三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第367回。5月29日、日曜日。
一昨日、27日は中野重孝さんの祥月命日でした。
ショックで「死んだらだめじゃん」と叫びましたが、あれから丸1年が経ちました。
もちろん死んでいい人などいませんが、それぞれにとって大切な人はいます。
亡くなっては困る人、喪失の寂しさに耐えられない人、世の中にとって大きな損失になる人。
会いたいと思っても会えない存在になることは、やっぱり寂しいです。
教えていただいたこともたくさんありました。
二人で布教師検定員を務めた時のこと、中野さんが合掌礼拝について語りました。
「合掌礼拝は丁寧にしなければならない。頭をチョンと下げるだけの礼拝ではだめ。5秒ぐらいは頭を下げないと」と話し、自らがやって見せました。
普段から、中野さんはとても丁寧な礼拝をされると感じていました。
時には、丁寧過ぎるのではないかと思うこともありました。イラッとしたことさえ。
しかし、その時、「そうだな、本当だな」と思ったことです。
供養の心を体で表現するのが合掌礼拝だとすれば、やっつけ仕事のような、数ある中の一つのようなしぐさではなく、現前の仏に唯一無二の心から奉げる合掌礼拝でなければならないと素直にそう思いました。
以来、礼拝を行ずるときは、中野さんの姿を思い出し、それをマネて丁寧にするようになりました。
亡くなられてからは、それはもう遺教として私の体の中に沁み込んでいます。
合掌礼拝する度に、中野さんを思い出すことができます。
亡くなってしまえば教えを受けられないわけではありません。
その教えを我が身で行ずるとき、そこに教えの主は生き続けるのです。
先週本葬を勤めた会林寺方丈様の教えも我が身に生きています。
人を分け隔てしない、常に和やかな顔で人に接する、丁寧な言葉遣いをする。
その姿を思い出すとき、自分も和やかな顔になっていると思います。
すると、その顔を見た人も和やかな顔になるでしょう。
一人から一人へ、やわらかな菩薩の顔が伝わって、やがて世界中が和やかな平和な世界になる。
それがお釈迦様の願いであると受け止めます。
それを体全体で示してくれたのが会林寺方丈様でした。
遺弟が謝辞でこう述べました。
「寺に小さな子供が来ると、師匠はおまじないだと言って、頭をなでながら『頭よくなれ、賢くなれ』、体をさすりながら『大きくなれ、丈夫になれ』と言っていました。先日仙台から家族で弔問に来てくれた子が『もう大きくなれしてくれないの?』と悲しい顔をしました。もとより師匠は名誉や地位には全く興味がない人でしたが、子どもたちから弔問を受け涙を流してもらえることが師匠の功績だと思っています」。
いいですね。マネしたいと思います。
宮崎奕保禅師は「1分マネれば1分の仏、1日マネれば1日の仏、一生マネれば本物や」と言っておられましたが、仏のマネをして生きるのが仏教徒です。
マネするときそこに仏が現れるのです。我が身ながらに仏になるのです。
仏でなくとも、自分の尊敬する人のようになりたいと思い、その人のマネをするときそこにその人が生きるのです。
本物になれないのはマネし続けることができないからだけです。
試しにやってみてください。なりたい人のマネをして、マネし続けて、マネかどうかも分からなくなった時、あなたは既になりたかった人になっていることでしょう。
仏教に「薫習(くんじゅう)」という言葉があります。
弟子が師匠のそばにいて、生活を共にしているうちに、言葉遣いや態度、しぐさまで師匠に似てくるというようなことです。
あたかも線香の香りが身につくようなものだというのが「薫習」の意味です。
親子が似てくるのは、DNAだけの問題ではなく、薫習によるものなのでしょう。
もう既にこの世にいない人であっても、長くおつきあいがあった人を思い出すことで、その思い出により薫習することもあると思うのです。
身に沁み込んだ香りがふと立ち上がってくることもあるでしょう。
いい香りをいっぱい思い出し、香りを増幅させ、自らも香りを発していかなければなりません。
「学ぶ」とは「マネぶ」ことです。マネぶ条件は自分が空っぽであること。頭の中が自分でいっぱいであればマネることはできません。
満水のコップに水を注いでもこぼれるばかりです。
まずは中の水を捨てて、空っぽにしましょう。
空っぽであれば見るもの会う人皆我が師であり、全てが新鮮です。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
一昨日、27日は中野重孝さんの祥月命日でした。
ショックで「死んだらだめじゃん」と叫びましたが、あれから丸1年が経ちました。
もちろん死んでいい人などいませんが、それぞれにとって大切な人はいます。
亡くなっては困る人、喪失の寂しさに耐えられない人、世の中にとって大きな損失になる人。
会いたいと思っても会えない存在になることは、やっぱり寂しいです。
教えていただいたこともたくさんありました。
二人で布教師検定員を務めた時のこと、中野さんが合掌礼拝について語りました。
「合掌礼拝は丁寧にしなければならない。頭をチョンと下げるだけの礼拝ではだめ。5秒ぐらいは頭を下げないと」と話し、自らがやって見せました。
普段から、中野さんはとても丁寧な礼拝をされると感じていました。
時には、丁寧過ぎるのではないかと思うこともありました。イラッとしたことさえ。
しかし、その時、「そうだな、本当だな」と思ったことです。
供養の心を体で表現するのが合掌礼拝だとすれば、やっつけ仕事のような、数ある中の一つのようなしぐさではなく、現前の仏に唯一無二の心から奉げる合掌礼拝でなければならないと素直にそう思いました。
以来、礼拝を行ずるときは、中野さんの姿を思い出し、それをマネて丁寧にするようになりました。
亡くなられてからは、それはもう遺教として私の体の中に沁み込んでいます。
合掌礼拝する度に、中野さんを思い出すことができます。
亡くなってしまえば教えを受けられないわけではありません。
その教えを我が身で行ずるとき、そこに教えの主は生き続けるのです。
先週本葬を勤めた会林寺方丈様の教えも我が身に生きています。
人を分け隔てしない、常に和やかな顔で人に接する、丁寧な言葉遣いをする。
その姿を思い出すとき、自分も和やかな顔になっていると思います。
すると、その顔を見た人も和やかな顔になるでしょう。
一人から一人へ、やわらかな菩薩の顔が伝わって、やがて世界中が和やかな平和な世界になる。
それがお釈迦様の願いであると受け止めます。
それを体全体で示してくれたのが会林寺方丈様でした。
遺弟が謝辞でこう述べました。
「寺に小さな子供が来ると、師匠はおまじないだと言って、頭をなでながら『頭よくなれ、賢くなれ』、体をさすりながら『大きくなれ、丈夫になれ』と言っていました。先日仙台から家族で弔問に来てくれた子が『もう大きくなれしてくれないの?』と悲しい顔をしました。もとより師匠は名誉や地位には全く興味がない人でしたが、子どもたちから弔問を受け涙を流してもらえることが師匠の功績だと思っています」。
いいですね。マネしたいと思います。
宮崎奕保禅師は「1分マネれば1分の仏、1日マネれば1日の仏、一生マネれば本物や」と言っておられましたが、仏のマネをして生きるのが仏教徒です。
マネするときそこに仏が現れるのです。我が身ながらに仏になるのです。
仏でなくとも、自分の尊敬する人のようになりたいと思い、その人のマネをするときそこにその人が生きるのです。
本物になれないのはマネし続けることができないからだけです。
試しにやってみてください。なりたい人のマネをして、マネし続けて、マネかどうかも分からなくなった時、あなたは既になりたかった人になっていることでしょう。
仏教に「薫習(くんじゅう)」という言葉があります。
弟子が師匠のそばにいて、生活を共にしているうちに、言葉遣いや態度、しぐさまで師匠に似てくるというようなことです。
あたかも線香の香りが身につくようなものだというのが「薫習」の意味です。
親子が似てくるのは、DNAだけの問題ではなく、薫習によるものなのでしょう。
もう既にこの世にいない人であっても、長くおつきあいがあった人を思い出すことで、その思い出により薫習することもあると思うのです。
身に沁み込んだ香りがふと立ち上がってくることもあるでしょう。
いい香りをいっぱい思い出し、香りを増幅させ、自らも香りを発していかなければなりません。
「学ぶ」とは「マネぶ」ことです。マネぶ条件は自分が空っぽであること。頭の中が自分でいっぱいであればマネることはできません。
満水のコップに水を注いでもこぼれるばかりです。
まずは中の水を捨てて、空っぽにしましょう。
空っぽであれば見るもの会う人皆我が師であり、全てが新鮮です。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。