なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ393 この国の希望

2022年11月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
 三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第393回。11月27日、日曜日。

サッカー好きの私にとって、楽しみなシーズンがやってきました。
日本の初戦の前は、みんな強がったことは言っていても心の中では「せめて引き分け」を願っていたのではなかっただろうか。
実際に前半の試合の様子では、やはりドイツはすごいと諦めムードが私の中で漂っていました。
ところが後半は一転、超攻撃的な布陣が功を奏し、逆転勝利という劇的な結末となりました。
日本国内の報道の過熱ぶりを見ると、なんだみんな勝てないと思っていたのじゃないか、と思いました。
「蚊子の鉄牛を噛む」ような、番狂わせであったことは間違いありません。
その勝利にスポットライトが当たれば当たるほど、陰の闇は濃くなります。
開催国の人権問題は日本ではほとんど報道されません。扱ってもコラムのような話題の一つ程度です。
その点、ヨーロッパの国や選手は敏感で、明確に意思表示してきます。
相手国ドイツの選手も、試合前の記念撮影で全員手で口を塞ぎ「物言わぬ抗議」を示しました。
スポーツと政治をまぜこぜにしない、という考え方があります。
ではスポーツと金はどうなのか。オリンピックの利権がらみの裏がどんどん暴露されています。
カタールへの中国のテコ入れという報道がありましたが、経済を餌にした政治の介入という問題もあるのでしょう。
どうも喜んでばかりはいられないようです。

そんな中、うれしい報道がありました。
試合後の客席を日本のサポーターが掃除をしている、というニュースです。
近年の試合会場で見られる光景で今回初めてのことではありません。なので、これが日本のサポーターの常識、普通の光景になっているということでしょう。
しかし、初めてみる海外の報道関係者にとっては驚きの光景のようで、アメリカの人気番組「スポーツセンター」では、「それを見た人々から称賛の声が上がっている」と紹介して、
「日本は素晴らしい文化」
「西洋の国々はいつも豪華さで感銘させようとするが、アジアの国々は優しさで感銘を与える」
「もっと評価されるべき」
「究極のファンのスポーツマンシップ」
「日本は別格」
「日本は世界の何十年も先を行っている」
「USAには決してできない」
「日本人を愛さずにはいられない」
などと報じました。
更に、日本選手のロッカールームもきれいに整頓されて「ぴかぴか」だったとか。

この国の政治家のだらしなさ、企業や金持ちの利己主義、製薬会社のふがいなさなどなど、国力、民力の低下、先進国などと自負している間にどんどん追い抜いて行かれる置いてきぼり感を感じて、この国を嫌いになりかけていましたが、そうではなかった。
誰かが号令をかけて始めたわけではない、自然発生的に生まれたこの行為。そこがすごい!
「楽しんだ会場を感謝を込めてきれいにしていく」という精神がこの国の、民間の、多くの若者たちの行動で示されていた、というのはうれしいことでした。日本の宝です。
オオタニサンもそうですね。
おそらく、こういう行動をとれる国民は日本人以外いないのではないかと思われます。
欧米だけでなく、他のアジアの国々にも見られない行為、試合後の掃除という行為に日本の希望を感じます。
日本人であることの自信と自慢はここにある、と言っていいと思います。
色んなスポーツで、日本選手がコートやピッチ、試合場に入る時に頭を下げて入る光景を目にします。
相撲の土俵にも似て、神聖な場所という教えが長年なされてきたのかもしれません。
それは相手を敬うことにもつながるでしょう。

日本人はレストランでも、食べた後の食器を従業員が片付けやすいように重ねたり、せめて自分の席の前だけでもきれいにしようとしたりしますが、そういうことが日本人は「気持ちいい」のでしょう。
旅館やホテルでも、帰る際に寝間着やナイトウエアを折りたたんだり、ふとんやシーツを直したりする行為も、日本人には見られます。
その場と従業員に対する感謝の心から生まれる「気持ちよさ」だと思えます。
アメリカメジャーリーグの放送を観る度に、ダッグアウト内の汚さに眉をしかめていましたが、それは掃除する人の仕事を奪わないためだという理屈は分かります。
チップ制度もそうですが、サービスに対する対価という、お金に換算する感謝とは違う感覚が日本人にはありそうです。
「気持ちよさ」を労働の対価とは思っていないでしょう。
古くは、山に入る前に感謝の礼をするとか、木を切り倒す前に手を合わすとか、そのようにすべてのものを敬うという心が太古から日本人に根ざしているものと私は思います。

そういうことができる日本の若者に将来を期待しましょう。
さて、今日の試合は。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ392 生きるとは吐くこと

2022年11月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第392回。11月20日、日曜日。

一昨日の霜で銀杏の葉が、一気に散りました。
まるで黄色い雪が降るようでした。
きれいではあるのですが、いつまでもながめてばかりではいられません。
お寺の銀杏が散ると雪が降る、というのは当地の風説で、間もなく白い物も舞い散ることになるでしょう。
その前に葉の方を始末しておかないと雪の下になり来春が大変になります。
ということで、一昨日はカミさんと二人で一気に片づけました。
その後間もなく雨が降り出したので、ギリギリのタイミングでした。

樹木は二酸化炭素を吸い、酸素を吐くと言われます。
正確には、植物も動物と同じく呼吸により酸素を吸い二酸化炭素を吐き出しているのですが、昼間は光合成によって炭素を取り込むために二酸化炭素を吸い込み、不必要な酸素を吐き出している、ということのようです。
原始の地球は今よりずっと二酸化炭素の濃度が高く、動物が生きられる環境ではありませんでした。
植物が発生し繁茂していく過程で、二酸化炭素が樹木に固定化され、さらに地下に埋没して、酸素濃度が高くなって動物が生活できるような環境になりました。
地球の地上にある炭素は総量一定量で、植物と動物がそれをやりとりして生きてきたのです。
今問題になっている温暖化効果ガスは、地下に眠っていた石炭や石油という炭素を地上に掘り出して燃やすことで発生する二酸化炭素を指します。せっかく寝ていた子を起こして、原始の地球のような環境になりつつあるのです。
ただ、樹木などの植物も、成長する際に二酸化炭素を吸いますが、成長が止まるとその作用も止まり、枯れていくときにはため込んだ二酸化炭素を吐き出していきます。
つまり、1本の樹木が生涯で吸って吐く二酸化炭素の量はプラスマイナス0なのです。
そこで、樹木が排出する二酸化炭素を、ただ朽ちるままに排出させるのではなく、暖房などに活用して排出させていこうというのが温暖化防止対策の木材の利用、バイオマス・エネルギーという方策です。
地上の炭素を燃やすことで二酸化炭素の量が増えることはないのです。
樹木が、生きている間酸素を吐き出し続けているから我々は生きていけます。
動物が二酸化炭素を吐き出しているから樹木は生きていけます。
自らの身体から排出するものによって互いに他を生かしているのです。
命というのはそういう仕組みで作られているものと思います。

人間が亡くなる時、「息を引き取る」と言います。
身体は最期まで生きようとしている、と見ることもできますし、息を吐けなくなったら死ぬのだ、と見ることもできるかもしれません。
もしかしたら、吸うよりも吐くことの方が体力を必要とするということなのでしょうか。詳しくは分かりません。
ただ、人間も、植物と動物の相関関係の枠組みの中に存在するのであれば、人間だって、他の命のために何かを吐き出さなければ生きてはいけないことなのではないだろうか。
生きるということは吐き出していくこと。他の命のために施しをしていくこと。それが生きる意味としてプログラミングされているのではないか、と思うところです。
呼吸もその通りであると思いますが、裸で生まれてきた人間が、生まれると同時にいろんなモノを与えられ、手にして大きくなっていきます。
どれほどの数のモノ、どれほど高価なモノを手に入れたとしても、死んでいくときにはやはり、素っ裸で死んでいくしかありません。
肉体すら消滅し、残るのは骨だけです。
だとするならば、樹木のカーボンニュートラルのように、我々も、手にしたモノを誰かのために排出していくべきではないのか。いやむしろ、排出することがたくさんのモノを手にしてきた意味ではないのか。それが生きるということではないのか。と思います。

生きている間に吐き出していくこともできるし、遺贈という形で、自分が亡くなった時に、自分のモノを必要とする人のために使ってもらうことを約束していく、という方法もあります。
裸で生まれて裸で死んでいく。生きている間に手にしたモノは全て、最も有効に使われるもののために排出する。
そう思って死ねるならば、生きてきた甲斐があるというものではないですか。
良からぬことで手にしたモノでも、自分の意思で役立つことに使うことができます。
大事なのは収入の仕方よりも支出のあり様です。お金の使い方で人間が分かります。
息を吐くように、排出していきましょう。
それが生きるということなのですから。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンサンラジオ391 生きながら死んでいる

2022年11月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第391回。11月13日、日曜日。

昨日は花の鶴楯を創る会の秋の作業でした。
春に植えた桜の苗木の雪囲いと、来春桜の植樹をする場所の選定と整備です。
地元の宝を後世に伝えていくための作業です。
少しずつしか進みませんが、継続して行えば必ず思い通りの宝の山になると信じています。

地酒「山と水と、」の今年度分先行予約販売を、11月1日に開始しました。
それを待っていたとばかりに、当日の0時1分に第1号の申し込みがメールで入りました。
その後も申し込みは続いています。店舗での受付も順調に進んでいるようです。
昨年売り切れて手に入らなかった方、昨年飲んで美味しかったので今年も是非という方々が多くいらっしゃいます。
申し込みはメール(shorin@cup.ocn.ne.jp)でも受け付けています。
内容は、720mlの生原酒と生酒の2本セット。料金は4,000円。
宅配の場合は、着払い送料と代引きにてお受け取りいただきます。
完成は1月中旬の見込みなので、お手元に届くのはそれ以降になります。
生原酒は、今回試しに出してみるのですが、先行予約限定での販売です。
もちろん、一般販売では生酒と火入れ酒も販売します。
昨年充分行き渡らなかった町内の飲食店、温泉旅館に置いてもらう計画です。
今年も今から完成が楽しみです。

突然ですが、医師から余命宣告されたより少しでも長く生きたい方、どんな病気であろうと、寿命を2年延ばしてさしあげます。ただし、一人御堂に籠って祈祷を続けなければなりません。その間は生き続けることができます。
と、言われたとしたらあなたはどうしますか。
たった一人になったとしても命を長らえることを望みますか。
それとも、たった一人生きることに意味はないと思われますか。
命の使い方という命題と通底した問いです。
ある資産家が余命宣告を受けて、「お金はいくらかかってもいい、何とか生きさせてくれ」と医師にすがりついたそうです。
医師は、「いくらお金を積まれてもこればかりは何ともなりません」と答えると、「それじゃあ、こいつの命と引き換えに何とかならないか」と側に立っていた妻を指さしたとのこと。
突然自分の命の終わりを突き付けられた時、人は、何とか助かりたいと思い利己的になることはあり得るでしょう。
しかし、冷静になって考えれば、できることとできないことの区別はつくはずです。
冷静になる前に弱みにつけ込んで金をむしり取ろうという輩もいると思われるので気をつけなければなりません。
本人にとっては藁をもつかむ心境で、ネットの情報などにすがって、まさに命がけで一つの治療法にかける場合もあります。
それはある意味宗教に似ています。
一つの治療法、あるいは特定の人を信じるあまり、周りが見えなくなって、誰の意見も聞かず、お金も時間も全て投げ出してしまう。
信ずる者は救われる、かもしれません。ただ、そのために家族が苦労することもあるでしょう。
もちろん、大切な家族のために何かを犠牲にすることがあっても不思議ではありません。
しかし、問いたいのは、たとえ1年2年寿命が延びたとして、永遠に生きるわけではありません。
それよりも、大切にすべき時間の使い方は別のところにあるのではないかということです。
長さよりも大切な命の使い方、それは何でしょうか。
余命宣告などされなくとも、命の終わりは着実に近づいています。
生きるということは死に向かっていること、もっと言えば、生きながら少しずつ死んでいると言ってもいいかもしれません。
命は、生まれたと同時に死に始めるのです。
死は恐れるものではありません。死んだかどうかは自分では分からないのですから。
死ぬだろうというプロセスに怯えているだけです。
恐れるべきは死ではなく、生きている間になすべきことをなそうとしない怠惰な心です。
必要なのは、冷静に今を見つめる時間です。
今日も一日寿命を縮めてしまいました。
今日なすべきことをなしたのだろうか。
生きていることを喜び合える誰かがいなければ、喜びはありえるのだろうか。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ390 母と比叡山へ

2022年11月06日 04時43分23秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第390回。11月6日、日曜日。

先月23日から始まった怒涛の半月も今日で納まります。
半生においてこれほどスケジュールの詰まった半月はなかったと思います。

23日は、郡内寺院の晋山式に出席。夕方上京。
28日まで布教師養成所の講師を勤めました。
その午後、大宮でシャンティの会長と人事について話し合い。
そのまま、新潟県十日町市へ。
友人の寺の400年祭と晋山結制退董式。永平寺御専使を勤めました。
30日山形に戻り、31日葬儀。
11月1日から4日まで、松林寺の団参で比叡山参拝と京都名刹の旅へ。
昨日5日午前に葬儀。終わって郡内寺院の慶弔会。
昨日今日と、本葬と晋山式に出席、法要解説を勤めます。
考えただけでも目が回るようなスケジュールでした。
実際、頭の中が船に乗っているようにふらふらしています。

実は、1日からの旅の始まりは、仙台港から名古屋港までのフェリーでの移動でした。
大型フェリーとはいううものの、やはり海の上、全く揺れないということではありません。
横になっていてもゆらゆらふわふわと浮いているような感覚です。
何人か船酔いをしてしまった人もいました。
陸に上がってからもふわふわは続き、なかなか収まらず、現に今も続いているのです。
それにしても今回の旅はなかなかいい旅になりました。
名古屋港から湖東三山の一つ、百済寺へ。
聖徳太子創建という古刹は、回遊式庭園が有名で、多くの木々に囲まれとても雰囲気のいい、心が洗われるような寺でした。
その晩はおごと温泉に宿泊。とてもいい宿でした。
次の日は目的の比叡山延暦寺参拝。西塔と東塔を巡りました。
ちょうど今御開帳しているという椿堂も参拝できました。
そこから鷹峰の源光庵へ。曹洞宗寺院であるここはシャンティの協力寺院でもあり、一度伺ったことがあります。
そんなことで、特別に住職がお話をしてくれ、お土産までいただきました。
その晩は湯の花温泉に宿泊。とても賑やかに過ごしました。
最終日は、亀岡からトロッコ電車に乗り嵐山まで保津川渓谷を見ながら下りました。
竹林の小道を通って臨済宗京都五山の天龍寺へ。世界遺産の借景庭園は圧巻でした。
帰りは伊丹空港から山形空港へ。3泊4日、25名の団体旅行が無事終わりました。

母親が亡くなってまだ49日も過ぎていないのにという気がかりはありましたが、亡くなった時点で既にキャンセルは難しい状況でしたので、意を決して実施することにしました。
父と母は檀家を連れて何度も何度も巡礼に出かけていました。
きっと背中を押してくれていると思いました。
母を一緒に連れて行くようなつもりで寺を出ました。
比叡山の釈迦堂で、供養のローソク献灯ができましたので、母の戒名を書いて納めました。
お陰で無事に行ってこられました。母が見守ってくれていたと思います。

明日からも、しなければならないことはたくさんありますが、体を休めながら一つ一つこなしていきたいと思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。