なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ148

2018年02月25日 05時00分14秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

2月25日、日曜日。

間もなく3月だというのに今年はまだ雪が降ります。
本堂の屋根からつながってしまった雪を切り離すこと2回。
どうしても落ちない所の屋根の雪下ろしが3回。
除雪機に使ったガソリンは間もなく200リットルになろうとしています。
なかなかですね。
フェイスブックやブログを読んでくれている方から「近頃雪の写真がUPされないけどやっぱり雪は多いの?」などとコメントをいただきましたが、雪を話題にすることすら飽きてきている状態で「何か文句ある?」と逆ギレしそうです。
「そだねー」とでも言っておきますか。
銅メダルおめでとう。お姉ちゃんも金メダル、すごいね。

猫ですが。
2匹いた家猫の1匹、名前は「くつした」が昨年10月交通事故で亡くなりました。
門前の国道で車に撥ねられたようで、見つけてくれた近所の人がきれいなまま運んできてくれました。
自分の手で荼毘に付してやろうと思い、古い塔婆を重ねて火をつけました。
甘かったです。
あんな小さな体でも、きれいにお骨の状態にするまで朝から晩までかかりました。
もう1匹の「ロビン」は、腎臓を悪くして病院で週2回の点滴を繰り返し、家でも皮下点滴をしてきました。
病院ではこれ以上手の施しようがないと言われ、骨と皮ばかりの状態で、ひとりにしておくと寂しそうに泣くので、娘も来て代わる代わる抱っこしているような状態でした。
昨晩、娘の腕の中で目を落としました。
そしてもう1匹、こちらは「ノラ」。野良猫なのですが、一昨年あたりから時々顔を出すようになっていました。
元は飼い猫だったらしく、事情があって捨てられたという噂でしたが、とても人懐こく、誰にでもすり寄っていく猫でした。
それが今年になってどこかでケガをしたらしく、足を引きずりながら雪の中を歩いてきて雪まみれになって泣いているので、憐れに思い餌を与えました。
以来、どこで寝ているのか、何か食べているのか、二日に一度のペースでやってきては餌をねだるようになりました。
そして先週、さらにどこかで皮膚がはがれるようなケガをしてきて、餌を与えた次の日、車の下で冷たくなっていました。
どうすればよかったのか、思いは残りますが、寺を頼ってきたのだと受け止め、火葬してもらいました。雪が解けたら納骨しようと思っています。
朝の除雪で見つけ、家族に声をかけると、たまたま来ていた娘、彼女の車の下で亡くなっていたのですが、その娘と家内が飛んできて、憐れんで雪を払いつつノラを撫でているのです。
私は袋に入れようとスコップを持ってきたのですが、彼女たちは素手でノラを抱き上げ、丁寧にタオルケットに包んでいました。
女性というのは、あるいは個人差があるのかもしれませんが、すごいと思いました。
ノラが時々顔を見せるようになってから、家には猫が2匹いるし、台所に入っておかずを漁ったりするし、ノラには家族みんなで邪険な態度をとってきました。
餌をやるどころか石もて追うこともありました。
ところが、くつしたが事故死し、ロビンが病気になって、猫に対する感情も同情に変わってきて、ケガをして雪だるまのようになってやって来たノラをいくら野良猫だといっても邪険に扱うことはできなかったのです。
不憫でした。
不憫でしたが私には彼女たちのようにノラを慈しむことはできませんでした。餌を与えていたのも家内でした。
「慈悲」などという心は、言葉で表現するものではないということを思いました。
慈悲は、「小慈悲」や「大慈悲」と大小をつけて分類することもありますが、その根底にあるのは憐憫の情でしょう。
内と外の区別なく、憐れみの情けをもって接する。そのことを自問する出来事でした。
猫三匹、それぞれの死を悼みます。

お知らせです。来週のサンサンラジオはお休みさせていただきます。
その理由については再来週にでも。


今週はここまで。また再来週お立ち寄りください。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ147

2018年02月18日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

2月18日、日曜日。

オリンピックは日本人にとって昨日がピークだったのかもしれませんね。
瞬間視聴率はどこまでいったのでしょうか。
確かに、金の期待がありながら逃してきた選手もいて、日本中フラストレーションが溜まっていた感じがします。
ようやくスッキリ胸をなでおろした人も多かったでのではないですか。
NHKのアナウンサーは、実況の中で、
「こんな幸せな日に実況できることはうれしいです」というような正直なコメント言っていました。
金銀のワンツーフィニッシュというこれ以上ない結果ですから、さもありなんと思いながら聞きました。
オリンピックで金メダルを取る選手には、何か実力以上のものがあるような感じがします。
「もってる」ということなのでしょうか。
精神力かもしれませんし、運かもしれません。
いやいや、金メダルを取った人に、後から感じる感想だけかもしれませんが。
それでも、4年に一度という世界最大の舞台で最高のパフォーマンスを表現できるのは、やはり「何かもってる」と思いたくなります。
しかし、見る側は勝手なものですね。
あくまでも競技しているのは選手個人であり、勝っても負けてもそれぞれその人の結果に過ぎないのに、要らぬ期待を覆いかぶせたり、メダルを取ることが責任であるかの如くに追い詰めたりしているのじゃないでしょうか。
頼まれもしないのに期待して、勝手にがっかりしたりして、選手にとっては迷惑だと思うんですよ。
毎回オリンピックの度に同じことを思い、同じことを言っているような気がしますが、他ならぬ自分の中の感情なので誰かを批判しているわけではありません。

何だかややこしい言い回しをしてしまっているのは、きっと今読んでいる芥川賞受賞作『おらおらでひとりいぐも』の影響だと思われます。
63歳の女性の心の中の叫びがリアルに岩手弁の文字になっていて、引き込まれながら読んでいます。
題名から、宮沢賢治の『永訣の朝』を題材にしているのかと思い気になって買い求めたのですが、どうもそれとは直接関わりはないようです。
それでも、心理学のように自分の心を言葉にする小説は珍しいでしょう。
「青春小説の対極、玄冬小説の誕生!」と帯に謳っています。
そうか、青春小説の対極は玄冬小説というのか。玄は黒ですが、冬は黒というより白だけどなあ、でも白は「白秋」で秋をさすからなあなどとつぶやきながら。
本当に影響されやすい性格ですね。我ながら。

木曜日、新庄の焼き鳥屋で、「新酒顔見世会」という催しがあり、誘われて行ってきました。昨年秋には「ひやおろしを楽しむ会」というのがあり、それに続く第2弾です。
12種類の新酒の味を見てアンケートに答えるという企画で、酒好きが集まってそれぞれの感想を書いていました。
はじめは違いを楽しみながらどっちがいいというような評価をしていましたが、さすがに12種類となると、どんどん前との違いがあいまいになって、少しずつ酔いも回ってくるし、正確な評価ができなかったと思います。
そんな中に、1本、気になる新酒を発見!
愛媛県の酒で、その名は何と「千代の亀」。私の父親の名前そのままではありませんか。
さわやかで旨かったし、ついついナンバー1の評価をつけてしまいました。
ついでにお取り寄せを発注しました。

ということで、昼は雪かきをしてオリンピックを見て、夜に酒を飲んで寝るという、理想的な正しい冬の過ごし方をしています。
こういうのを「玄冬生活」というのでしょうか。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ146

2018年02月11日 04時59分27秒 | サンサンラジオ
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2月11日、日曜日。

北陸の豪雪は各地に大きな被害をもたらしているようです。
この地方の雪は湿った雪で重いので内陸と違って大変だと思います。
福井の永平寺では「全山作務」と言って、修行僧は通常の行事をほとんど中止して全員で「雪作務」をしているとのこと。
昭和56年の豪雪の時は、長い階段廊下をスノーシューターにして除雪しましたが、今回はどうでしょうか。

今日は11日、来月の今日で震災から丸7年となります。
震災後間もなくから「震災を忘れない」というフレーズが使われました。
ついつい忘れてしまう人と、忘れたくても忘れられない人がいて、その隔たりがまた痛いと感じたものでした。
忘れるとか忘れられないとかは、自分の意志とは違うところで起こる現象です。
認知症の人が自分の意志で物忘れしているわけでもありませんし、忘れたくても時折思い出しては腹を立てたりすることもあります。
親の命日さえ時間が経てば忘れてしまうことがありますから、自分から遠い出来事など忘れてしまうのが自然だと言えます。
「震災を忘れない」という言葉自体「忘れてしまうけど忘れてはいけない」という意味を含んでいます。
ではどうすればいいのか。
忘れてはいけないことは、心に記憶するのではなく、文字として記録しておくのが最もいい方法だと思います。
我が家の仏壇の過去帳には、我が家の先祖様はもちろんのこと、母親の両親、私の妻の両親の他、これまでお世話になった忘れてはいけない方々の戒名がその月命日の欄に書き込んであります。
阪神淡路大震災、東日本大震災発生の日も書き込んであり、毎日掌を合わせるときに、過去帳をめくりああ今日はそうだったね、と思い出しているのです。
これまでお世話になった人々、親も含めて、すべてを記憶しておくのは不可能です。だから文字にして記録しておく必要があると思うのです。
文字にしない、すべきでないことは全て忘れてしまってもいいことだと思います。
記憶は時に邪魔になり、災いの原因にもなります。

江戸時代の禅僧、盤珪禅師は、こんなことを言っています。

 嫁が憎いの、姑が憎いのと、よくいわっしゃるが、嫁は憎いものではないぞ、姑も憎いものではないぞ。
 嫁があの時ああいうた、この時こんなきついことをいわしゃった、
 あの時あんな意地の悪いことをしなさったという、記憶が憎いのじゃ。
 記憶さえ捨ててしまえば、嫁は憎いものではないぞ。姑も憎うはないぞ。

その人が憎いのではなく、記憶そのものが憎いのだ、だから「記憶を捨てよ」と。
皆さんにはありませんか。ふっと思い出しては腹が立つことが。私にはあります。
きっかけはいろいろですが、ふっと頭に浮かんできては、そのシーンが鮮やかによみがえり、メラメラと腹が立ってくることが。
たいがいは、こちらに非がなく相手に非があると思うから怒りになるのです。そして、それを言い返せなかった自分に腹を立てているのです。
忘れてしまえば楽なのに、時折思い出しては苦しむのです。苦しむのは相手ではなく自分です。しかも変えられない過去に対して。何の意味もありません。
だから、「忘れろ」ではなく「捨てろ」と盤珪禅師は言うのです。忘れられなくても「捨てる」のは自分の意思です。
記憶を全て捨て去り”ゼロ”になればこんな楽なことはないですね。
捨てましょう。大事なことだけは記録に残しておきましょう。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ145

2018年02月04日 05時08分06秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

2月4日、日曜日。

2月ですね。昨日は節分、今日は立春です。
節分というと思い出すことがあります。

河北町宿用院に住職したてのころ、町はずれの仏性寺さんと何年か寒行托鉢をしたことがあります。
寒行は、1月5日の寒の入りから節分までの約1か月間、毎晩2時間ほどかけて集落を回るのでした。
仏性寺さんが10年以上も前から寒行をしているという話を聞いて、自分もやってみたいなと思っていました。
その年、仏性寺の方丈さんが訪ねてきて、寒行を手伝ってくれないかと言われました。
毎年寒行スタートの時は、お米をくれる方が多いのだが、胃の手術をしなければならなくなったので体調が不安で、ということでした。
回ってみると、おっしゃる通り、一升マスでドンとくださる方もいて、首から下げた托鉢箱がすぐにいっぱいになるような状態でした。
はじめは大変でしたが、だんだん体も慣れてくるし、毎晩10円玉を握りしめて出てきてくれる子どももいて、やりがいを感じながら歩いていました。
2月が近づいたある晩、村の外れまで歩いて托鉢を終え、二人で歩く帰り道、方丈さんは途中のお菓子屋で立ち止まり「ちょっと待ってくれ」と言って店に入って行きました。
ガラス戸には「うぐいす餅売り始めました」と張り紙がしてあります。
「お茶飲んでいきなよ」と誘われて寺に上がりました。
火鉢の炭で凍えた手をあぶっていると、方丈さんは茶箪笥の中をのぞいて何か探しています。
「これだこれだ」と何とか焼の皿を一枚出してきました。
「別にそんな立派な皿でなくともいいのに」と気遣いを恐縮していました。
すると方丈さんは、うぐいす餅を2個載せたその皿を持って部屋を出て行かれました。
どこに行くのかと思っていると、本堂で鐘の音がしました。勝手に恐縮した自分を恥じました。
そして、部屋に戻ってこられた方丈さんは「陰膳陰膳」とおっしゃいました。
その言葉を聞いて私は、ハッとして方丈さんの心を理解しました。

方丈さんが寒行托鉢を始められた時、当時小学5年生だった息子さんんも一緒に歩いたのだそうです。
雪道の中を、鈴を鳴らしてお経を読みながら歩く親子にとって、毎年心待ちにしていることがありました。
それは、毎年決まってこの時期に売り出されるこの店のうぐいす餅だったのです。
張り紙を見ると、店に飛び込み、寺に帰ってお茶を飲みながら「うまいね、ここのうぐいす餅はやっぱりうまいね」と言って食べるのが親子の寒行の楽しみになっていました。
その息子さんは今永平寺の修行に行っている。
永平寺の冬も寒いから修行が厳しいだろうけど、間もなく節分にもなるし、暦の上では春となる、もう少しの辛抱だから何とか頑張ってもらいたい。
ここに息子がいれば、このうぐいす餅を「やっぱりうまいね」と言って食べるだろう。食べさせたいな。
そんな思いが「陰膳」という言葉と、とっておきの皿に盛られていました。

厳しい修行の中にも楽しみを見つけることはできます。そして希望があります。
「節分」という言葉には、厳しい寒さの中にいながら、暖かい季節はきっとやってくることを確信して耐える、希望を感じさせてくれる力があります。
春はもうすぐそこまで来ています。終わらない冬はありません。もう立春なのですから。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。