。
相手国ドイツの選手も、試合前の記念撮影で全員手で口を塞ぎ「物言わぬ抗議」を示しました。
スポーツと政治をまぜこぜにしない、という考え方があります。
ではスポーツと金はどうなのか。オリンピックの利権がらみの裏がどんどん暴露されています。
カタールへの中国のテコ入れという報道がありましたが、経済を餌にした政治の介入という問題もあるのでしょう。
どうも喜んでばかりはいられないようです。

そんな中、うれしい報道がありました。
試合後の客席を日本のサポーターが掃除をしている、というニュースです。
近年の試合会場で見られる光景で今回初めてのことではありません。なので、これが日本のサポーターの常識、普通の光景になっているということでしょう。
しかし、初めてみる海外の報道関係者にとっては驚きの光景のようで、アメリカの人気番組「スポーツセンター」では、「それを見た人々から称賛の声が上がっている」と紹介して、
「日本は素晴らしい文化」
「西洋の国々はいつも豪華さで感銘させようとするが、アジアの国々は優しさで感銘を与える」
「もっと評価されるべき」
「究極のファンのスポーツマンシップ」
「日本は別格」
「日本は世界の何十年も先を行っている」
「USAには決してできない」
「日本人を愛さずにはいられない」
などと報じました。
更に、日本選手のロッカールームもきれいに整頓されて「ぴかぴか」だったとか。

この国の政治家のだらしなさ、企業や金持ちの利己主義、製薬会社のふがいなさなどなど、国力、民力の低下、先進国などと自負している間にどんどん追い抜いて行かれる置いてきぼり感を感じて、この国を嫌いになりかけていましたが、そうではなかった。
誰かが号令をかけて始めたわけではない、自然発生的に生まれたこの行為。そこがすごい!
「楽しんだ会場を感謝を込めてきれいにしていく」という精神がこの国の、民間の、多くの若者たちの行動で示されていた、というのはうれしいことでした。日本の宝です。
オオタニサンもそうですね。
おそらく、こういう行動をとれる国民は日本人以外いないのではないかと思われます。
欧米だけでなく、他のアジアの国々にも見られない行為、試合後の掃除という行為に日本の希望を感じます。
日本人であることの自信と自慢はここにある、と言っていいと思います。
色んなスポーツで、日本選手がコートやピッチ、試合場に入る時に頭を下げて入る光景を目にします。
相撲の土俵にも似て、神聖な場所という教えが長年なされてきたのかもしれません。
それは相手を敬うことにもつながるでしょう。

日本人はレストランでも、食べた後の食器を従業員が片付けやすいように重ねたり、せめて自分の席の前だけでもきれいにしようとしたりしますが、そういうことが日本人は「気持ちいい」のでしょう。
旅館やホテルでも、帰る際に寝間着やナイトウエアを折りたたんだり、ふとんやシーツを直したりする行為も、日本人には見られます。
その場と従業員に対する感謝の心から生まれる「気持ちよさ」だと思えます。
アメリカメジャーリーグの放送を観る度に、ダッグアウト内の汚さに眉をしかめていましたが、それは掃除する人の仕事を奪わないためだという理屈は分かります。
チップ制度もそうですが、サービスに対する対価という、お金に換算する感謝とは違う感覚が日本人にはありそうです。
「気持ちよさ」を労働の対価とは思っていないでしょう。
古くは、山に入る前に感謝の礼をするとか、木を切り倒す前に手を合わすとか、そのようにすべてのものを敬うという心が太古から日本人に根ざしているものと私は思います。

そういうことができる日本の若者に将来を期待しましょう。
さて、今日の試合は。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ392 生きるとは吐くこと

2022年11月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第392回。11月20日、日曜日。

一昨日の霜で銀杏の葉が、一気に散りました。
まるで黄色い雪が降るようでした。
きれいではあるのですが、いつまでもながめてばかりではいられません。
お寺の銀杏が散ると雪が降る、というのは当地の風説で、間もなく白い物も舞い散ることになるでしょう。
その前に葉の方を始末しておかないと雪の下になり来春が大変になります。
ということで、一昨日はカミさんと二人で一気に片づけました。
その後間もなく雨が降り出したので、ギリギリのタイミングでした。

樹木は二酸化炭素を吸い、酸素を吐くと言われます。
正確には、植物も動物と同じく呼吸により酸素を吸い二酸化炭素を吐き出しているのですが、昼間は光合成によって炭素を取り込むために二酸化炭素を吸い込み、不必要な酸素を吐き出している、ということのようです。
原始の地球は今よりずっと二酸化炭素の濃度が高く、動物が生きられる環境ではありませんでした。
植物が発生し繁茂していく過程で、二酸化炭素が樹木に固定化され、さらに地下に埋没して、酸素濃度が高くなって動物が生活できるような環境になりました。
地球の地上にある炭素は総量一定量で、植物と動物がそれをやりとりして生きてきたのです。
今問題になっている温暖化効果ガスは、地下に眠っていた石炭や石油という炭素を地上に掘り出して燃やすことで発生する二酸化炭素を指します。せっかく寝ていた子を起こして、原始の地球のような環境になりつつあるのです。
ただ、樹木などの植物も、成長する際に二酸化炭素を吸いますが、成長が止まるとその作用も止まり、枯れていくときにはため込んだ二酸化炭素を吐き出していきます。
つまり、1本の樹木が生涯で吸って吐く二酸化炭素の量はプラスマイナス0なのです。
そこで、樹木が排出する二酸化炭素を、ただ朽ちるままに排出させるのではなく、暖房などに活用して排出させていこうというのが温暖化防止対策の木材の利用、バイオマス・エネルギーという方策です。
地上の炭素を燃やすことで二酸化炭素の量が増えることはないのです。
樹木が、生きている間酸素を吐き出し続けているから我々は生きていけます。
動物が二酸化炭素を吐き出しているから樹木は生きていけます。
自らの身体から排出するものによって互いに他を生かしているのです。
命というのはそういう仕組みで作られているものと思います。

人間が亡くなる時、「息を引き取る」と言います。
身体は最期まで生きようとしている、と見ることもできますし、息を吐けなくなったら死ぬのだ、と見ることもできるかもしれません。
もしかしたら、吸うよりも吐くことの方が体力を必要とするということなのでしょうか。詳しくは分かりません。
ただ、人間も、植物と動物の相関関係の枠組みの中に存在するのであれば、人間だって、他の命のために何かを吐き出さなければ生きてはいけないことなのではないだろうか。
生きるということは吐き出していくこと。他の命のために施しをしていくこと。それが生きる意味としてプログラミングされているのではないか、と思うところです。
呼吸もその通りであると思いますが、裸で生まれてきた人間が、生まれると同時にいろんなモノを与えられ、手にして大きくなっていきます。
どれほどの数のモノ、どれほど高価なモノを手に入れたとしても、死んでいくときにはやはり、素っ裸で死んでいくしかありません。
肉体すら消滅し、残るのは骨だけです。
だとするならば、樹木のカーボンニュートラルのように、我々も、手にしたモノを誰かのために排出していくべきではないのか。いやむしろ、排出することがたくさんのモノを手にしてきた意味ではないのか。それが生きるということではないのか。と思います。

生きている間に吐き出していくこともできるし、遺贈という形で、自分が亡くなった時に、自分のモノを必要とする人のために使ってもらうことを約束していく、という方法もあります。
裸で生まれて裸で死んでいく。生きている間に手にしたモノは全て、最も有効に使われるもののために排出する。
そう思って死ねるならば、生きてきた甲斐があるというものではないですか。
良からぬことで手にしたモノでも、自分の意思で役立つことに使うことができます。
大事なのは収入の仕方よりも支出のあり様です。お金の使い方で人間が分かります。
息を吐くように、排出していきましょう。
それが生きるということなのですから。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンサンラジオ391 生きながら死んでいる

2022年11月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第391回。11月13日、日曜日。

昨日は花の鶴楯を創る会の秋の作業でした。
春に植えた桜の苗木の雪囲いと、来春桜の植樹をする場所の選定と整備です。
地元の宝を後世に伝えていくための作業です。
少しずつしか進みませんが、継続して行えば必ず思い通りの宝の山になると信じています。

地酒「山と水と、」の今年度分先行予約販売を、11月1日に開始しました。
それを待っていたとばかりに、当日の0時1分に第1号の申し込みがメールで入りました。
その後も申し込みは続いています。店舗での受付も順調に進んでいるようです。
昨年売り切れて手に入らなかった方、昨年飲んで美味しかったので今年も是非という方々が多くいらっしゃいます。
申し込みはメール(shorin@cup.ocn.ne.jp)でも受け付けています。
内容は、720mlの生原酒と生酒の2本セット。料金は4,000円。
宅配の場合は、着払い送料と代引きにてお受け取りいただきます。
完成は1月中旬の見込みなので、お手元に届くのはそれ以降になります。
生原酒は、今回試しに出してみるのですが、先行予約限定での販売です。
もちろん、一般販売では生酒と火入れ酒も販売します。
昨年充分行き渡らなかった町内の飲食店、温泉旅館に置いてもらう計画です。
今年も今から完成が楽しみです。

突然ですが、医師から余命宣告されたより少しでも長く生きたい方、どんな病気であろうと、寿命を2年延ばしてさしあげます。ただし、一人御堂に籠って祈祷を続けなければなりません。その間は生き続けることができます。
と、言われたとしたらあなたはどうしますか。
たった一人になったとしても命を長らえることを望みますか。
それとも、たった一人生きることに意味はないと思われますか。
命の使い方という命題と通底した問いです。
ある資産家が余命宣告を受けて、「お金はいくらかかってもいい、何とか生きさせてくれ」と医師にすがりついたそうです。
医師は、「いくらお金を積まれてもこればかりは何ともなりません」と答えると、「それじゃあ、こいつの命と引き換えに何とかならないか」と側に立っていた妻を指さしたとのこと。
突然自分の命の終わりを突き付けられた時、人は、何とか助かりたいと思い利己的になることはあり得るでしょう。
しかし、冷静になって考えれば、できることとできないことの区別はつくはずです。
冷静になる前に弱みにつけ込んで金をむしり取ろうという輩もいると思われるので気をつけなければなりません。
本人にとっては藁をもつかむ心境で、ネットの情報などにすがって、まさに命がけで一つの治療法にかける場合もあります。
それはある意味宗教に似ています。
一つの治療法、あるいは特定の人を信じるあまり、周りが見えなくなって、誰の意見も聞かず、お金も時間も全て投げ出してしまう。
信ずる者は救われる、かもしれません。ただ、そのために家族が苦労することもあるでしょう。
もちろん、大切な家族のために何かを犠牲にすることがあっても不思議ではありません。
しかし、問いたいのは、たとえ1年2年寿命が延びたとして、永遠に生きるわけではありません。
それよりも、大切にすべき時間の使い方は別のところにあるのではないかということです。
長さよりも大切な命の使い方、それは何でしょうか。
余命宣告などされなくとも、命の終わりは着実に近づいています。
生きるということは死に向かっていること、もっと言えば、生きながら少しずつ死んでいると言ってもいいかもしれません。
命は、生まれたと同時に死に始めるのです。
死は恐れるものではありません。死んだかどうかは自分では分からないのですから。
死ぬだろうというプロセスに怯えているだけです。
恐れるべきは死ではなく、生きている間になすべきことをなそうとしない怠惰な心です。
必要なのは、冷静に今を見つめる時間です。
今日も一日寿命を縮めてしまいました。
今日なすべきことをなしたのだろうか。
生きていることを喜び合える誰かがいなければ、喜びはありえるのだろうか。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。