手術の次の日から食事が出ました。
お粥からご飯と、次第に固形物が出てきます。
口から入れば下から出るというのが自然の摂理。
空腹に少しずつたまってきたものが、長い道のりを出口へと向かい、やがて外へと、排出したい欲求が強まってきます。
痔の痛みは、手術で完結ではなく、これから続章が始まるのでした。
術後の次の日から歩くことを指示され、恐る恐る歩きはできたものの、トイレでは全く別の動きが要求されます。
しかも、古びた病院のトイレはまだ、和式の便器でした。
排出の欲求が出てから、早めにその場所に向かい、何とか一段高いところに立つには立ちました。でも、排出するには、そこから屈まなければなりません。
”屈む”
あー、何と残酷な動きであろうか。
手すりをつかみ、痛みとの折り合いをつけながら、そろりそろりと腰を下ろしていきます。
同時に排出の欲求は強まってきます。
「待て、もう少し我慢だ」「痛い」「早く」「もう少し」「あうー」
何とか屈むことまでできました。しかし、排出するには更にもう一つ別の痛みが待っています。
いわゆる「産みの苦しみ」というやつです。
地獄のような手術はようやく終わり、病室に戻ってきました。
年配の紳士と二人部屋でした。
終わった安堵感でゆったりと横になっていました。
点滴を受けながら、看護婦さんの説明を聞いていました。
「痛くありませんか」
「はい、大丈夫です」
「麻酔が切れてくると痛むかもしれませんが、その時は呼んで下さいね」
うつらうつら、まどろんでいると、麻酔が切れてきたのか次第に痛みが現れてきました。
枕元のスイッチを押すと、「どうしました?」と聞いてくれます。
「あの、痛いんですけど」
「分かりました、すぐ行きます」
痛み止めの注射を打ってくれ、やがて痛みは和らいできました。
ところが、少しするとまた痛み出し、「痛いんですけど」
「そんなに続けては打てないんですよ、少し我慢して下さいね」
何とか我慢してみるのですが、寝るに寝られず、唸り声が出てしまうので同室の紳士に申し訳なく、「あの、我慢できないんですけど」
看護婦さんも次第に不機嫌になるのが分かりますが、痛みは他人には分からないのだし、何とかしてもらいたいと懇願しました。
明け方になってようやく少し眠ることができましたが、さんざんな一夜を過ごしました。
回診に来た先生が「眠れたか」と聞くので、「痛くて眠れませんでしたよ」と訴えると、「そうかい、それじゃあ、痛み止めの薬を出せば良かったな」って、あるなら先に出せよ、と腹が立ちました。
肛門は「括約筋」という筋肉が周囲を取り巻いています。
その筋肉で絞っているのです。
括約筋は3分の2まで切除可能と聞きました。
その場所は時計の文字盤で言い表します。「何時から何時」という具合で・・・
要らない知識です。
先生の声は響きます。
「メス」
「ガーゼ」
「針」
「汗」
カチャカチャとせわしなく音がして、やがて手術は終わったようです。
その時、信じられない声が耳に入ってきました。
「タンポン」
エッ?、何て?
耳を疑いました。
止血用なのでしょう。
私は生理を経験してしまいました。
看護婦さんは気を遣って優しく声をかけてくれます。
「気分はどうですか?」
照れ隠しに「腹が減りました」などと苦笑いしましたが、気分はもう泣きそうです。
むき出しの下半身は、うら若き天使たちの真ん中で晒し者です。
立派なものならまだしも、元々控えめな上に、麻酔のせいか、小学生が水に入ったような状態になっていました。まな板の鯉ならぬ、ナメクジに塩です。
露出したままの男の子を不憫に思ってか、熟練の看護婦さんが私の手を取って自分で隠すように導いてくれました。
感覚のある上半身で、感覚のない下半身を触るのは、他人のものを触っているような触感で、不気味でした。
更に看護婦さんは気を遣ってくれて、男の子の上に見えないようにガーゼを当ててくれてくれました。その気遣いが哀れです。それほどかわいそうですか。そう、恥ずかしいよね。自分がかわいそう過ぎます。
手術室に先生の冷徹な声が響きます。
「バキューム」
きれいになったはずのお腹ですが、更に残ったものを完全に吸い出します。
下半身に感覚はありませんが、音だけは聞こえます。
ギューンという音と、ビチャビチャと吐き出される汚い音。
もうどうにでもしてくれと、開き直っていましたが、あまりにもみじめな状態に、血の気が引いていきました。
いよいよ手術の当日、何度もトイレに行き、お腹の中をきれいにしました。
素っ裸に手術着を着て、手術室に入っていきました。
白いタイル張りの、テレビに出てくるあの冷たいそのままの、絵に描いたような手術室です。
手術台の上には、大きな例のライトがデーンと待ちかまえています。
手術台の両脇に、足を載せるとおぼしき受け台が見えます。
これって、分娩台?
そうか、場所が場所だけに、格好は同じか。
案の定、想像していたとおりのポーズとなりました。
下半身を露わにし、いよいよ手術が始まろうとした時、この物語の最大の悲劇が行列でやって来ました。
「失礼しま~す」
えっ、えっ、エッーーー!!!
研修白衣の天使たちが、ゾロゾロと手術室に入ってきたのです。その数20人あまり!
何で?!、何で研修天使が?、何で痔の手術に?、何でこんな若い青年を?
これってイジメ?、何か恨みでも?人権問題?
顔が真っ赤になって、頭の中が真っ白になりました。
下半身麻酔でしたが、思わず叫びました「全身麻酔にしてー!」
忘れていて直前のご案内になってしまいましたが、今度の日曜日、5月30日、宿用院地蔵まつりを開催します。
22回目を迎える今回は、昨年松林寺集中講座で大変好評だった中村ブンさんをお迎えしています!
中村ブンさんは、『柔道一直線』『太陽に吠えろ』『必殺仕事人』などに出演した俳優ですが、シンガーソングライターとしても活動しています。
自分の少年時代の体験を歌にした『かあさんの下駄』は、一昨年リバイバルとして大ブレークし、テレビで話題となりました。
他にも、みんなを元気にする心の歌を歌うアーティストとして各方面から注目されています。
今回も「こころの歌」涙と笑いのコンサート、と題して大いに歌っていただきます。是非この機会に、生の声をお聴き下さい。絶対お勧めです!
「入院」という響きに、何となくあこがれを感じる年頃でした。
小説の中の哀れな薄幸の主人公になったような気分で、心のどこかでニコニコしていました。
手術の前日、看護婦(当時)さんから諸説明を受け、準備が始まりました。
血圧を測ったり、下剤を飲んだりするのですが、熟練の看護婦さんに寄り添い若い看護婦さんも一緒です。ちょうど新人看護婦の研修期間だったのです。
「剃門しますね」
手術に備え、肛門の周りを剃らなければなりません。
下半身を裸にし、足を抱えた状態で泡が塗られ、カミソリが当てられます。
「はい、やってみて」
えっー!研修生がやるのー?!
「アッごめんなさい」
「大丈夫よ」
って、何があったんですか、何が大丈夫なんですか。
この頃から嫌な予感はあったのです。
同じ年頃の、若い白衣の天使には胸がキュンとします。
できたらお茶にでも誘いたいと思います。
腕のケガだったら良かったのに、患部は最悪の場所でした。
診察室の前の長椅子でしばらく待たされた後、ようやく名前が呼ばれ、中に入っていきました。
症状を話すると、下半身を脱いで診察台に寝ろと指示されます。
ゆっくり慎重に横になると、先生はいきなり患部に指をつっこみました。
「ヒッエー!」
診察台に上るにも冷や汗ものなのに、そんなご無体な。
体の中心を激痛が駆け上がります。
「やめて!堪忍して!」
先生は容赦なく中で指をグリグリ回します。
しばらくして指の動きが止まったかと思うと、あろうことか、先生は指をつっこんだまま大きなクシャミをするではありませんか!
何でこんな時に!、しかも、つっこんだまま!
「失礼」って、失礼すぎます。
診断の結果、手術の必要があるということで数日後入院することとなりました。
春休みの終わりのことです。
それが更なる悲劇を招くとは、その時の私は知る由もありませんでした。
書くのを忘れていました。
先日、以前から会いたいと思っていた人に会うことができました。
日本の伝統芸能である猿曳きの村崎修二さんとその息子さんの耕平さんです。
村崎さん親子は、猿曳きの芸で全国を廻っておられるのですが、たまたま山形に来ていることを知らせてくれる人がいて、連絡を取ったところ、何と最上町で公演をするというではありませんか。12日、会場である満沢小学校に行きました。子どもたちだけでなく、地区のお年寄りも連絡を受けて集まっていました。
猿の芸の前に耕平さんが説明をします。
「猿は古くから神の使いとして神聖なものでした。その土地を浄め、その土地の汚れを払う役割として猿回しは伝えられてきました。一度すたれかかった芸を復活したのが村崎修二です。我々は昔ながらのやり方で猿を育てています。決して、叩いたり、怖れさせることなく、ほめて育てています。だから気分が乗らない時は芸をしない時もあります。でも、ここに猿が来ただけでこの土地は浄められたことになるのです」
「他のところでは、叩いて教え込むところもあります。猿はストレスで毛が抜けてしまいます。だから服を着せるのです」
「この猿を見て下さい」
「服を着てますか?裸です。毛が抜けてますか?きれいな毛並みでしょう」
そして、「信頼関係がなければできない芸です」と言って、猿の手をつかんで飛行機のようにぐるぐると回しはじめました。猿は、全身の力を抜いて気持ちよさそうに回っています。
「これを『猿回し』と言います」
その晩、堺田の山田さんのところで酒盛り+雑魚寝をしておもしろい話をたくさん聞きました。私の尊敬する人が村崎さんと対談した時の話を読んで、いつかお会いしてみたいと思っていました。念願かなってうれしいひとときでした。いつかきっと、寺でも公演をお願いしたいと思います。