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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第208回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
4月28日、日曜日。
春は眠いですね。
夜早くに眠くなり、朝もボーっとして、昼は起きていられないぐらいに眠いです。
病気なのかと思うほど。みんなそうなのでしょうか。
冬眠から覚めた動物が、体を目覚めさせるために木の芽とか山菜を食べると言われていますが、人間もこの時期、覚醒のために山菜を食べたくなるのだと思います。
今年の山菜のスタートは境内のアケビの木の芽でした。やわらかくて苦みがあっておいしかった。
次にはコゴミをいただいて、これもおいしくいただきました。
それぞれの山菜の独特なエグみと苦みが体を目覚めてくれるだろうと期待しています。
これから何が食べられるかなあ、楽しみです。
自分の体は、これまで食べてきたすべての食事でできています。
体に必要なものも、体には良くないものも食べてきました。
食べたいものは必要なもの、と欲望に素直に従ってきたように思いますが、食べ過ぎるというのはどこかコントロール機能が故障しているのでしょうか。
アルコールも旨いということは必要なのだと信じていますが、一口飲めば、体の欲求よりもアルコールがアルコールを呼ぶ感じで、必要以上に摂取してしまうようです。アルコールは寂しがり屋です。
それらも含めて、今の体があります。
更に人間は体だけでできているのではありません。
心というか、精神性も一体となって「人間」となります。
そういう意味で、今の自分をつくってきたのはこれまでの出会いです。
家族との出会いに始まり、親戚、近所、友達、先生、先輩、後輩、同僚、仲間、袖触れ合った人、言葉を交わした人、遠くに見えた人、見えないところで関わっていた人、好きな人、嫌いな人、いじわるされた人、傷つけられた人、傷つけた人、過去に生きた人々との教えという出会いもありました。
初めての出会いばかりではなく、別れという出会いもありました。別れの痛みに耐えたことも出会いでした。
どれほどの人と出会い別れてきたか。
人ばかりではありません。
ペットや動物、その他の全ての生き物、更には映画や音楽、芸能、文化、テレビの情報、本、言葉。
それら全ての出会いが、食べ物のように私の体に入って、今の自分がここに存在しています。
そのことに思いをいたせば、どれほど貴重なこの命かと思います。
何ひとつも無駄なものはなかったはずです。
だとすれば、今、この命を無駄に使えばこれまでいただいてきた命を無駄にすることになります。
あの人との出会いと別れも無駄にすることは、痛恨の極みです。
これまでいただいてきた数知れない命を背負いながら、その責任を果たす使命を感じて生きなければなりません。
嫌なことも忘れたい出来事も含めて、無駄なことではなかったと思える生き方をすることによって過去を肯定することができるでしょう。
それがいただいてきた命の昇華、成仏になるはずです。
残り少ない命ですから、心して生きたいと思います。
ああ、山菜よ、怠惰な惰眠から目覚めさせておくれ。
それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『この空を飛べたら』。
加藤登紀子『この空を飛べたら』
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第208回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
4月28日、日曜日。
春は眠いですね。
夜早くに眠くなり、朝もボーっとして、昼は起きていられないぐらいに眠いです。
病気なのかと思うほど。みんなそうなのでしょうか。
冬眠から覚めた動物が、体を目覚めさせるために木の芽とか山菜を食べると言われていますが、人間もこの時期、覚醒のために山菜を食べたくなるのだと思います。
今年の山菜のスタートは境内のアケビの木の芽でした。やわらかくて苦みがあっておいしかった。
次にはコゴミをいただいて、これもおいしくいただきました。
それぞれの山菜の独特なエグみと苦みが体を目覚めてくれるだろうと期待しています。
これから何が食べられるかなあ、楽しみです。
自分の体は、これまで食べてきたすべての食事でできています。
体に必要なものも、体には良くないものも食べてきました。
食べたいものは必要なもの、と欲望に素直に従ってきたように思いますが、食べ過ぎるというのはどこかコントロール機能が故障しているのでしょうか。
アルコールも旨いということは必要なのだと信じていますが、一口飲めば、体の欲求よりもアルコールがアルコールを呼ぶ感じで、必要以上に摂取してしまうようです。アルコールは寂しがり屋です。
それらも含めて、今の体があります。
更に人間は体だけでできているのではありません。
心というか、精神性も一体となって「人間」となります。
そういう意味で、今の自分をつくってきたのはこれまでの出会いです。
家族との出会いに始まり、親戚、近所、友達、先生、先輩、後輩、同僚、仲間、袖触れ合った人、言葉を交わした人、遠くに見えた人、見えないところで関わっていた人、好きな人、嫌いな人、いじわるされた人、傷つけられた人、傷つけた人、過去に生きた人々との教えという出会いもありました。
初めての出会いばかりではなく、別れという出会いもありました。別れの痛みに耐えたことも出会いでした。
どれほどの人と出会い別れてきたか。
人ばかりではありません。
ペットや動物、その他の全ての生き物、更には映画や音楽、芸能、文化、テレビの情報、本、言葉。
それら全ての出会いが、食べ物のように私の体に入って、今の自分がここに存在しています。
そのことに思いをいたせば、どれほど貴重なこの命かと思います。
何ひとつも無駄なものはなかったはずです。
だとすれば、今、この命を無駄に使えばこれまでいただいてきた命を無駄にすることになります。
あの人との出会いと別れも無駄にすることは、痛恨の極みです。
これまでいただいてきた数知れない命を背負いながら、その責任を果たす使命を感じて生きなければなりません。
嫌なことも忘れたい出来事も含めて、無駄なことではなかったと思える生き方をすることによって過去を肯定することができるでしょう。
それがいただいてきた命の昇華、成仏になるはずです。
残り少ない命ですから、心して生きたいと思います。
ああ、山菜よ、怠惰な惰眠から目覚めさせておくれ。
それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『この空を飛べたら』。
加藤登紀子『この空を飛べたら』
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。