なあむ

やどかり和尚の考えたこと

免停 7(完)

2012年04月27日 20時33分32秒 | 免停

交番で風船を膨らませて、アルコールが検出されました。

それからいわゆる事情聴取が始まりました。

「住所は?、名前は?、年齢は?・・・」

途中で「タバコ吸うか?」と差し出すのは、絶対「太陽に吠えろ」の影響だと思いました。

カツ丼はとってくれませんでした。

どれくらい呑んだのか、こんな時間まで何をしていたのか。

「麻雀?、レートはいくつでやってるんだ?、何、1?」

「山さーん、コイツらレート1だってよー」

えーと、警察官はそんなこと言っていいんでしょうか。警察のみなさんはいくつでやってらっしゃるのでしょうか。聞きたかったけど黙っていました。

「酒気帯びと酔っ払いは違うんだよ」

「ちょっと立ってみろ、一本足で立ってみろ、その白い線の上を歩いてみろ」

酔っ払いではないようだなと、ミニチュア1本で酔っ払うような素人じゃないや!

でも、酒気帯びでも、一発免停30日、25000円の罰金は免れませんでした。

書類を書かされ、拇印を押して、外に出たら空は白々と明け始めていました。

ラーメンも食べず外で待っていてくれた三人は、済まなそうにしながら迎えてくれました。

結局、その時サークルの話はできませんでしたが、後日ちゃんと「駒沢オリジナル・ソサエティ-」という軟弱なサークルはできあがりました。

無断で車を使って捕まったことがバレたらと思い、自分から話をしてバイトを辞めました。

鬼瓦さんは引き留めてくれましたが、怖いのでキッパリ辞めました。

25000円どうしよう

これが、私が免許をとって最初の違反、酒気帯び運転の免停の顛末です。

お粗末でした。完

多くの皆様にご愛読いただいたようでうれしく思います。

抱腹絶倒シリーズに関心のある方は、カテゴリー「青春の痔」と「巣鴨の怪奇」もご覧ください。


免停 6

2012年04月26日 21時58分09秒 | 免停

白いバンを取り囲んだ警察官は、

「後のドアを開けろ」だとか、

「免許証を見せろ」だとか、

「どこの学生だ」、

「どこに行く」、

「今まで何やっていたか」などなど、たたみかけてきます。

車の底まで念入りに見回しましたが、

「ありませんね」などと落胆の声が漏れてきました。

そのうち、一人が車の中に顔を突っ込んで、

「ん、酒臭いんじゃないか?」

と言い出しました。

「酒呑んでるのか?」

「他の三人は呑んでますが、私は呑んでいません」

「本当か、息をハーッとしてみろ、調べればすぐに分かるんだからな」

「嘘つくと偽証罪になるぞ」

「ハイ、少し呑みました」

「交番に来なさい」

爆弾犯人ではありませんでしたが、酒飲み運転を捕まえて何とか溜飲を下げているようでした。

交番での様子は次回に。


免停 5

2012年04月25日 22時48分53秒 | 免停

友だち思いの私は、部屋から店の鍵をとってきて、店に入り車の鍵を調達しました。

駐車場で四人が車に乗り込み、三茶へと向かいました。

何という不運だったのでしょうか。

ちょうどその直前、三菱商事か何か大企業の社長宅へ送られた小包爆弾が爆発するという事件が起こったのです。

過激派学生運動グループの犯行と思われていたのでしょう。

そんなことは知る由もなく、

「あれー、今日はやけに警察多くねえ」

「何かあったのかな」

「気をつけていくべ」

その時です。

間もなく三茶の交差点にさしかかろうとしたその時、目の前に立っていた警官が赤色灯を横に振ったのです。

「左に入れってかな」

いやいや、それは一斉検問の止まれの合図でした。

勘違いした私は、左の路地に車を向けました。

すると、目の前の警察官の動きが急に慌ただしくなりました。

止まれの合図を無視して「逃げた」と思われたようです。

車は白のバン、中には学生風の四人が乗っている、制止を無視した。

もう、警察官は「本命」「獲った」とざわめいたことだったでしょう。

路地の前からと後からと、自転車やらパトカーやらがわんさか集まって、どの顔も色めきだっています。

何だ何だ、何が起こった。

というところで、続きは次回に。


大震災123 「フクシマ元年」

2012年04月25日 18時45分10秒 | 東日本大震災

先日講演をいただいた、渡辺祥文さんからご紹介いただいた本の一つ、フォトジャーナリスト豊田直己『フクシマ元年』(毎日新聞社)を読みました。

震災直後から被災地に入って取材を続けてきた1年間の記録です。

世界各地の紛争、イラクの劣化ウラン弾の取材をした著者の、偏りのない冷静な文章が一つ一つ腑に落ちます。

福島で何が起こったのか、何が起こっているのか、マスメディアでは報じられない、現場の生の様子が手に取るように分かります。

国は、原発を再稼働させることが最優先で、そのためには原発は安全であることにしなければならず、そのためには、現在それが原因で苦しんでいる福島の人々の様子を伝えることを極力押さえ込んでいるとしか思われません。

広島に落とされた原爆168個分のセシウムが放出されたといわれる、この国最大の事故も、知ろうとしなければ知り得ず、見ようとしなければ見えない、危機的な状況にあります。

もはや、知ろうとしないこと、見て見ぬ振りをすることは、「罪」だと言いたいと思います。

是非多くの人に読んでもらいたい、知ってもらいたいと希求します。

かき消され、押しつぶされてしまっているような福島の人々の叫び声に耳を傾けてください。

4月23日の朝日新聞連載「プロメテウスの罠」で、福島県浪江町赤宇木の男性が昨年11月、避難先から自宅に戻り、包丁で腹を刺して死んだことを取り上げました。

「あれの自殺は、最大の抵抗だ」 (長老)

「人間には、耐えられる限界というものがある」(馬場町長)

福島の人々にだけ苦しみを押しつけてはなりません。


免停 4

2012年04月24日 20時08分17秒 | 免停

ある晩、新しいサークルのことで話を詰めようということで、焼き肉屋の2階の私の部屋に集まることになりました。

私は目の前の店でバイトがあったので、他の3人は私の部屋で待つことにしました。

店が終わり11時頃部屋に戻ってみると、3人でこたつを囲んで三人麻雀をしていました。

部屋にあったアルコールはほとんど飲み尽くし、申し訳程度にサンプルでもらったミニチュアのウイスキー1本を残してくれていました、コイツら。

それをチビチビ飲みながらとりあえず四人で麻雀をしていると、12時半頃「腹減ったなあ」という三人の意見。

私は店で食べてきたのですが、友だち思いの私は、経堂駅前に出ている屋台のラーメン屋に誘うことにしました。

四人でフラフラ歩いて駅前に着くと、何と、その日に限っていつもの屋台が出ていなかったのです。

ここが事件の分かれ目になりました。不運の始まりです。

閑静な住宅街の健全な経堂には、夜中までやっているラーメン屋はありませんでした。

一度食べたいと思ってしまうと、食べられないと分かればなおのこと食べたくなるのが人情というものでしょう。

「どうしようか」

「腹減ったなあ」

「ラーメン喰いたいなあ」

こうなると、私の友だち思いは益々膨らんできます。

「三茶(三軒茶屋)まで行けばあるんじゃない」

「どうやって行くんだよ」

「バイトの店の車がある」

「鍵は?」

「車の鍵の場所は分かってる、店の鍵はオレが持ってる」

「酒呑んだろ」

「ちょっとだけだから大丈夫だよ」

いよいよ、悲劇の始まりです。

続きは次回に。


免停 3

2012年04月23日 21時54分55秒 | 免停

大学で入ったサークルは「広告研究会」でした。

結構大勢の部員が所属していて、アート、コピーの制作班と、調査、理論の理論班に分かれていました。

アート班は、主にチラシや新聞広告などのデザインを研究制作するグループ。コピー班は、広告文書、キャッチコピーなどを研究制作するグループ。調査班は、市場調査、マーケティングを研究実施するグループ、理論班は、文字通り広告理論を研究するグループでした。

私はアート班に所属して、デザインの勉強をしたり、色々なフォントの文字を手書きするレタリングを学んだり、カメラ撮影の勉強もありました。特にレタリングは好きでしたね。

「コンセプト」などの概念を知っておもしろいと思いました。

コピー班の奴と二人で文化祭に向けた作品制作をしたりしました。

原宿のカフェを題材にして、写真を撮ったり、文字とレイアウトをデザインしたり、ワクワクしてました。

全体研究では、「カップスターラーメン」を取り上げて、理論から勉強しましたが、市場調査にも行かされました。

文化部系のサークルではありながら、体質は体育会系で、先輩後輩のけじめ、挨拶、スリッパの並べ方などにうるさい気質がありました。

中でも夏合宿は、とても文化部とは思えないような厳しさでした。

そのあたりは心地よく気に入っていたのですが、秋頃から何が原因だったのか覚えていませんが、違和感を感じ始め、活動にあまり顔を出さなくなりました。

同じように、同期で広研に入ったメンバーが何人か辞めて、そのうちの4人が集まって自分たちで新しいサークルを作ろうではないかという話が持ち上がってきました。

これから話すのは、その4人が関わる事件の話なのですが、また長くなってしまいました。

続きは次回に。


大震災121 「うらやましい」

2012年04月22日 17時42分58秒 | 東日本大震災

昨日はもう一つ、会合がありました。

最上町の「NPO法人やまなみ」が企画しているこの夏の福島支援プログラム「福島っ子キャンプイン最上」の実行委員会です。

何度かの企画会議を経て、最終的な実行委員会には、福島側の共催「NPOりょうぜん里山学校」の代表、関久雄さんも同席されました。

お互いのアイディアとノウハウを出し合って具体的な詰めの打ち合わせでした。

プログラムは、8月1~6日の5泊6日、福島から35名の子どもたちを招いて青空と緑の高原で思いっきり空気を吸い思いっきり遊んでもらおうという企画です。

その延長線上には、放射能疎開の構想もあります。1年ないしはそれ以上、学童を最上町で山村留学のように受け入れようという考えです。

これが、福島の人々の切実な願いであるということも、関さんの話を聞いて分かりました。

さて、この企画の発端となったのは、関久雄さんの書かれた一遍の詩でした。

それはこんな詩です。

「うらやましい」

私はみなさんがうらやましいです。

マスクをつけずに空気を吸えることが。

私はうらやましいです。

家族や友人や地域の人と別れずに暮らせることが。

私はうらやましいです。

普通に野菜や魚、お米が食べられ、水が蛇口から飲めることが。

山や川で遊び、グラウンドをかけ回り、虫や犬や草や木にふれることができる。春は山菜をいただき冬には薪(まき)で暖をとる。落ち葉やわらでたい肥をつくり自然と共に暮らしていける「当たり前の暮らし」がうらやましい。

私はみなさんがうらやましいです。

子どもをたった一人で見知らぬ土地に送り出さなくてもいいことが。

避難をめぐって、「そんなこど、やっこどねえ!」と言い争い、家族がバラバラになることがないこと、家族、友だち、ふるさとを捨てなくてもいい暮らしのあることが。

でも、うらやましがっていても詮(せん)ないことです。

私と私の家族はそんな道を進んでいくしかありません。

どうか、できるところでかまいません。福島を助けてください。

そして、原発を止める動きに立ち上がってください。なぜなら、この日本列島に暮らす限り震災は免れません。

そして原発事故に備えてください。

家具は倒れないように。ガソリンや水、食料、合羽を用意してください。どこに逃げたらいいかを考え、線量計を用意してください。

必ず地震は起きます。10年後かもしれないし明日かもしれません。誰の上にも放射能は降ってきます。だから支え合う仲間とつながってください。

あなたとあなたにつながるすべての人を守るために、福島の教訓を生かしてください。

(2012年1月20日記す)


大震災120 福島の犠牲に報いるには

2012年04月22日 17時38分52秒 | 地球環境

昨晩は「河北町環境を考える会」の総会でした。

総会といっても、わずかな会員で、会費もないので1年間の事業と決算の報告、今年度の計画などをご披露する程度です。

それが終わって、恒例の講演があるのですが、今年のゲストは、福島市の住職渡辺祥文さん、私の同級生でもあります。

曹洞宗の特派布教師、人権相談員をお勤めで、全国を駆け回っておられます。

福島の現状、原発の被害についてお聞きすべくお招きしたのでした。

その内容は予想をはるかに超える厳しさで、これがどこか遠くの国で起こっていることではなく、すぐ隣で、今起こっている現実なのだと、改めて戦慄させられました。

まずはお招きして生の声をお聞きすることも大事なことなのですが、そのままで終わってしまっては対岸の火事になってしまいかねません。

次は、我々が福島に入ってそこに住んでいる人々と同じ空気を吸い、肌で感じ、同じものを食べて自分の問題にしていかなければなりません。

便利さと快適さを追い求めてきた裏腹にこんな危険が潜んでいたことを、我々は思い知らされたわけですが、その犠牲を福島の人々にだけ押しつけしまっては罪です。

日本全国民が自らのライフスタイルを変え、価値観を変えることによってのみ、福島の人々の犠牲に報いることができると強く思います。

国は、原発を再稼働させることに躍起です。そのためには、原発が安全であることにしなければなりません。

そのためには、今まさに苦しんでいる福島の人々ことをなるべく見えないようにしておこうという意図がありありです。

ですから、今福島で何が起こっているのかは、知ろうとしなければ分かりません。見ようとしなければ見えません。

渡辺さんもどこへでも真実を話しに行きますとおっしゃっています。渡辺さんだけではありません。まずは福島の人の話を聞こうではありませんか。

そして、みんなで福島を訪ねようではありませんか。環境を考える会でも近く企画を立てます。ご参加下さい。

昨日はそれに先立ち、最上町で新たな福島支援の実行委員会がありました。それについては別項でUPします。


免停 2

2012年04月22日 16時35分15秒 | 免停

大学入学して1年間は池袋に住んでいました。短大を卒業した姉と入れ替わりなので姉が住んでいた池袋になったのでした。

学内で見かけた女性の後を何となくついていくと、小田急線の経堂で降りたので、2年目は経堂に引っ越すことにしました。

池袋と違って清楚で、静かで気品があって、やっぱり自分は世田谷に住むべきだと思いました。

焼き肉屋の2階を改造したアパートに引っ越して、毎日焼き肉の匂いをかぎながら過ごしました。

焼き肉屋の目の前の京風小料理屋に「アルバイト募集」の張り紙を見て飛び込みました。

小料理屋といっても、ママ(暗がりで見ると鬼瓦のような顔で恐かった)が一人で切り盛りをするカウンター数席と小さな座敷だけのこぢんまりした店です。

バイトは自分一人だけで、鍵を預かって早めに店に入り、掃除をしたりぬかみそをかき混ぜたり、営業中は洗い物をする程度の気楽なバイトでした。

何よりも食事代が浮くことが利点でした。

いいこともありました。

何とリリーが来店したのです。「私は泣いています」のあのリリーです。

酒とタバコで声をつぶしたという噂を聞いていました。

ドキドキしながら見ていると、最初にビールを飲み、その後日本酒、ワインと噂に違わぬ酒豪で、タバコはハイライトを長いパイプに差して吸っていました。何とカッコイイ。

やっぱり経堂は自分が住むべき町だとひとり頷きました。

これから話す本題は、その店に関わることなのですが、また前置きが長くなりました。

続きは次回に。


免停 1

2012年04月20日 21時00分18秒 | 免停

大学入学前の春休みに山形の自動車学校で仮免までとって、路上は東京の教習所に通いました。

東京の意地の悪い教官から田舎者のイジメにあいながら、何とか耐えて免許を取得しました。

初めて自分で運転したのは、夏休みに内房海岸の牛乳屋でバイトしたときです。

駅に迎えに来てくれた社長(バイトはそう呼んでいました)から、「じゃあこれ運転して」とワゴン車の鍵を渡されました。

全く初めて一人で運転するのはドキドキもので、ハンドルに汗がにじみました。

おそるおそる社長の軽トラックの後をついて行くのですが、前が暗くてよく見えません。

しばらくすると、社長が路肩に車を停め私にも停まれと指示します。

社長が近寄ってきて、引きつった笑顔で「ライトつけて」と。そうです、ヘッドライトをつけることすら知らなかったのです。何せ夜道の運転は初めてでしたから。

ライトをつけてみると、何と明るいではないですか。道理で運転しにくい訳だと納得しました。

それでも何とか、社長の自宅までたどり着き、そこに住み込みながら1ヶ月間、臨海学校の小学生に牛乳を届けるバイトをしました。

その間、車をぶつけたり擦ったり、大変ご迷惑をかけました。

そんな役立たずのバイトを社長一家は暖かく使ってくれて、夏休み4年間通うことになりました。

若くして事故で亡くなってしまった社長に、今更ながら感謝をしたいと思います。

私の車の運転はスタートからこんな様子で、で、本題はこれからなのですが、前置きが長くなりました。

続きは次回に。