なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ269 曲木なりとも

2020年06月28日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第269回。6月28日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
25日木曜日、河北町環境を考える会例会
26日金曜日、葬儀
というような1週間でした。

相変わらず何もありませんが、この間依頼された原稿を一本書き上げました。
コロナ後に何をどう説くか、というような内容を数名の布教師が書き寄せるというものです。果たしてどのようなものに仕上がりますか。

私にとっては三人目の孫が生まれて2週間が経ちました。
生まれたばかりの赤ん坊はこんなに小さかったかと改めて驚きました。名にたがわず真っ赤になって泣くのは触れるのも怖いほどでした。
床でおしめ替えなどしていると、踏んづけてしまはないかとそばに寄れない感じです。
起きて泣いて飲んで寝て以外することがないのか君は、と当たり前のことを問いかけたりしています。
息子の子と違って娘の子は、実家で過ごすので日々その変化を楽しめます。
つぶったばっかりだった目も開きだし、顔だちも少しづつ変わってきました。
誰に似ているとか、本人にとってはどうでもいいというかどうにもならないことをごちゃごちゃと周りで言っています。
あの人に似ている、えーがっかり、などと失礼なことを言ったりもします。本当に余計なお世話です。
そりゃあ少しは血縁に似るところもあるでしょうが、それで一生が決まるわけではありません。それよりも大事なのは育て方です。
育て方といっても、親にとっては初めてのことですし、後から失敗したなどといっても取り返しのつかないことなので、あるがまま、なすがままで試行錯誤する以外にありません。
兄弟でもそれぞれ性格は違うし、上も下もそれぞれに影響し合って育っていくものでしょう。
もちろん親の生き方が大きく影響することは間違いありません。
せめてもの注意は、その子の生きる道を邪魔しないこと。
盆栽を育てるのとは違うのですから、親の思い描いたように枝を曲げてみたり切ってみたりして小さくまとめてはだめでしょう。
伸びる枝は伸ばし、邪魔な枝が気にならないぐらいに大きくなればいいのじゃないですか。
躾という虐待などとんでもない行為です。
親さえも一人前でもないのに、子どもを躾けるなどとはおこがましい話です。
一人前でないからこそ、余裕がなくて叱ってしまうのだろうとは思いますが。
悪いことは悪いと教える必要はあるかと思いますが、何も叩かなくてもいいでしょう。
痛い思いをしないと覚えない、本当にそうでしょうか。
叩かなくても時期が来れば覚えるものだし、暴力だけでなく、陰湿ないじめのような態度は子どもを委縮させてしまうでしょう。
親を恐れおびえて、目を盗むようになったり顔色をうかがうようになれば、態度を使い分ける能力だけ身につけて、二重人格のような大人になってしまいます。
とにかく、生まれたばかりの赤ん坊に注ぐ眼差しのように、ただただ健康にスクスク育ってほしいという思いで見守ることだと思います。
 教えたようにはしないが、見たようにはする
子どもにそうなってほしい行動をして見せるということですね。

家庭というのは何か。「家庭の機能」というのを何かで読んでメモしていました。
1、最後まで愛してくれる人のいる場所
2、ありのままの自分でいられる場所
3、人間として大事なことを教えてくれる場所
この順序の通りに大事なのでしょうね。逃げ場にならない家庭は家庭の機能を果たしていないということですね。

   まず
 あたたかい母に育てられた子は
 あたたかい母になり
 つめたい母に育てられた子は
 つめたい母になる
 どうして人間だけが
 例外であり得よう
 よい子になれと いらだつより
 先ず
 よい母と 願ってほしい (河野進『母の詩』)

父もまず、じいちゃんもばあちゃんも、まず。
反面教師になるというなら、徹底して極悪人になるべきですね。中途半端はいけません。
 オレに似ろ、オレに似るなと子を思い
まあ、いずれにせよ、子どもを思ってのことであればそれは愛情でしょうから、子どもも受け止めてくれるでしょう。

道元禅師はこう言っています「たとえ良材であってもいい職人でなければそれを十分に生かすことはできない、たとえに曲木であっても腕のいい匠にかかれば見事な作品になる」。
これは修行僧がいい師匠を求めることの大切さを言ったものですが、一般社会でも通用する話でしょう。
子どもが、いい先生いい人にめぐり逢えば、もって生まれた性質を十分に生かし素晴らしい人生を送るかもしれません。
親はそのめぐり逢いを待って、邪魔をしないように、性質を壊さないように見守ればいいのだと思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンサンラジオ268 空をつかむ

2020年06月21日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第268回。6月21日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
17日水曜日、シャンティZOOMミーティング
18日木曜日、娘の退院、もっちい例会
というような1週間でした。

娘が女児と共に退院しました。
予定日ジャストでしたし、ハイパー安産だったので、母子ともに健康で帰ることができました。
毎朝観音様にお参りし安産祈願してきたじいちゃんのおかげもあるんだぞ。富沢馬頭観音、霊験あらたかかもしれませんよ。
2か月以上前から二人で名前は決めていたようで、「はな」にするのだそうですが、たまたま朝ドラの主人公の娘と同じになってしまいました。そこからとったようでと気にしていましたが、気持ちは変わらないようです。

以前も話しましたが、人間は二足歩行になってから難産になりました。
四足歩行の時には骨盤が開いていて、胎児がほぼ成長してから無理なく出産ができました。
その後二足歩行ができるようになると、骨盤が狭まった上、手を使うようになって能が発達し頭が大きくなってきたのです。その結果難産になるようになりました。人間はその矛盾をどのよう乗り越えてきたのでしょうか。
それは、胎児を未熟な状態で出産し生んでから育てるという方法でした。
ですから、他の動物のように、生まれてすぐに立ち上がり歩き出すことができません。なんと自分の足で歩くまでほぼ1年も要するのです。そんな動物は他にいません。
自分でお乳を探すこともできません。着せてもらい、寝かせてもらい、下の世話までしてもらってようやく歩き出すのです。
さらに、成人となるまで20年もかかる。なんと手間のかかる動物でしょうか人間は。
でも、未熟で生まれることが悪いことばかりではないようです。
どんな動物も、子どもの頃は遊ぶのが大好きです。色んな事に興味を持ちチャレンジして遊びながら生きる術を身につけていきます。そして、成体となるとともに遊びには興味を示さなくなります。
人間が未熟で生まれて20年子どもでいるために、いろんなことに興味を失わずチャレンジして、爆発的な成長を遂げてきたのです。
しかし、それは成人までです。いつまでも子どもでは困ります。
成人、つまり大人となったからには、子どもではないのです。いつまでも遊び心を持ち続けるのは結構なことですが、大人には子どもと違った責任がついてくることを自覚しなければなりません。自覚と自律ができることを大人というのでしょう。
おしめを替えてもらって食べさせてもらったことを忘れてはなりません。親の面倒を見る動物は人間だけなのですから、人間の大人として責任ある行動をとならければなりません。

先週、食べることで命を取り込んで生きるという話をしました。
食べるとは口から命を摂取するということですが、今の私の命がここにあるのは、決して口からの取り込みだけではありません。
例えば、鼻から空気を吸い込みます。空気には酸素もあれば他の気体も含まれています。
いい香りや臭い匂いを吸い込むこともあります。匂いがあるということは何らかの成分が含まれているということでしょう。無意識のうちに色々な成分を取り込んできました。その結果がこの私です。かたじけなくも、私の吐いた息さえ他の命に取り込まれます。
さらには目。これまでどれほどの映像をこの目から取り込んできたでしょう。人生の3分の1を寝ているとしても、60歳では40年間分の映像がアーカイブスとして記憶に保管されていることになります。喜んだり、笑ったり、怒ったり、泣いたり、見たことでいろんな感情が湧いてきました。それらの情報によって人生は左右されてもきました。
耳も同じです。人の言葉や話、講演や落語などに学んだことはたくさんありました。音楽に感動の涙を流したことも数限りなくあります。音も取り込んで命を成してきたのです。
肌で受け取る気持ちあります。握手やハグは心の交換です。テレビ電話では伝わらない思い、深い喜びや悲しみは抱き合わなければ分け合うことができません。肌の触れ合いは共感の大事な受容機関です。
赤ん坊の柔らかい肌に触れるだけで喜びが感じられます。私の母親にとってひ孫の肌に触れることは薬です。
眼耳鼻舌身から取り込んだものを、意ー心が受け止め記憶し、行動を催します。それによって命がここに形成されてきました。
私の周囲には命が充満しています。命の中を泳いでいるようなものです。その水に身をまかせれば水と一体となり、水と自分の境界が分からなくなります。元々境界はなかったのです。それを「空」といいます。
境界のないものに無理くり境界線を引こうとすることで苦しみが生まれます。
裸で生まれた赤ん坊が握る手の中には全てが含まれています。
「放てば手に満てり」です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ267 死の恍惚

2020年06月14日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第267回。6月14日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
11日木曜日、葬儀
13日土曜日、松林寺大般若(内献)と総代会
というような1週間でした。

本来ならこの1週間は1年で一番忙しい週になるはずでした。
6月第1日曜は松林寺集中講座、第2土曜は大般若会というのが恒例行事です。
集中講座はチラシもできて、実行委員会を開く直前で中止を余儀なくされました。
町で出会う人から「今年はいつですか」と声をかけられます、みんな楽しみにしてくれていました。
大般若会も中止ですが、祈祷札は配らなければならないので、予定通りの日に住職・副住職と総代さん方だけで内献で勤めました。「疫病収束、厄災消除、万民安寧、諸縁吉祥」を祈りました。

朝の連ドラはBSPで観て、そのまま次の番組を観ています。
8時の月曜日は「ワイルド・ライフ」で、生き物の貴重な映像を楽しみにしています。
鳥の求愛ダンス、昆虫の擬態、動物の過酷な子育てなどに感動を覚えます。
生きることは食べることで、当然食べるものと食べられるものがいます。
草食動物は草を食べ、肉食動物は草食動物を食べます。
弱いものから見るとなんと残酷のように見えてしまいますが、強いものも決して安泰ではありません。
百獣の王といわれるライオンですが、王と呼ばれながらその生態はなかなかの厳しさです。
人間の王様のように、かしずき食料を差し出す者はありません。自分の力で食べて生きていかなければなりません。
オスどうしの争いがあります。強いからといって簡単に獲物にありつけるわけではありません。弱ったライオンはいつもハイエナが狙っています。そしてやがて死に食べられていきます。残った死骸にはハゲタカや鳥などが集まってきます。
命は循環していくものです。
生物が海から上陸して4億年、命の循環を繰り返してきました。
以来無数の個体が生まれ死んでいきました。その死骸は全部食べられてきたのです。
動物が食べ、鳥や昆虫が食べ、微生物が食べ植物が吸収してきました。終いには骨さえも形をなくしてしまいます。
排泄物も同じです。
想像してみてください。
全ての命の排泄物が何らかの命に食べられずそのまま残っていたとしたら。地球はウンコの星になっていたでしょう。海はウンコでつまっていたに違いありません。人間は生まれなかったでしょう。「地球は臭かった」という宇宙飛行士さえ現れません。
今こうやって、空気がうまいだとか、緑が美しい、海が青い、などと言っていられるのは、命の循環の現れです。
命は循環し、循環して全ての命は生きているのです。全ての命というよりも、全体で一つの命ととらえた方がいいでしょう。
「地球上で命はたった一度しか生まれていない、そして一度も死んでいない」というのが自然科学の常識だという話を聞いたことがあります。
一つの細胞が分裂を繰り返して全ての命に分かれ、生存を終えた個体は分解され次の個体に生き続ける。それが命のありようだというのです。
なので、無駄の無意味の命は何一つなく、全ては全てがつながった大きな命の一部なのだというとらえ方です。
まさに「不生不滅」であり、「不増不減」で満ち満ちています。

ですから時々思います。
別の命に喰われるとき、その命は恍惚を感じているのではないかと。
ライオンから首に喰いつかれたガゼルが、体は命の本能として抵抗しながらも、精神は、遠のいていく意識の中で恍惚を感じていることはないのかと。思い込み過ぎるでしょうか。
小さいころから、大蛇に飲み込まれる妄想にとらわれてきました。
前世、あるいははるか昔は小ネズミだったのではないかと思うときもあります(小ブタでもいいのですが)。蛇が身の毛がよだつほど嫌いな理由はそのせいではないかと思ったりします。
今のこの体でも飲み込むような大蛇が現れて大きな口で噛みつかれる。そしてゆっくりゆっくり、関節をはずされながら頭から口の奥へと飲み込まれていく。その刹那、為す術なく身をまかせ、命が命に取り込まれる摂理を、エクスタシーと感じることはないだろうか、と。
あるいは私一人の願望に過ぎないのだろうか。

生まれたものは必ず死んでいく。
しかしそれは個体として見た姿であり、命の全体を見た場合、命は命に取り込まれて、というよりも元に戻って生き続けるのです。
恍惚のイメージ、同感していただけますか。
死ぬことは悪ではありません。死ぬのではなく帰るのです。お骨も土に帰すべきです。
影も形もなくなるということは、別の命の中に全てが取り込まれたということですから、安心していいことです。死骸が残ったままでは死んだままということになります。
死の恐怖を取り除くことで今の生に集中することが大事です。

因みに、予定日ジャストの昨日の午前3時、娘が無事女児を出産しました。「ハイパー安産だ」と言われたようです。また一つ命がつながりました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ266 予定を入れよう

2020年06月07日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第266回。6月7日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
3日宿用院で葬儀
4日同級生との飲み会
5日松林寺葬儀、シャンティZOOM会議
6日仲間のBBQ
というような1週間でした。

6月に入り、そろそろ動き出した感じですね。
何か予定があると、どんなことでもワクワクします。
どんなに楽しいことも、時間が経てばその日は確実にやってきてあっという間に過ぎ去っていきます。終われば寂しさが残ります。
楽しいのはその当日よりもそれを待つ時間の方、楽しみを待つ時間が一番ワクワクするのではないでしょうか。
自宅待機の状況の中で、何もすることがない空虚な日々を過ごしました。
しなければならないことの中から優先順位をつけるよりも、何をすればいいのか探す方がつらいですね。
こういう時だからできることを、とは言うけれど、したくないことは気が進まないし、したいこと楽なことに流れてしまいます。
しなければならいことがある方が私にとっては楽でしたね。
近年は年間約50回ほどの法話や講演が入っていましたが、今年は全滅ですね。その分の減収もあります。

老人になっていくというのは、特に男性の場合、するべきことがどんどんなくなっていき、何をすればいいのか分からずにボーっとしている間に何をする気力もなくなっていくということかと思いました。
だとすれば、どんな些細なことでも予定を立て、その日を待つというのがいいように思います。
ちょっと遠くまで買い物に行くとか、久しぶりな誰かと会うとか、映画を見に行く、何でもいいと思います。必要なのは予定です。ワクワク感です。カレンダーに予定を書き込みましょう。

風呂での水没があってから、母親が変わってしまいました。
はじめ、もう風呂に入るのが怖いから入らないと言うので、介護認定をしてもらいデイサービスで風呂に入れてもらおうとしました。
行きたくないというのをなだめすかして試しに行ってみればと無理やり押し込むように連れて行ってもらいました。
それが一度きりでした。
認知症がないわけではありませんが意思はむしろ前よりも固く、だまして行かせるような状態ではありません。
保育所の先生をやっていたのだし、社交性は人よりもあるはずだし、みんなの中に入って楽しく過ごせるのではないかと思っていましたが、逆でした。プライドが許さないのかもしれません。
風呂も自分で入ると言い出し、危なげながらそれは何とかクリアしています。
足の運びが極端に衰えてきました。
寝たきりになりたくない、施設にやられたくないという思いか、ずっと以前からまめに散歩をして、朝のテレビ体操をしていましたが、それでも歩くのがおぼつかなくなってきました。
寺の中は歩いています。あちこちに手すりをつけました。ゆっくりですが一日何度もぐるぐる廻っては仏像のある所で手を合わせます。
ようやく外にも出はじめました。外でも仏像に向かっては手を合わせています。寺の周りを回って目についた草など取っています。去年までは雪解けを待つようにして毎日草むしりしていたのがウソのようです。
会話が極端になくなりました。
食事の後も食卓に残り家族と一緒にいるのですが、自分から何か話すことはほとんどなくなりました。笑顔も少なくなりました。
以前は誘われるとどこにでも一緒に行き、出かけるのが好きなのだと思っていましたが、もうどこにも行きたくない、姉のところにも、食事にも、病院にも行きたくないと拒否します。自分の部屋でゴロゴロしているのが一番いいと言うばかりです。
そんなことでは認知症が進むばかりではないかと思うのですが、意思はなかなか固いのです。
母にとってもう何も予定などいらないということでしょうか。
3月初め、風呂に沈んでその時に何かねじを1本落としたのではないかと思うばかりです。

若いからといって明日の命があるという保証は誰にもありません。
寝たまま命が絶えることもありますし、命があっても体が動かせないことだって起こります。
そんなことはもう日常茶飯事でしょう。
予定が要らなくなる事態もやって来るのです。
予定がある、予定が立てられるうちに、やるべきこと、やりたいことをやりましょう。
もう充分屈んだのですから、あとは高く跳ぶばかりです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。